8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.127
伝説の50年代ニューオーリンズ・サウンド


こんばんはんだごて!もう、なんでもありだ!こうなったら!
やけのやんぱちひやけのなすびいろはくろいがわたしゃはがたたいよときたもんだ!ね?そこのおねいさん、もってけどろぼう!!
って、なんで寅さんにならなきゃいけないのかわからない8鉄です。
実は、つい先ごろ、コジモ・マタッサの訃報が入ってきました。88歳だったそうな。
これはていへんだ、ってんで、今回は、全盛期のニューオーリンズサウンドを支えた屋台骨の方々のお話を。
さて、今回のお話の舞台は、ルイジアナ州、ニュー・オーリンズ。わかるかい、そこのおとうさん!げえこくのアメイリカアのでっかい街だ。ね?そこに、むかしむかしの1945年、シチリア系イタリア人のコジモ・マタッサという、歳のころは、18歳のおにいちゃんがいたんだと。え?小島又三郎?え?ばあさんの従兄弟? 違う違う!又三郎じゃねえよマタッサ!ま、た、っ、さ、だよ、またっさ!まさった、じゃねえってば!ババアは耳が遠くていけねえや!ね、なにがおかしいそこのあんちゃん!


コジモ・マタッサ

この又三郎ならぬまたっさが、フレンチ・クオーターなる小粋な街角にあったおとっつぁんが経営するお店の裏で「レコージング・スタジオ」なんてもっと小粋なもんを作っちまったからさあ、ていへんだ!!おまけに、このあんちゃん、日本のクレイジーケン似のいい男ときたもんだ。
とまあ、寅さん節はつかれるのでこの辺で元に戻してと。え?なにがてえへんかって?
スターは舞台の最前線で活躍しますが、それを支える裏方さんの功績なくしてヒット曲などあり得ない、っていう話、なんですよ。
ちょうど、同じ時期、同じ場所で、デイブ・バーソロミューという、マタッサより少し年上の黒人青年が、ディキシージャズバンドでチューバを吹いていましたが、トランペットをメイン楽器に変更し、アルヴィン"レッド"タイラー(サックス)、アール・パーマー(ドラムズ)、リー・アレン(サックス)らと新しいバンドを結成しました。
そして、バーソロミューのバンドがマタッサのスタジオでレコーディングを始めたとき、ニューオーリンズの「新しい伝説」がスタートします。




デイブ・バーソロミュー

バーソロミューは、1947年、デラックス・レコードでレコーディングを経験しましたが、運悪く、会社は倒産してしまい殆ど話題にはならずに終わってしまいます。そして、1949年に彼はルー・チャッドのインペリアル・レコードの下で、編曲家、バンドリーダー、およびタレント・スカウトとして活動するようになり、やがてインペリアルのレコーディング・プロデューサーとなっていきました。
ここで、彼がプロデュースしたのは、アール・キング、トミー・リッジリー、ロバート・パーカー、フランキー・フォード、クリス・ケナー、スマイリー・ルイス、シャーリー&リー、ファッツ・ドミノといったそうそうたるニューオーリンズR&Bのアーティスト達。特に、バーソロミューの最大の発見は、ファッツ・ドミノで、ドミノのヒット曲の多くのアレンジメントはバーソロミューの手になります。
バーソロミューとドミノは、40年代ジャンプ・ブルースやビッグバンド・スウィングがリズム・アンド・ブルース、ロックンロールに発展していく過程で非常に大きな役割を担ったと言われています。
一方、マタッサは、エンジニアとして、ファッツ・ドミノをはじめとして、リトル・リチャード、レイ・チャールズ、リー・ドーシー、ドクター・ジョンといったニューオーリンズR&Bの最も重要なレコーディングを行い、ドクター・ジョンが「重いドラム、重いギターとベース、軽いピアノとホーン・セクション、力強いリード・ヴォーカル」と表現した、いわゆる「ニューオーリンズ・サウンド」の形成に大きく貢献しました。
バーソロミューは、その後も、リズム・アンド・ブルース、ビッグバンド、スウィング・ジャズ、ロックンロール、ニューオーリンズ・ジャズ、ディキシーランド・ジャズなど数多くの音楽ジャンルで活躍し、ソングライターの殿堂、並びにロックの殿堂入りを果たしています。
マタッサのほうは、1980年代に音楽ビジネスから引退し、以降フレンチ・クオーターにある彼の家族の店舗マタッサズ・マーケットの経営に携わっているそうです。
なお、1999年12月、マタッサの旧いレコーディング・スタジオは歴史的建造物に指定され、更に2007年10月には、ルイジアナ音楽殿堂がマタッサを殿堂入りさせています。



