8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.115 |
グッド・ロッキン・トゥナイト 〜 ロイ・ブラウン こんつわ 、8鉄です。忙しいので、挨拶はこの辺で。 さて、いきなりばっさり言いますが、エルビスで有名な「グッド・ロッキン・トゥナイト」は、オリジナルが黒人R&B歌手のロイ・ブラウンで、1947年にブラウン本人によって書かれました。歌い方もそっくりで(というより、エルビスはブラウンの、非常にゴスペルっぽい歌い方に大きな影響を受けている)、エルビスがいきなり、特別な人間として飛び出してきたわけではないことがよくわかります。どんな人でも、必ず、誰かの影響から何かを生み出すものだからです。 そのブラウンは、ほとんど、顧みられることがないまま、1981年にわずか55歳で亡くなっています。 (ロイ・ブラウン版「グッド・ロッキン・トゥナイト」 ロイ・ブラウンは、リズム&ブルース、特に、40年代のビッグバンド全盛期に、ビッグバンド・サウンドに負けずに歌える大声のブルース・シャウターとして活躍した人物です。ブラウンは、同業で、大人気歌手だったワイノニー・ハリスにこの曲を歌ってもらいたくて書いたそうですが、本人に断られたため、セシル・ギャントに持ち込み、ブラウンが歌うのを聴いたギャントがブラウン本人のレコーディングで発売することにして、これはデラックスレコードからリリースされました。 皮肉なことに、このレコードを聴いたハリスは、いたく気に入り、最初断ったくせに、自分でカヴァーすることにしました。わー、ご都合主義だー、ハリスの野郎。。。ってすごい人なんですけどね。 ワイノニー・ハリス版は、ブラウン版より更にいかがわしさ満載の出来映え。これが大ヒットを記録します。(ブラウン版がR&Bチャートの13位、ハリス版は1位)。1948年のことでありました。 ワイノニーはよく歌詞を忘れることで有名で、ラスト近く、忘れたところをhoy,hoy,hoyって歌ってます。エルビスはどうだったかな?あとで聴いてみてください。 (ワイノニー・ハリス版「グッド・ロッキン・トゥナイト」) この曲は、さすがナンバー1になっただけあって、当時のワイルドな黒人音楽の代表曲のひとつとなり、たくさんのアーティストにカヴァーされました。 この曲の「ロッキン」は、スラングで、セックスの比喩であることがよくわかる完全な例として有名でもあります。これを露骨にやった最初の白人、エルビスは、たいへんな勇気がいったことでしょう。なにしろ、お堅いことで有名なアイゼンハワー時代のアメリカですからね。 エルビスがカヴァーしたのは、1954年のことで、まだサンレコードに在籍していたころ。シングル盤の裏面は、「アイ・ドント・ケア・イフ・ザ・サン・ドント・シャイン」で、ストレートなカントリーソングです。卑猥なR&Bソング、「グッド・ロッキン・トゥナイト」とソツのないカントリーを組み合わせて、お堅いミドルクラスの白人にも売れるようにしたんでしょうね。 (エルビス版「グッド・ロッキン・トゥナイト」) さて、作者のロイ・ブラウンは、自作の最も有名な曲を他人のヒットとしてしまいましたが、それがきっかけで、後に「グッド・ロッキン・トゥナイト」の続編である「ロッキン・アット・ミッドナイト」をナンバー2ヒットにまで持ち込んでいます。 ブラウンは1925年の産まれで、ゴスペル一家に育ち、元プロ・ボクサーの経歴もある強者。 1945年にアマチュア大会(のど自慢!)で、優勝、46年には、テキサスに移り、クラブ歌手となりました。そこでは、すでに自作曲である「グッド・ロッキン・トゥナイト」を含む猥雑な感じのブルーズを唄ったりしていたのですが、お上品なクラブではまったくウケず、ルイジアナのクラブで「スターダスト」や「ブルー・ハワイ」なんかを歌う「白人みたいな黒人歌手」としてはじめて有名になります。 しかし、ブルーズにこだわった彼は、クラブをクビになってしまい、古巣のニューオリンズに舞い戻って、有名なクラブ「デュードロップスイン」でブルーズを歌い出しました。 なにしろ、先輩格だったブルース・シャウターのワイノニー・ハリスの大ファンで、自作の「グッド・ロッキン・トゥナイト」を唄ってもらおうと持ち込んで断られたのは、さっき話したとおり。 その後、ブラウンは、デラックス・レコードに移籍し、51年までR&Bチャートで14曲をヒットさせて、人気歌手となりました。 しかし、人気絶頂だった時期が短かったのは、運が悪かった。50年代に入って、彼のようなジャズ系ジャンプブルーズが急速に衰退、R&Bチャートはドゥーワップグループの時代に入るからです。 さらに、彼は正義を貫こうと、未払いのロイヤルティに対する訴訟を起こしたのですが、こうした訴えを起こした黒人は、いかに主張が正しかろうと、当時はブラックリストに載せられ、事実上仕事を干されてしまうというひどい時代でもありました。逆に、脱税で逮捕され、刑務所に送られるなど、過酷な運命をたどったブラウンは、57年になってやっと、ファッツ・ドミノの助力で復帰します。それでも以前のような大スターになることはかならず、「グッド・ロッキン・トゥナイト」の版権も売却し、百科事典のセールスマンとして生計をたてながら、暮らしました。 70年代、有名な「ジョニー・オーティス・ショー」のメンバーになったブラウンは、小さなヒットをひとつだした後、ヨーロッパの小さなレーベル、「ルート66」が、ブラウンの過去の傑作を集めたアルバムを作成(「ラーフィング・バット・クライング」、「グッド・ロッキン・トゥナイト」の2枚)。マニアックな人々から改めて支持を得ました(わたし8鉄もそのひとりです。)が、81年に心臓発作で亡くなりました。わずか、55歳でありました。 (ロイ・ブラウン「ロイ・ブラウン・ブギ」) 40年代後半、「最も白人っぽい黒人歌手」として有名になるチャンスをつかんだロイ・ブラウンの歌い方を基礎として学んで、自分のスタイルを築き上げ、「最も黒人っぽい白人歌手」として世界的スターの地位へのチャンスをつかんだエルビス・プレスリー。 本当は、「シロだろうがクロだろうが、いい音楽だったら、そんなことはどうでもいい」という、そんな、現在では当たり前のことがさっぱり通じない時代に悪戦苦闘し、多くの犠牲を払って産まれてきた音楽、ロックン・ロール。改めてそんなことを感じるエピソードでありますね。 | ||||||||||