8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.118
                                                                                       
         
         天国からの大きな贈り物〜ジョゼフ・スペンスの音楽
  
「その人にしか出来ない音楽」っていうものがあると思うんですよ。
なにをいきなり、難しそうなことを言うのかって?
ちょっと、最初から話がそれるんですが、ロックの大半って、誰も出来ないんじゃないかな、たぶん。というより、誰がやってもサマになる音楽じゃないと思うんです。
んなアホな!!ざけんじゃねえ!とおっしゃるあなた、気持はわかりますが、ちょっと落ち着いて考えてみて。著作権の話じゃありません。
20世紀初めの楽譜出版時代って、誰でも出来るように、その楽曲そのものが楽譜として売られていました。
そのうち、20年代から映画の時代に入り、「美男美女」が一般大衆のあこがれの的になり、彼らの唄う楽曲は、そのアーティストと直接結びつけられてとらえられるようになりました。でも、まだ、普通の家庭で唄われるような歌(例えばビング・クロスビー=ホワイト・クリスマスとか)が多かった。
さらに、誰が演奏してもよかったのが、「民俗音楽」(カントリーとかジャズとかブルースとか)ではなかったかと思います。
だから、一番、最初のころのロックも、それと同じで、ロックが定着した後とは違うんです。アーティストと楽曲がワンパッケージでとらえられていないんですよね。特にビジュアルがなかった。ロックはジュークボックスとかラジオで普及していった音楽ですから、曲が良ければ、誰が歌っていても関係ない。ヘンな髪型のおっさん、ビル・ヘイリーだって、小さな太ったおっさんのファッツ・ドミノでも構わない。唄っていた内容も、「今夜もロックで騒ごうぜ!」とか「月曜日は憂鬱だ」とか、そんなんだから別に問題はない。
でも、その後、テレビや映画に映し出されるようになってからは事情が変わってきた。ロックンローラーがアイドルになった。すなわち、ビジュアルと楽曲がワンパッケージなった商品になった。
日本でも、昔だったら、にしきのあきら、とか、野口五郎、とか、最近でいえば、嵐とかエグザイルとか、アイドルっているじゃないですか。
あの連中が唄えば、どんなにコテコテのラブソングでも、10代の女の子たちがキャーキャー言いますね?女の子のかわいいアイドルが歌えば、秋葉系のおっさんが黄色い声で応援したりもする。
全く目立たないリーマンのおじさんが、いきなり親しい若い女の子に、真剣に花束かなんか持って、野太い声で「I want you,I need you,I love you♪」とか、ドヤ顔で唄ったら、女の子、絶対逃げるでしょう?周りの人は、気まずい思いするか、爆笑するしかないじゃないですか。
アイドル用に作られた楽曲、そういう商売が音楽産業の基本になった時点で、もう、それは我々一般庶民の、フツーの、髪の毛がどっかいってしまったわたしの、近所の下駄みたいな顔のおっさんの、八百屋のばあさんの、手を離れてしまっている。観たり聴いたりは出来るけど、演奏する側には回れない。
だから、たぶん、エルビスもビートルズもローリング・ストーンズもクイーンも同じで、本国にいる、そういう有名ロック歌手の「イミテイター」って、全部、コメディアンじゃないですか。日本でいったら、コロッケみたいな人ばかりですよ。以前、小室等さんが、「ロックは顔でやるもんだ」って名言残してますけど、その通りだと思います。
その点、民謡、民俗音楽の類、って全然違うんですよ。歌が独立した価値を持っていて、演奏の主体を選ばない。「みんなの歌」です。こちらのほうが普通なのだとすれば、ロックはある意味、大変に特殊な芸能音楽だと言うことも出来ます。
さて、話が全然違うところに行きます。
そういう話とは、まったく別の次元で、「その人にしか出来ない音楽」ってあるんですよ。理論的にそう言わざるを得ない音楽とでも申しましょうか。
とても技術的に難しくて、誰も超えられない、とかいうのとは全く違います。実は、なんと、その逆なんです。その最も有名な例をご紹介します。