さて、ファッツ・ドミノやリトル・リチャードといった面々のバッキングバンドの音がどれも似たようにきこえるのは、気のせいでもなんでもなくて、実際にメンバーもスタジオも同じだから、同じサウンドなんですよ。



プロデューサー、バンドリーダー、エンジニア以外に、スタジオミュージシャンに目を転じると、最も、有名な、特徴的なセッションメンは、なんといっても、アール・パーマー(ドラムズ)。
パーマーがプロのドラマーとしてのキャリアをスタートさせたのは、40年代のバーソロミューバンドからで、先述したように、50年代、60年代の有名なニューオーリンズのレコーディングのほとんどでドラムズを担当している、といっていい活躍ぶりでした。
しかし、彼のキャリアはそこにとどまっていません。57年にニューオーリンズを離れ、カリフォルニアに移りますが、その60年以上に及ぶレコーディング歴は、フランク・シナトラ、フィル・スペクター、リッキー・ネルソン、ボビー・ビー、レイ・チャールズ、サム・クック、エディ・コクラン、ビーチボーイズ、ニール・ヤング、トム・ウエイツにボニー・レイット、ランディ・ニューマン、リトル・フィート、エルビス・コステロにまで及びます。




アール・パーマー

さらに、メインストリームのジャズ、ブルース界でも大物で、ディジー・ガレスピ、アール・ボスティック、カウント・ベイシー、B・B・キングなどともレコーディングをしています。まさに、2008年に亡くなるまで、「アメリカ音楽ドラマーの王様」そのものでありました。
続いては、有名なサックスマンを2人。
アルヴィン"レッド"タイラーとリー・アレン。
タイラーは海軍時代に軍楽隊に属していてサックスを吹き始めたという、どちらかというと変わり種。50年にバーソロミューのバンドに入り、ファッツ・ドミノのデビュー作、「ファットマン」からずっとつきあっています。当時のミュージシャンの例にもれず、音楽だけで食べていくことは困難ですから、酒屋のセールスマンをしていたそうです。スタジオでは主にバリトンサックスを吹いているのがタイラーですが、実演ではテナーを吹いていることが多かったそうです。72歳で亡くなりました。



レッド・タイラー

アレンのほうは、カンザスの生まれ。タイラーとともに、バーソロミューバンドの要でした。60年代に一度引退しますが、70年代から復帰。
この人は、子供のころからサックスを吹いていて、40年代に奨学金で音楽大学に進んだいわば、エリートミュージシャンです。アレンのほうがかなり年上ですから、活躍は47年のスイングバンド、ポール・ゲイトゥン楽団にまで遡ります。そこから、バーソロミューバンドにスカウトされた人です。50年代当時のニューオーリンズのロックンロールの、実にたくさんのレコードにフィーチャーされていて、間奏、ソロパートをとっているのは、ほとんどこの人です。



1960年代半ばに入ると、昔ながらのニューオーリンズサウンドが廃れてきたために、パーマーとともに、カリフォルニアに移り、飛行機製作工場で仕事に就いて、たまにドミノとツアーに出るくらいになりました。
70年代から80年代のオールドロックンロールリバイバルでまた引っ張りだされたアレンは、ストレイ・キャッツやブラスターズのレコーディングにフィーチュアーされたり、ついには、80年代にローリング・ストーンズのツアーにまでフィーチャーされましたが、あまりの大観衆は、基本的にスタジオセッションマンであるアレンには荷が重く、途中でリタイアしたというエピソードが残っています。



リー・アレン

この人ももう、故人。
さて、話を戻すと、バーソロミューとマタッサがこうした腕のたつセッションマンと作り上げた、50年代特有のニューオーリンズサウンドは、今でも、たくさん出ている当時の録音物で聴くことが出来ます。ま、はやい話が、ドミノとリトル・リチャードを聴いたら、それが、そうなわけです。
マタッサが亡くなった今、50年代の全盛期のすべてを語れる生き証人は、90歳で存命中のバーソロミューくらいになってしまいましたね。


RIP. コジモ・マタッサ! 





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