8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.112
                                                                                       
              
                    父さん

 みなさん、こんばんは。いつになく、まじめな頑固8鉄です。
 お盆は、いかがすごされましたでしょうか?
 ただしいお盆は、海外旅行にいっちゃったり、ハワイの海でぷかぷか浮かんだり、女の子の尻をおいかけまわしたりするものではないのです!
 え?なに?ねたんでるんじゃないかって?それは、まあ、そのー・・って田中角栄か!
 ちょっと、THE KINGのコラムらしくないかもしれませんが、今日は、そんな我が家のお盆にあったお話におつきあいください。
さて、俺は昭和36年生まれなんですが、人口統計を見ると、びっくりするくらい少ないんですよ。レアもの、ってくらい、V字カットで少ない。なぜか知ってますか?
 いい避妊薬ができた時期だったから、じゃないですよ。
親の世代が少ないんです。昭和一桁は、たくさん兄弟がいて、多かったのに、生き延びた人が少ない。戦争で、撃たれて、爆破されて、空爆されて、栄養失調で、疫病で死んだんですよ。
生き延びた人の子供たちが、俺たちです。
 昭和一桁の連中は、かなり他の世代とは異なる価値観を持っていました
 藤岡藤巻の「父さん」でも歌われていますが、俺の親父も、有無を言わさぬ雷オヤジでした。
車寅次郎(やはり昭和一桁)の名台詞、「それを言っちゃあ、おしまいよ!」としか言い様のない、一瞬で黒焦げになるような、必殺の雷でしたね。
 こう言うんですよ。
 「おまえ、食いたいもん食って、呑気な面して生きてやがるじゃねえか!このクソガキが!」
 「俺がガキのころは、食い物奪い合って、20前には、天皇陛下万歳、って叫んでくたばるもんだと思い込まされて育ったんだぞ!この甘ったれの青二才が!」
 「兄貴はフィリピンで玉砕し、骨すら残ってねえ。俺は16で強制労働に引っ張られて、北海道の炭鉱で泥水すすって、泣きながら雑草食らって生き延びたんだぞ、馬鹿野郎!」
 もう、こっちは、二の句が継げない。黙るしかない、ですよね。それを言われたら。
 オヤジの口癖がありまして、それは、こういうんですよ。
 「戦後生まれは、お勉強は出来るが、人生そのものがまるでわかってねえ馬鹿野郎ばかりだ。」
 オヤジの世代は、立身出世だの、世直しだの、自分探しだの、愛だの恋だの、そんなことは考えただけでも、たてなくなるまで憲兵にぶん殴られた世代です。考えてはいいのは、戦争に勝つことだけだった。毎日、思っていたのは、「どうしたら、空腹が満たせるか?」「どうしたら大人にぶん殴られないで済むか?」それだけです。
 オヤジの世代の人間は、俺の知る限り、建前で何を言おうと、内心では、「世間なんてあてにならない」と信じていましたね。戦前生まれで軍国教育を徹底して受け、死ぬ思いで戦中に育ち、そして敗戦とともに、なにもかもが180度逆転した世界に放り出された世代ですから。
 
政治だの国家だのなんて信じられるわけがない。あっという間に何もかもが反転するんだから。そういう思いをしてきた人たちにとって、戦後に生まれ育ったお勉強の出来る人たちが60年代あたりから言い出した、「自分がなにかすれば世界が変わるかも」とか「もっと世界に平和を」とか、理想主義みたいなものに対する空虚感とか、わかりやすくいえば「あほらし」って感覚をとても強くもってました。オヤジや仲間たちの日々の言動を観ていれば一目瞭然です。
 挙句の果ては、「自分ってなんだろう。本当の自分は・・」なんて言い出そうものなら、いつもの雷の最大級のが落ちてきたものです。
「気でも狂ってるのか?おまえは?そこでぶつぶつ言ってるおまえは、じゃあ、なんなんだ?嘘のお前か?馬鹿者が!飯食ってクソしてるおまえはいったいなんだ?くだらねえこと考えてるやつは暇でしょうがねえやつと決まってるんだよ!くっだらねえこと考えてないで働け!」
