8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.116
                                                                                       
         
        オンリー・コール・ミー、「ザ・ギタリスト」 〜 チェット・アトキンス
 

 「今、忙しいから、ちょっと、あとにして。」
「え?ちょっと、あときんす?」
空耳もここまで来ると、無理矢理、というか、アホというか、そんな人いるわけない、というか、とにかく、こんにちわりばしは燃えるゴミで分別しましょう8鉄です。
さて、ロックの好きなみなさんも聴いたことあるとか、実は大ファンだとか、会ったことがあるとか、実はマブダチ(死語)だとか、いろんな人がいそうな超有名ギタリスト、チェット・アトキンス。
どっちかというと、アクのない、印象の薄いタイプの地味な人なのにも関わらず、歴史上有数のギタリストとしてはっきり位置づけられているアトキンスの足跡を簡単にたどってみたいと思います。
1925年、ジョージ・D・ヘイが始めた1時間のラジオ番組、「バーン・ダンス」。これは、「グランド・オール・オープリイ」という、毎週開催される「カントリー&ウエスタンのステージ・ショー」を収録したもので、現在まで続く、世界的にも史上最も有名な長寿番組のひとつです。開催場所はテネシー州ナッシュビルで、長らく「カントリー音楽のふるさと」とまで言われてきました。日本で、「カントリー音楽」というと一般的には、「ナッシュビル・カントリー」と言われる音楽を指しますが、それは、グランド・オール・オープリイで紹介されるスターたちの演奏する音楽、という意味です。
我が国では、以前「演歌の花道」とかのテレビ番組がありましたが、そういう感じでしょうか。
このオープリイを支えた最も有名な中心人物は、チェスター・バートン・アトキンス。チェット・アトキンスと呼ばれるギタリスト兼プロデューサーでした。
1924年、テネシー州の非常に辺鄙な町(ブルーグラスの発生地として有名なクリンチ・マウンテンの近く)で、極貧家庭に産まれたアトキンスは、幼いころから重症のぜんそくを患っていて、横になって眠ることが出来ませんでした。座ったまま眠らないといけない。横になると気道が圧迫されてぜんそく発作が起き、窒息するほどの重症だったからです。
最初に手にした楽器はウクレレ、そして、フィドル、ギター。いつもギター抱えて座ったまま眠る。そんな日々を過ごして楽器に親しんだ彼は、生涯そうやって眠りについたと言われています。まさに、文字通り、「生涯、常にギターと寝食を共にした人」でありました。
アトキンスの、大変に影響力を持ったギタリストとしての名声は、彼独特のフィンガー・ピッキングによるギター・プレイにありますが、聴けばわかるとおり、この手の先駆的ギタリスト、マール・トラヴィスの、いわゆる「トラヴィス・ピッキング」をアレンジしたスタイルによるものです。
純粋にテクニカルな話をすれば、最もトラヴィスと異なるのは、右手の指使いで、トラヴィスが親指で、手の平でミュートした低音弦(4〜6弦)でベースラインを弾きながら、人差し指1本で、高音弦(1〜3弦)でメロディとオブリガートを付けるというスタイルなのに対し、アトキンスは、人差し指だけでなく、中指も、場合によっては薬指も加えて、さらに厚みのある、ジャズのコードソロ的なアプローチをした点にあると思います。
アトキンスは、フォーキーで、かつ黒人ブルースの影響が強いトラヴィスよりも、アプローチの仕方が異なるジャンルの音楽、主にヨーロピアン・ジャズ(特にベルギーのジャンゴ・ラインハルト)とクラシック・ギターにも影響を受けており、その複雑で豊かなコードトーン(6/♭9、13th、オーギュメンテッド5thなど)を駆使して、カントリー音楽をより洗練されたものにするのに大きな役割を果たしたと言えます。名声を得るきっかけになった録音「ミスター・サンドマン」(ギターのインスト版)を聴けば、誰でもわかると思います。おしゃれー!なんですよね。当時活躍したアメリカのジャズ・ギタリスト、特にレス・ポール(ジャンゴの影響化にあった)とトラヴィスのフィンガー・ピッキングをかけあわせたようなスタイル、といえばいいのでしょうか。
その革新性によって、アトキンスは史上最もたくさんの賞をとったギタリストのひとりとなりました。(グラミー14回受賞、グラミーライフタイムアウォード、カントリーの殿堂、ロックの殿堂、ローリング・ストーンが選んだ史上最高のギタリストトップ100の21位、など)。



アトキンスが、そのスタイルの基本となったマール・トラヴィスを耳にしたのは、1940年代、高校をドロップアウトして、ノックスヴィルのラジオ局で働き出したころのことでした。当時は、どこのローカル局にも専属バンドがいたのですが、彼はそこでギターを弾いていたのです。もうすでに、当時から、トラヴィス以外にもいろいろな音楽を聴いて、自分のスタイルを確立してきていたアトキンスは、当初、そのあまりにシャイな人柄と音の小ささ、高度だけれども、ジャジーで繊細なギタープレイで、評判があまりよくありませんでした。当時のカントリー界は、テンション・コード(ジャジーな、シックスやメジャーセブンといったコード)を使っただけで、「そんなんじゃ売れん!」とクレームが付いた時代です。アトキンスのギターは、シンプルで野太いものが好まれるカントリー・ギターとは違うと判断されることが多かった。どこのラジオ局の専属バンドに入ってもすぐにクビになってしまう。なかなか認めてもらえない。ローマは一日にしてなまず、じゃない、ならず、でありますな。
彼が晩年まで在籍することになるRCAレコードからはじめてレコードをリリースしたのは、1947年で、ほとんど売れませんでした。そして、49年に伝説的なカーター・ファミリーと合流して演奏活動をともにするようになって、はじめて芽が出ます。やはり、その界隈の超有名人に認めてもらえたことがきっかけになっているんですね。
そして、めきめきと頭角を現したアトキンスは、50年代に入ってから、ナッシュビルのスタジオ・セッションマンとして活躍する一方、オープリイのメンバーとなりました。
しかし、そのシャイな人柄、そして、一見地味な音楽性であるためか、派手なプレイやアクションなど、目立つことをほとんどせず、ヒットこそ出なかった。しかし、堅実で音楽性豊かなセッションマンとしての名声はどんどん高まっていき、セッション・リーダーとして地位を確立。そして、56年についに、演奏技術の粋を駆使して見事にギター・インストに仕立てた「ミスター・サンドマン」がヒット。名声を確固たるものとしました。

