8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.134


聖者の行進」は本当に早稲田の杜に響いたか


みなさん、わんばんこ、8です。
さて、これから書くのは、35年間も黙っていた、ある種の「悪口」と「暴露」・・・ではないのですが、そう受け取られるかもしれないです。そういうつもりではないことをあらかじめお断りしておきます。本当に昔昔あるところに・・くらいの昔話ですし、私の恥ずかしい思い出話という一面もあるのです。
なお、このサークル、まだあるのです。でも、35年前とはさすがに違っているでしょう。名門中の名門サークルですし、卒業生もたくさん活躍しておられます。しかし、私にとっては、とにかく、残念な思い出の場所。ま、そんなわけで、記憶違いも多々あろうかと思いますが、時効だろう、と判断して書くことにしました。

昭和55年。
早稲田通りから、早稲田大学正門に至る交差点を右折してまっすぐ行った途中に、小さな喫茶店がありました。「プランタン」という名前の喫茶店で、当時ですら、レトロな感じがする旧い店。入学してすぐ、自分の居場所である法学部8号館の真ん前にある喫茶店なので、なにげなく入って自家焙煎のコーヒーを頼んだことがありました。少し贅沢な気分になるけれど、いるのはほとんどが、体育会系のいかつい学生ばかりで、そのギャップがちょっとおかしいなあ、という印象がありました。
4月に早稲田大学に入学し、ブラブラしていた僕が、彼らに出会ったのは、交差点を左折した側にある文学部キャンパスのほうの門の前。彼らというのは、5人編成のバンドです。
トランペット、クラリネット、バンジョー、ベース、いろいろとおもちゃっぽいシンバルとかがついた洗濯板、の5人組。
演奏していたのは、子供のころから結構なじみがあったニューオリンズ・スタイルのジャズで、「聖者の行進」。目の前で観たのは初めての経験でした。極めて高い演奏技術で、びっくりした覚えがある。
なにしろ、自分とそんなに歳が違わない人間が演奏していることが信じられない。高校まで目撃していたのは、せいぜい、たどたどしいブラバンで、「本物のニューオリンズ・ジャズ」なんて、LPレコードの中の音、それを空想している自分の頭の中の映像(なぜかモノクロ)くらいしかない、と思い込んでいたのだから、衝撃です。
彼らは、新入生勧誘のビラを配っていた。すかさず、それをもらった僕は、「必ず行きます」と言ったように記憶しています。バンドの連中は、みな、にこやかで、とても楽しそうな様子で「待ってるよ!」と愛想良く対応してくれた。
「ニューオリンズ・ジャズクラブ」という、そのサークルの案内ビラに載っていた、「集合場所」は、「プランタン」。
そこは、「ニューオリンズ・ジャズクラブ」通称「ニューオリ」の「溜まり場」だったのです。調べてみると、ニューオリは大変な名門サークルらしい、ということも解った。