 オヤジは、「アタマで、言葉で、どんな理屈をこねようと、世の中変わるときは、いきなり変わるし、クーデター起こしたって変わらないものは変わらない。ましていわんや、民主主義なんてホントかよ?そんなもんで変わるはずなかろうが!」という、至極まともな(と俺は思う)ことをよく口にしていましたよ。子どもの読む世界史レベルでもそんなことは自明の理です。
家のオヤジは、そんなことの是非や論議より、何も信じられない、あてにならない世の中で、自分がどうやったら生き延びられるかということを臨機応変に判断して、激動の時代を生き延びてきたんですよね。
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オヤジの主義は、「悪いやつばぶっとばしてしまえ」というシンプルかつ豪快なものでした。
 中学のとき、行き帰りに不良グループ5人ほどに目をつけられ、取り囲まれて生意気だ、金出せと脅される目に何度もあっていたことがあります。とうとう根をあげて、学校にいけなくなりました。オヤジが一番激怒したのは、「おまえはなんて骨のないやつなんだ!」というところでした。「そんな人間に育てた覚えはないぞ!」っていう。
 戦後直後には、兵隊ヤクザに取り囲まれて殺されそうになったこともあったらしい。むこうは5人で刃物、こっちはひとりで丸腰。オヤジは手近にあった自転車のチェーンをひつかむと、大暴れした。
「見事に顔面に命中して、肉が全部飛び散った」
 それを見て、やくざのグループは腰を抜かして逃げていったんだそうです。
「あの野郎、今でも顔の半分がねえだろう。ざまあみやがれ。」
 それにくらべて、おまえはなんだ!っていうわけ。
 殺されたっていいからおまえも殺せ、っていう調子でしたね。
 とうとう、俺が泣きながら話をするのを聴いていたオヤジは、やおら立ち上がると、台所にいって出刃包丁を持ってきて、懐にいれ、「おまえがやらねえんなら、俺が殺す」といって出て行きました。お袋と俺はそれを必死でとめた。そうでなかったら、あの連中はホントに切り刻まれていたかも。
 その後、俺は、不良連中に囲まれても完全に無視することにしたんですよ。さすがにけがするのは嫌だから。そうやって無視しつづけるうちに、だんだん、むこうも寄ってこなくなった。何をするかわからない気味が悪いやつだと思い出したのかもしれません。
 今でも、俺は初対面の人間には無愛想だし、あまり挨拶もしません。親しくなれば、本気で愛想いいですが。まったくつながりのない。知らないやつとはかかわりません。自分は自分、他人は他人。それはそんなオヤジとの体験があったせいかもしれないと思います。
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 さて、暴れん坊で、おっかないオヤジにも違う一面がありました。
「自分は自分、他人は他人」。当たり前のことですが。
「なんだあ?なにか?おまえは俺とおまえが同じ人間だとでも言うのかね?え?じゃあ、何か?おまえがイモ食ったら、俺のケツから屁が出るのか?こら!答えてみろ!インテリ!」
「男はつらいよ」、車寅次郎の物語は、オヤジの大好きな映画でした。あれも、また、見事に昭和一桁らしい人物像をとらえていたように思います。
 オヤジのもうひとつの口癖は、 「人間、面白けりゃ笑え。悲しけりゃ泣け。なにくそ、と思ったら怒れ。」というものでした。 逆に言えば、逆の態度をとってとりつくろったり、媚を売ったりするな、ということでもある。
 寅は、まるで、そのとおりの人物像だった。そこにとても共感したのだと思う。
 映画館を出てうっすら涙を浮かべながら、「英司、いいか。ああいうのを本当の人間ってんだぞ。」と言っていた親父を思い出します。
 寅さんで思い出しましたが、確か、小学校のとき、オヤジがいきなり見知らぬガイジンさんを連れてきたなんてこともありました。みすぼらしい感じの白人のおっさん。どんな知り合いなのかと思ったら、全く見知らぬ人でした。
 どうやら、彼は交番で話をしていたらしんですが、まったく英語がわからないおまわりさんが困り果てていた。彼は日本語がぜんぜん話せない。
 たまたま、通りかかったオヤジが、片言の英語で話しかけたら、金をなくしたかなにかで弱り果てている様子だったので、「俺の家に来い」と連れてきたということだったように記憶しています。
