8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.120
                                                                                       
      
         ウエイティング・フォー・ザ・トレイン 〜 トシオ・ヒラノ物語
  

His voice has that perfect old-timey waver, and his yodel could bring tears to your eyes. His faithful, respectful renditions of heartbreaking country tunes is something to behold."
(彼の声は、完璧なオールドタイムのノリで、彼のヨーデルを聴いたらあなたも涙を流すだろう。彼の、心痛むカントリー曲に対する敬虔な、敬意の念は、観るに値する。)
"A yodeling cowboy from way out east. It's cute as hell."
(はるばる東洋からやってきたヨーデリグ・カウボーイ。超キュート!)

サンフランシスコの新聞で、こう紹介されているのは、おそらく、2014年現在、全米で最も有名な「日本人カントリー・シンガー」平野敏夫さん
お聴きになればわかるとおり、実に旧い、本当に古めかしい、1930年代のジミー・ロジャースから40年代のハンク・ウイリアムス、ロイ・エイカフ、アーネスト・タブといった「カントリーの歴史の伝説たち」の雰囲気をそのまま伝える、素朴さと雰囲気を濃厚にもった方だというのがわかると思います。こうしたものというのは、技術ではありません。味、とでも言うほかない、そこに良さがあるというのもわかると思います。
ところが、この方、日本国内で活躍しているカントリー音楽のミュージシャンやファンの方々にとっては、全く無名なんです。なぜでしょう?
この発端は、こうです。
わたくし、某SNSで様々な方とつながっておりますが、その半分くらいがテキサス、メキシコ方面の方々。ほぼみなさんミュージシャンです。その中のひとりジョゼフさんから、ある日、こんなメッセージがありました。
J「ヒラノさんという日本人のカントリー・シンガーの物語、すごいですね!」
8「は?誰?知らないですけど。」
J「今、全米放送で、toshio hirano storyというドキュメンタリー短編映画が放映されていて、ちょうど観たところですよ。」
8「え?誰だろう?ちょっと調べてみます。」
というわけです。
で、調べてみたら、アメリカに住んでいる日本からの移民の方らしい。確かに、そういう映画が撮られていて放送されたようだ。しかし、誰だろう?
日本のカントリーやブルーグラスの中心にいるミュージシャンたちに知り合いが多いので、SNS上で尋ねてみた。「誰かヒラノさんというカントリーミュージシャンを知らない?」
誰からも、なんの返答もない。それでもしつこく、同じ質問をアップしていたら、大学サークルの大先輩から反応が返ってきた。「私の後輩で、君の先輩だよ。」という意外な返事でした。
それから、あっという間に、大学サークルのOB会連中がどんどん反応し始めて、やっとわかってきた。早稲田伝統のブルーグラスバンド、サニーブルーグラスボーイズ5代目の方でした。(わたくしは16代目でございます)。でも、大学関係以外では誰もなんの反応もしません。日本ではまったく無名だということがわかった、ということです。
さて、そのヒラノさん、平野敏夫さんと言います。どんな方なのか、私も面識がないし、若いころに渡米してアメリカ人として暮らしている方なので、大学関係者もほとんど会っていない。だから、一番よくわかるのは、ネット情報です。
下記に記したのは、サンフランシスコ・ゲートという新聞の記事のわたしの抜粋翻訳です。