このころの有名な録音で使われたのが、ギターメーカー、グレッチのギター(モデル6122)だったため、グレッチがアトキンスとデザイン・コンサルタントとして契約し、有名なエレクトリック・ギターの「チェット・アトキンス・モデル」が誕生します。



また、このころから、裏方としても大物になっていき、RCAのナッシュビル・スタジオのマネージャーになったりもしています。表舞台より、裏方のボス、というあたりがこの人らしいなあ、と思います。
1957年、サンからRCAに移籍したエルビス・プレスリーの大ヒットで、会社自体は大もうけですが、カントリー音楽の売り上げが下がる一方なので、カントリー音楽とそれに携わるミュージシャンたちの仕事を守るため、なんとかてこ入れをしようと画策したのが、今で言う「ナッシュビル・サウンド」で、その中心を担ったのが、裏方プロデューサーとしてのアトキンスでありました。これが、現在もカントリー&ウエスタンを最も特徴づけるサウンドとしてちゃんと活きているあたりからもわかるように、すごい完成度でありました。
実は、面白いことに、ロック音楽に対抗すべく打ち出したこの動きは、自然と「ロック」に寄っていきました。特に、ドン・ギブソンの一連のヒット(「オー、ロンサム・ミー」、「アイ・キャント・ストップ・ラビング・ユー」、「シー・オブ・ハートブレイク」などなど)は、ロカビリーと言えなくもないし、後にロック・アーティストがたくさんカヴァーするようになる作品群です。これがきっかけとなって、カントリーとポップ(ロック)のクロスオーバー・ヒットが出るようになっていきました。
一方、ギタリストとしての、自己名義のレコーディングは、スタジオで、いわば、セッションマンたちがカラオケを作り、アトキンスがその音源を自宅に持ち帰って、リラックスしながらギターを重ねて録音する、という手法で録られていたそうで、病気持ちでシャイな彼にとっては、時間が差し迫ったり、余計な人間関係に煩わされるといったストレスにさらされることもなく、常に新しいアイデアといいムードで作られていて、大きな評価を得ました。

1968年には、地道ながらも、カントリー音楽そのものの方向性を定めた大きな実績から、RCAのカントリー部門の副社長になりました。
彼は、そういった立場からも、多くの優秀なカントリー・ミュージシャンたちを世に送り出すようになります。ウエイロン・ジェニングス、ウイリー・ネルソン、ドリー・パートン、ジェリー・リード、ジョン・ハートフォードなどのビッグネームは、みなアトキンスが後押しをした人たちです。また、60年代、人種差別が大きな問題となっていたころに、保守的きわまりないカントリー音楽界に、はじめて黒人のカントリー・シンガー、チャーリー・プライドをデビューさせたことでも評判になりました。

1970年代に入ると、プロデューサー業、会社重役という重責に悩まされながらも、再びギターで返り咲きたいと思うようになったアトキンス。RCAもなかなか気のきいた会社で、彼はカントリーの重役から解放され、今度は大きな影響を受けたレス・ポール本人とジャズの分野でコンビを組み、再びレコーディング・アーティストとして活躍しはじめます。
このコンビのアルバム「チェスター&レスター」は、彼のキャリアの中で、最も売れたレコードとなりました。
このころ、ギターメーカーのグレッチとは縁を切って、自分名義のモデルはギブソンからリリースされるようになりました。というのも、当時、家族経営だったグレッチは人手に渡り、それまでのグレッチとは比べものにならない、全く別の品質のギターになってしまっていたからです。(現在は日本製になっているはず?)
その後も、アトキンスは、様々な有名ギタリストと競演しながら、カントリー・ギタリストの大御所として、尊敬される伝説のギタリストになっていきました。そして、彼の仕事は、グラミーをはじめ、次々に受賞歴と殿堂入りで埋め尽くされていきました。
事実、カントリー、ジャズに限らず、クラシックからイージーリスニングの分野にわたるまで様々なレコーディングをたくさん残しています。1990年代まで活躍しましたが、96年にガンを患い、2001年に亡くなりました。
カントリー界の大物として、伝説化する一方、アトキンス本人は、生涯にわたって、「カントリー・ギタリスト」と呼ばれることを嫌っていたと言われています。単に「ギタリスト」と呼ばれるのを好んだそうです。彼は、ジャズ・ギターが大好きで、聴いただけですぐにアドリブを展開することもできれば、譜面どおりクラシックギターを弾くことも出来た、万能ギタリストだったからです。
しかし、本人の意向、そして、楽理的な事実をさしおいても、やはり、多くの人が思い描くように、アトキンスは、やはり「カントリー・ギターの王様」だと言ったほうがいいのではないでしょうか。彼を超える人はいまだに出ていない、からであります。

あ、忘れてました。みなさん。
あめましておめでとうございます。(今頃かよ




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