 狭苦しい、小さな社宅にでっかい白人さんが入ってきて、びっくりしたので、よく覚えている。
 そして、晩飯を一緒に食った。酒も飲ましてやって、なんだかわかったようなわからないような、デタラメな英語でおしゃべりをして、いいから泊まっていけと言って、結局一晩、泊まっていきました。翌朝、オヤジは交通費くらい持って行けといっていくばくかの現金を渡し、しーゆーあげいん、といって別れました。なんか涙ぐんで、さんきゅさんきゅと行って出て行った。
 でも、俺とお袋は、当時でもさすがにびっくりした。ヘンなやつだったらどうすんだよ!とも思った。
 オヤジいわく、「困ってるやつが目の前にいたら、助けるのが正義だろうが!当たり前だろ!」
 だって、交番にいたんだから・・・・
 「馬鹿野郎!おまわりなんかにまかしておけるか!!」
 オヤジがいってることは正しい。大きな、社会的な正義なんて、戦前と戦後で180度変わったりするけど、目の前の絶対的な正義はいつだってどこだって変わらない。
 でも、今だったら、たぶん、世間の常識は、逆になってしまってるんじゃないか?いったい、いつから、こんな世の中になってしまったのか?と思うのです。
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 「こら、英司、物事はな、白か黒かだ。」
 これは、たぶん、俺とオヤジが一番意見が合わなかった点です。
 俺は、物事はそんなに綺麗に割れるはずがない、と思っていた。白でも黒でもない「グレーゾーン」が大半を占めているじゃないか、と主張して譲りませんでした。
 議論であって喧嘩ではないけど、いつもぶつかる部分だった。真と偽、正義と悪、経済、政治、家庭、人間関係、そんなに簡単に割りきれるわけがない!と、俺はどこまでも主張したものでした。
 オヤジは、いつも俺を馬鹿にするような目で見ながら、黙って酒を飲んで、「おまえにもいつかわかる日がくる。」と言うだけでした。
 実を言うと、いつの間にか、俺は自分の子供に「物事は白か黒だ」と言ってるのに気がついた。
 宇宙の真実だの、形而上学的真実だの、複雑系の論理だの、そんなアカデミックなことを言っているのではないのです。実は、単純な話で、「人の社会というのは、単なる決め事だ」ということだと気がついた。
「ああ、そうか、オヤジが言いたかったのはそういうことか。」と中年になったある日に気がついたんですね。
「これは正しい」とか「これは正しくない」とか言うのは、単に、その社会の決め事です。強姦されたらされたほうが処罰される国があったりする。われわれには考えられないようなルールや山ほどある。向こうから観たら、こっちは常識はずれになる。
 決め事なんだから、あいまいなところがあってはいけない。
 法律はよく読み解いていくと、あちこちであいまいがところがあるけれど、それはあえて、そのように作ってあるためです。そもそも、法というのは、なにかトラブルがあって、裁判になったりしたときに「シロクロをつける」ために存在するものなのだから。そうでない限り、「出番がない」のが法というものの本質です。先に法があるのではない。
 普通は、慣習とか取り決めとか一般常識とかで判断をする。それもまた取り決め、決め事なのだから、いいとか悪いとか、ああしろこうするな、とかはっきりしていないと困る。だから物事は白黒しかないことになる。グレーゾーンはわざわざ作るものであって、はじめからあるものではないんです。嘘だと思ったら、国家公務員をとっつかまえて訊いて見るといい。
 何度も言うけど、戦前から戦後にかけての前代未聞の価値観の大転換を経験している昭和一桁世代は、そんなことを大学あたりでわざわざ習わなくたって、感覚的に知っているのです。
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 オフクロは、傍若無人で鉄砲玉みたいなオヤジと正反対の、仏様みたいな人でした。わがままで、今で言えば、亭主関白なオヤジのいうことにあまり文句を言わなかった。俺もうるさい母親だと思ったことは一度もありません。しかし、それは子供の俺がみていた印象だけだった。