「誰も真似出来ないアーティスト」と世界中が認めた人、彼の名は、ジョゼフ・スペンス。
1910年、バハマ諸島に生まれ、生涯、そこで過ごし、1984年に亡くなりました。
スポンジ漁の漁師、石工、大工、学校の夜警などをしていた、ごくごく普通の人です。ギターを弾くのが趣味の、どこから観ても普通のおじさん、おじいちゃんだった人。しかも、プロの演奏家になったことは、生涯、一度もありません。
彼の演奏を普段、生で聴いていたのは、近所の仲間や家族と天の神様です。バハマのミュージシャンが演奏するようなバーなどは、物騒だといって決して出演しようとしなかったといいます。
ところで、神様?なんだそりゃ?って。いやいや、本当なんですよ。
スペンスさんは、9歳のときにもらったギターが気にいって、いつも弾いて遊んでいましたが、誰からも教わっていません。全くの独学で、完全な自己流です。チューニングも独学だったので、普通ではなく、現在、ドロップDと言われているチューニングです。
スペンスさんは、もっと音楽を覚えたい、と思って、同じ島に済むフルート奏者のおじさんのやっていたダンス・バンドに入れてもらいました。そこで、カリプソやポルカなど、いろいろな音楽、ビートを覚えました。でも、別に音楽で食っていこうなんて夢にも思っていなかった。ただただ、楽しいなあ、と思っていただけです。
その後、16歳でスポンジ漁の漁師となったスペンスさん。
スポンジ漁は船にのって沖に出ると、何日も船で過ごすことになるそうです。スペンスさんも、昼間はずっと、漁師として一所懸命汗を流し、夜になると、弦が錆びないよう、大切に布にくるんで持ち込んだギターを取り出し、南の島の満天の星空の下で、ギターを弾き、楽しむ、という生活をしていました。
敬虔なクリスチャンだったスペンスさんの大のお気に入りは、賛美歌です。大好きなラム酒を飲んで、楽しい気分になって、自分のギター、そして、自分の声で、好きなように、自分のやりたいように、誰から教わったわけでもなく、賛美歌を奏でるスペンスさん。賛美歌を聴いていたのは、自分と、頭上に広がる天、そのものでありました。
南国の海にぽつんと浮かぶ小さな船。まるで、美しい絵のような光景が浮かんできませんか?

ところがそんな毎日をぶちこわす大事件が起きます。なぜかわからないのですが、バハマ諸島近辺のスポンジが全滅してしまうのです。
これでは商売にならず、ご飯も食べていけない。仕方なく、スペンスさんは、首都のナッソウに行きますが、時は1938年。やがて、第二次世界大戦が始まり、スペンスさんと奥さんは、アメリカ合衆国に出稼ぎに出かけました。
生涯バハマで過ごした、と書きましたが、アメリカ合衆国に2年ほど暮らしていたことがあるのです。その時期、合衆国南部で、ギターで演奏するブルースとカントリー音楽をたくさん観たり聴いたりしましたが、どれも、「演奏のやり方」を真似をしてみようとは思いませんでした。一説によると、あまりに明るい南国的人柄のゆえ、ブルース(憂鬱)の暗さを好まなかったのではないかと言われているようです。
最初にスペンスを聴いた人が誰でも思うこと、それは、「数人でやっている」ということでした。でも違う。レコーディングされたのは、スペンスさんの自宅がほとんどで、もちろん誰の伴奏もない、種も仕掛けもない、すべて独演です。でも、聴くとそうはきこえないわけです。しかも、よく動くベースランと低音から高音まで和音とメロディーを一緒に弾くのがうまくブレンドされていて、荒っぽいのに、とても心安らぐ、誰が聴いてもわかる演奏です。
おまけに、スペンスさんは、ギターで独奏をしながら、歌を歌った。「え?歌?こ、これが?」って思う人が多いのですが、間違いなく「歌」です。歌詞はあったりなかったり。ダミ声で、ハミングっぽいうなり声を出している。ときどき、げははははは、と爆笑したり、咳払いしたりする。チューニングもたいてい、きちんと合っていない。テキトーです。足踏みでビートをとりながら、演奏するのですが、興が乗ってくると、どんどんアドリブが過激になっていき、あちこちヘンになってくると、「ごにゃごにゃ」とごまかしてしまいます。それに、この人は「元祖ラッパー」みたいな人で、歌の合間に、アドリブで、リズムに合わせてラップする。
そして、いつも、終わったんだか終わってないんだかわからない、曖昧なまま、演奏をジャラジャラジャーと終えてしまう。