平野敏夫は、最初に日本の大学の学生としてジミー・ロジャースの曲を聞いたときのことをよく覚えている。
「それはおそらく私の人生で最も重要な日だった」と彼は言う。
日中は、サンマテオの教育助手;夜は、昔ながらのアメリカのカントリーミュージック、特にジミー・ロジャースを歌う歌手として活躍している。
約25人の若い観客を前に、曲の間、平野は尽きることのないユーモアでステージをこなしている。
白いシャツとカーキ色の服を着た小柄な平野が、彼の腕の下に巨大に見えるギターを抱え、歌うとき、彼の強烈な日本なまりはすっかり消え、彼は歌いながら列車を待つカウボーイとなる。
平野は、奥さんと2人の子供たちとともに、ノエ・バレーに住んでいる。他の家族は、高齢のラブラドールと太った猫。 彼ははダイニングルームにある小さな日当たりの良いアルコーブにギター、バンジョーやレコードコレクションを保持している。
彼は彼が最初に手にしたロジャースの日本盤「レジェンダリー・ジミー・ロジャース・ベスト」を取り出す。 "レコードジャケットには、白いテンガロンハットと蝶ネクタイを身につけたロジャースと彼のモデルAフォードコンバーチブルが写っている。戦後の東京育ちティーンエイジャーにとっては、想像を絶するほどエキゾチックに見えたに違いない。しかし、それだけではなかった。平野がレコードに針を落としたとき、全てが彼を魅了した。そして平野は、彼が愛した音楽の産まれた土地を訪問するために、アメリカへやってきた。彼は1974年に大学を卒業した後、ブルーグラス音楽のふるさとである、アパラチア地方にまっすぐ行って、自転車でツーリングを開始した。
東京の早稲田大学で、平野は、彼が最初にブルーグラスの音楽を発見したアメリカの音楽愛好家クラブ( 「私は変な名前を変換できません」と彼は言う*実際は、アメリカン・ミュージック・ソサエティといいますby8鉄) に参加した。そして、初めてブルーグラス音楽に接した。
「私はそれまで知りませんでした。その独特の鼻にかかったボーカル。それまで接していたキングストントリオのようなフォークとか全然違っていた。」
そこで、アメリカの音楽愛好家のクラブの友人から、ジミー・ロジャースのレコード借りたとき全てが変わった。最初の1曲目、「ピーチ・ピッキン・タイム・イン・ジョージア」を聴いたとき、全てが変わったのだ。
「宇宙全体が彼のサウンドに吸い込まれたようだったそれは素晴らしい経験だった。」
カントリーミュージックの最初のスター、ロジャースは、レコードスカウトであるラルフ・ピアによって、1927年に発見された。彼の最初のヒットは「ブルーヨーデルNO.1 」。若くして、1933年に結核で亡くなっている。



平野はウェストバージニア州とケンタッキー州などで3カ月過ごし、日本に戻ったが、そのすぐ後に、アトランタでエノキダケを販売するベンチャー企業で働くため、アメリカに戻ってきた。
その後、平野はナッシュビルの日本料理店のアシスタントマネージャーとして働き、続いて80年代にテキサス州オースティンに移住。彼はオープンマイクの店で音楽活動を開始。彼は結婚して、1986年にサンフランシスコに移住した。
そして、地元の小さなバーで、毎月1回、ソロで演奏活動を始めた。
「彼はインクレディブルだ」とラルフ・ピア2世は言う。彼はロジャースの発見者であるラルフ・ピアの息子で、 ピアミュージックの会長兼最高経営責任者(CEO) だ。
「平野がしていることは、単なる物まねなんかじゃない。偉大なオマージュだ。」とピアは言う。 "平野のホンモノの憧れの気持は、私たちアメリカ本国人よりも正しいロジャースの解釈を生み出している。そして、ほとんどのアメリカ人よりもずっとロジャースの重要性を見せてくれるのだ。」

平野自身はとても控えめな男だ。 「私にとっては、25人でも大観衆に思える。それ以上は多すぎて、とても扱えない。私はそれで十分満足だ。」

平野は幸せな男である。豊かな人々は常により多くのお金が欲しいし、権力者は常に更に大きな権力を求めるが、彼のような幸せな人にそんなものは必要ない。すでに、彼は欲しいものをすべて持っているのと同じだからだ。



さて、このお話のきっかけとなった、ドキュメンタリー短編映画「ウエイティング・フォー・ザ・トレイン〜トシオ・ヒラノ・ストーリー」は、現在、パソコン上から直接、前編→全編 観ることが可能です。
わたしが、あれこ述べるより、観たほうがずっと速い。百聞は一見にしかず。

"Waiting For The Train - Toshio Hirano Story"(2010)


最後に、わたしから、蛇足ですが、補足すると、本日、5月10日現在、オンラインでアップされた彼のスケジュールは、それまでの月1回、から、毎日という超多忙なものに変貌していました。このままいくと、まず、カーネギーに呼ばれるな、という感触を持って注目しているところです。

無粋なことはもうしませんが、ひとつだけ、ヒラノさんは、なにか、とても大事なことを教えてくれている気がします。それはラルフ・ピア2世が言ったことそのものではないでしょうか。




GO TO HOME