 あるとき、大卒(当時は珍しかったし、いいとこのボンボンが多かった)ばかりの職場で、学歴のないオヤジばかり不当に扱われていた時期があった。家で酒を飲んで愚痴をこぼすばかり。なかなか文句を言える立場ではなかったらしい。しばらくたったあるとき、オフクロがついに、切れた。
 「あんたがどうしても言えないんなら、あたしがいってやる!」
 事務所の一番えらいさん(局長)にいきなり押しかけて言ったオフクロは、オヤジから聴いていた不当な点、不適当な点、違法な点を、事務所全員に聞える大声であらいざらいまくしたて、「あんた、どんなエラい人か知らないけど、人の上にたつものとして失格だ!」と言い切って、帰ってきたそうです。
 よく、「口をあんぐり開けたまま、文字通り 開いた口がふさがらない」って言うけど、本当にそういうのを観たといって笑っていた。
 その後、どうなったかというと、すぐ隣の個室にいた理事長(当時は国家公務員トップの天下り)がすっかりそれを聴いていて、局長がこっぴどくとっちめられたらしい。
「ばか者!管理者責任を全うできないなら、クビ!」といわれた。
 あっという間に、周囲の態度がいっぺんしました。局長は家にわびを入れにきて、理事長はオヤジの直談判にも応じるようになり、同僚も誰もひどい扱いをしなくなった。
 そして、オヤジは、そのまま、病気で倒れるまで、25年勤め上げたのです。
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 「生まれ変わったら山の中の鳥になりたい。」
 オヤジがよく行っていた台詞です。
 人間社会なんていい加減なものに振り回されるのはもういやだ、という意味もあったろうけど、オヤジが一番愛したのは、小さな小鳥たちです。
 家は常に小鳥を飼っていました。鳥が死んだときほどオヤジが悲しんだのは見たことがありません。
 俺も昔、コラムに書いたことがあるけど、鳥が一番の親友でした。今でも、雛のころから育てるのはお手の物です。
 人よりも鳥のほうがいい、というのは、どこかロジックがおかしいのかもしれないけど、そう思っていた時期はとても長かったです。
 有名な映画「終身犯」(ジョン・フランケンハイマー 62年)は、現題を「バードマン・オブ・アルカトラズ」といいます。
 殺人で終身刑になり、アルカトラズ刑務所に服役していた囚人の独房に小鳥が迷い込み、えさをあげているうちに、彼になついてしまう。鳥を好きになった凶悪犯は、その後、人生の全てを鳥類の研究に捧げ、刑務所の中で、とうとう鳥類学者として博士号をとるに至る、という、実話です。
 雷オヤジ、めっぽう喧嘩に強い鉄砲玉、傍若無人で我が道を往く頑固者、といったイメージが強かったオヤジが、楽しさと優しさに満ちた表情を最も見せていたのは、小鳥を肩にのせているときだったと思います。
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 オヤジが突然、真夜中に脳卒中で倒れたのは、52歳のときで、ちょうど今の俺の歳にあたります。
 それまでは歳を重ねるごとに人柄も体格も丸くなっていき、片田舎ですが一軒家を手に入れ、オフクロと「引退したら海外旅行に行こう」とかいろいろと夢を創りながら、なごやかにすごしていた矢先でした。
 俺は、大学で遊び歩いていてその晩はいないかったのです。朝、連絡がついて、検見川にある救急救命センターに駆け込んだときには、すでに6時間の手術が終わっていましたが、ほぼ危篤状態でした。2,3日が山でしょう、というのでその晩は一睡もせずに病院につめていたことを覚えています。そんな中、再び脳内出血を起こした親父はもう一度6時間の手術を受け、結果、小脳(旧脳の運動神経中枢)のほぼ7割を摘出するという事態になりました。そうでないととなりにある脳幹を圧迫して確実に死を招くからです。
 助かるはずがないと思っていた親父は命はとりとめたものの、なにしろ、小脳がほぼない状態ですから、当然、運動神経がほとんど失われ、水を飲むことも出来ず、一生寝たきり、喉に管を差したままとなる可能性が高いので覚悟をしたほうがいいと医師に言われました。事実、なんとか嚥下だけは出来たものの、その後、指一本動かすこともしゃべることも出来ず、まばたきすら出来ず、眼球も動かず、そのまま佐倉の病院に転送されました。