こうしたものが世界に認知されるきっかけとなったのは、アメリカ合衆国に住んでいた間になされた、「アラン・ローマックス録音」です。聞き覚えのある方もいらっしゃると思いますが、ローマックスは米国議会図書館用の資料として、各地の民謡を収集して歩いていた人です。さらに、ずっと後になってからですが、50年代には、ブルース研究の第一人者、サミュエル・チャーターズが、バハマのスペンスさんの自宅まで行って録音を行いました。(彼はブルースマンではありませんが、共通するなにかを感じたのかもしれません。)
これらの録音は、スミソニアン(有名な博物館のスミソニアンです)のフォークウェイズというレコード部門から60年代になってから発売され、スペンスの音楽は全米中に知られるようになりました。

余談ですが、面白いことに、スペンスさんは、生涯、自分のレコードを1枚も所有したことがなかったそうです。そもそも、レコードプレイヤーを持っていなかったし、欲しいと思ったこともなかったらしい。
その後、アメリカから呼ばれてカリフォルニアでコンサートを行い、それが大受けして、多くのギタリストから注目を浴びたスペンスさん。
彼に最も影響を受けた有名ギタリストは、ライ・クーダーでしょう。実際、ライのレコードのあちこちでスペンスがよくとりあげた曲をスペンスそっくりに弾いてみせています。
それは少しづつ、大きな影響になっていき、結果的に、世界中の多くのギタリストにとっての、お手本のひとつになっていったのです。
さて、ここで、実は、とても面白い矛盾が発生しました。なんだかおわかりでしょうか?
「スペンスのコピーをする」「スペンスそっくりに弾く」ということは、すでに「スペンスではない」ことになるからです。
スペンスさんの音楽の一番いいところは、独創性あふれる自己流ギター奏法から、ダミ声のハミング、いきなり出てくるゲラゲラ笑いを含め、「音楽は、オリジナル曲なんかいらないし、好きな曲を、演奏者が、まったく自由気ままなスタイルでやって良い」というところにあるんです。これを「スペンス魂」とでも呼ぶとすると、「スペンスの完全コピー」なんて、外見はそっくりに出来ても、不自由極まりない音楽なのですから、スペンス魂とは対極にある音楽、ということになります。
では、例えば、スペンスさんが好きでよく弾いていた「great dreams from heaven」を、あなたが自己流で自分だけのやり方で弾いたら、それは、もう全然スペンスさんの音楽には似ていないはずです。
だから、「スペンスさんの音楽」は、スペンスさんがやるからスペンスさんの音楽なのであって、他の人がやったら、それはその人の音楽になってしまう。スペンスさんの音楽は、他の人が演奏したら、その意味を失ってしまう。だから、「その人にしか出来ない音楽」と言わざるを得ないのです。
1970年代、スペンスさんは心臓発作を起こして、当時やっていた大工を辞めざるを得なくなりました。そこで、学校の夜警の仕事に就きました。
そして、バハマから出ることなく、1984年に亡くなりました。
最後に2つのエピソードをご紹介して、今回はおしまい。
ライ・クーダー:
「スペンスは、既存のスタイルにとらわれずに、まったく違う方法でまったく新しい奏法を独力で生み出した、本当に世界にひとりしかいない人物だ。」

スペンスさんに、あるとき、かの有名な「カーネギー・ホール」から、出演依頼が来ました。
「うーん、俺は、今、旅行する気分じゃないんだ。かみさんと家にいるほうがいいや。」
そして、その通り、ジョゼフ・スペンス アット カーネギー・ホール」は、実現しませんでした。





GO TO HOME