暖かな小春日和の夕刻、指定の時間に顔を出すと、「部長」(大学3年生)が、決して朗らかとはいえない顔で、「諸君を歓迎する」といったようなことを一くさり述べた。それから、集められた新入生たちは、小分けにされ、数人の先輩たちにくっついて、さっそくどうすればいいのかの指示を受けました。
僕の「担当」だったのは、ベースの人で、門の前で出会ったときにベースを弾いていた人です。なぜベースの人なのかと思ったら、すでに僕はベースに回されていたからです。一応、希望はその場で述べよ、とのことだったので、「サックスかクラリネット」と答えはしましたが、それは、もう希望者でいっぱいであり、余地がないので、僕はベースに廻れ、といわれたわけです。この集合以前に経験者(ブラバン経験者が多かった)優先でほとんど先輩が割り振ってしまっていたのだ、とそのとき、気がつきました。
僕がやっていた弦楽器はギターやウクレレや歌であって、ベースなどさわったこともなかったのですが、興味は多いにあったので、とにかく、そのときは、了解だけして、数日後、文学部キャンパス脇にあるバラックの粗末な部室に向かったのでした。そこは、部室とは名ばかりの単なる「物置」で、中はまるでゴミの山。ゴミ捨て場そのもの、といっていいかもしれません。そこに、ボロボロになった「サークル共有の練習用ベース」が1台あり、それを担当者2人(バンドがふたつ出来ることになっていた)が交互に使って練習をしろ、ということでした。
ふたり同時には出来ないので、ベースの先輩の都合次第で、それに合わせ、ひとりづつ、練習の時間を決めなくてはならない。とにかく、僕は、ある日、先輩の指導を受けるべく、部室に行き、ボロいベースを手渡され、「Fのスケール」を教わった。ジャズでよくあるBフラットではなくて、F。「Fが一番多いんだよ。」と言われたと思います。10分かそこらで、簡単に教え終わると先輩はさっさといなくなってしまい、僕ひとりでポツンと、部室裏のすみっこで黙々と練習をする。
で、スケール練習をしているが、なにせ初心者にとって、コントラバス(ウッドベース)は、きつい楽器です。ちゃんと「音が出る」レベルになるまでが大変。
最初はひたすら「体力作り」と、すべてのキイのスケールを覚えることからはじめるわけです。それは確かに正しい、のかもしれませんが、次に「譜面」を手渡されたところで、困ってしまいました。課題曲が、先輩によって決められていて、そのとおりにしなくてはならない。僕は、今でもそうですが、譜面の読み書きが出来ません。そもそも、ジャズはアドリブの音楽で譜面の音楽ではない、とばかり思っていたので、戸惑いました。自分のレベルから見ると、ずいぶんとハードルの高いところに入ってしまったなあ、と思いましたが、なにせ右も左もわからない1年坊主ですから、とりあえずやってみる、としか考えられませんでした。
やがて、5月になり、ある夜、新入生勧誘コンパがあるので、来い、という案内を受けた。僕は、ちょっと遅れていった。あらかじめ言っておくが、僕は元来時間にルーズです。悪いところなんですが、あまり、厳格に生きていく、というのは不向きな性格なんですね。半世紀以上生きて、他人の上に立つ立場になっても、相変わらず、5分や10分の差などなんでもないと思っていますから。
しかし、ニューオリ、は違っていました。5分遅れていった僕が、「遅れました、すいません」と言ったとたん、先輩にいきなり、こっちへ来いと部長の前に引っ張っていかれた。
あとは、とりかこまれて、まるで軍法会議か警察の尋問です。
あの朗らかそうに見えた先輩たちとは、まるで別。鬼のような形相で全員が僕をにらみ、「おまえ、いい根性してるじゃないか・・」と言ってから、どんぶりにあふれるほど日本酒をついで差し出してきた。
「罰として、これを一気に飲み干せ」という。当時、僕は酒を飲んだことがなかった。未成年だし、酒を飲みたいと思ったこともなかった。もしかすると、死んでしまうかもしれない。まるでヤクザの世界ですね。当時ですら、あまりなかったことだと思います。(こんなことはおそらく今の時代にはないはず。本当に刑事犯になってしまいます。)
そこで、やっと、この連中の正体に気がついたのでした。プランタンにいたむさくるしい連中・・それが目の前にずらりと並んでいる。体育会、応援団、そういう連中なのだ、と。
実際、後に知ったのですが、ここは、早稲田の野球部の一部である応援団の分派でした。ジャズ、とか言っているが、要するに、根性論ばかりの野球部と一体になった「ブラバンの延長」そのものです。
とにかく、なんとかその場は逃れたけれど、「これからあと一度でも遅刻したら殺すぞ」くらいのことを言われたと思う。その後は、まるで「男めかけ」の世界。バンド演奏時には想像も出来ない「にこりともしない偉い先輩たち」にひたすら「お酌をして廻る係」。よく見ると、女性がひとりもいない。当時の「ニューオリ」の正体は、実際に中に入ってみないとわからないものでした。
これはとてもじゃないが、根性なしのヘナチョコである僕は逃げ出すしかないと思いました。なにやら、楽しいはずのことが急にヤクザのフロント企業に入ってしまったサラリーマンのようになってしまった。当然、音楽などやる気にならないし、音楽そのものが嫌いになってしまいそうです。

音楽というのは、あくまで楽しい趣味であり、人を自由にするための手段だ、と、当時から僕は思っていたのです。それを満たさずして、何のための音楽か、ということです。5分遅刻しただけで「殺すぞ」とか言われるところで楽しく過ごせるとは夢にも思えない。
僕は、律儀なところがあるものだから、けじめをつけないと気が済まず、勇気を出して、プランタンに行き、部長に「辞めます」と告げました。
そして、僕は、ときどき顔を出していた、もうひとつの名門サークル「アメリカン・ミュージック・ソサエティ」(アメ研)に、まるで、駆け込み寺のように加入したのです。そして、その後、そのまま4年間、どっぷりとそこで過ごすことになりました。まあ、しかし、アメ研の話、は非常に長くなるので、これはまた別の機会に、書きたいと思います。
その後も、ニューオリと切れてしまったわけではありません。もちろん、演奏側ではありませんが、ベースのもうひとりの方とは、その後もしばしば会って、近況報告をしたり、定期演奏会や学祭での演奏を観に行ったりしました。
事実、というか、記憶はこんなところです。あとは、完全な主観なので、割り引いて読んでいただきたいのですが、ちょっと批判めいたことを書きます。

あえて、時効、と思って正直に書けば、その後、何度も観にいった彼らの演奏は「誰もかれもたいしたことはない」と思っていました。最初のインパクトは大きかったけれど、やはり、落ち着いて見てみると、「ジャズ」というよりも「ブラバン」臭い、のです。
楽譜を見ながらたどたどしく練習しているのが目に見えるような演奏とでもいうのでしょうか。形式も演目もジャズだが、肝心の「ジャズの魂」が見えない。個々の技術だけはやたらと高いが、なにか、肝心なものがない。客も演奏者も、本当の笑顔にならない。とってつけたような芸人の笑顔の裏に、一生懸命で苦しげな感じだけが空を舞っていく・・・。そういう意味では、「音楽はなんのためにあるのか」とても考えされられた経験だったように思います。
とても残念だけれど、いくら、高らかに、巧みな技術で、「聖者の行進」を演奏しようとも、それが「いい音楽」であるとは、当時の僕には、ぜんぜん思えなかった。それが僕が単にヘナチョコの根性なしだったということなのか、それとも、ジャズの捉え方に大きな感覚のずれがあったためなのか、それは、今となっては、わからないことになってしまいました。


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