 病名は配慮して述べませんが、先天性の脳血管異常が見つかり、それが原因だということがわかった。(厚生省の難病特定疾患)。子供のころに発作を起こして亡くなることが多いそうで、52歳までよくもった、というのが医師の感想でした。
 ところが、ここから、俺たち家族は、「昭和一桁の恐るべき執念と根性」の本領をみせられることになったのです。
 一言で言うと、1年の間に、オヤジは歯を全部失いました。
 口腔内の病気ではなくて、文字通り、歯をくいしばってがんばったからです。本当に歯が全部駄目になるまで歯を食いしばって、立ち上がろうとしたんです。
 左右の位置が大幅にずれたままだけど、目がなんとか動き、少し舌や口が動くようになり、右手は駄目だけど、左手がなんとか動くようになり、少しづつ回復してきたオヤジは、「なにくそ!」と、人間離れした悪鬼のような形相で起き上がろうとし、立ち上がろうとし、そして、歩こうとしました。運動神経が「ほぼ、ない」のに。
 詳しくは書きませんが、1000転び2000起きです。血だらけでがんばった。
 1年後、オヤジは、検見川の救急救命センターの脳外科執刀医を訪ねました。医師は、UFOか緑のこびとでも見たかのような顔をして、言いました。
「あんた、どうやって立ってんの??」
なんとか杖でよちよち歩きをしてみせると、
「歩けるはずがないだろ。どうしてだ?」
と首をかしげるばかりでした。
 1年半近く、入院生活を送った親父は、当然、重度障害者であるため、職場復帰などは夢のまた夢。退職を余儀なくされました。当然、わずかな障害年金のみ。もともと貧乏家庭ですから、俺は、とても大学にいってなどいられないと判断し、大学を辞めて、どこかで働く決心をしました。
 そのことをオヤジに話したことがある。そしたら、どこを見てるのかもわからないちぐはぐな目からぼろぼろと涙を流しながら、ろれつの回らない言葉で、「俺が学歴がなくて、どんなに苦労したか知ってるだろ?おまえが大学に入れたのが何よりうれしかった。なんとしてでも、大学だけは卒業しろ。」ということを言った。
 あんな、雷オヤジがぼろぼろ泣く。俺は、それから最短で卒業することだけを目指して、奨学金を借り、なかなか4年で卒業できない早稲田の法学部を4年で卒業し、10年働いて、全部返済しました。
 それからさらに、数年、オヤジは回復した、とはとてもいえないけれど、立ったり座ったりが自力で出来るまでになり、右半身がすっかりコントロールを失ったままだけど、左手でなにか出来るようになり、ちゃんと食事をしたり、話をしたりするまでになりました。歩くというのは、さすがに介助が必要だったけど、めくらめっぽう、がむしゃらに突き進む様子は、なにがなんでも自力でなんとかしてみせるという強烈な意思を痛いほど感じさせるものでした。
 若いころに好きだった音楽活動も再開しました。
 といっても、半身が不自由で、楽器を弾くことは出来ないので、歌を唄った。
 もともとうまい人でしたが、喉のコントロールも元気だったころのようにはいかない。それでも、ささやかな地元の民謡会に参加し、市の公会堂でソロ歌手として唄うところまでいきました。
 やがて、孫が出来てからは、あまりムキになることもなくなってきて、なにか吹っ切れたというか、諦め、みたいな空気がオヤジを取り巻くようになりました。もう、やることをやりきったかのような感じが出てきた。
 そして、そこから、精神的な意味で、少しづつ、確実に、「老いていった」のではないかと思います。
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 孫が出来てから、孫のことしか気にしなくなったようなオヤジ。一見、よさげに思えますが、病気で倒れてから20年、気力と勢いだけでなんとか生活をしてきたオヤジにとっては、ある意味、気が緩むというのは、致命的だったかもしれません。徐々に立って歩くことが減り、長年の無理な日常生活がたたったのか、腰をすっかり駄目にし、それがきっかけで腎臓を悪くし・・と次々に故障がめだつようになり、入退院を繰り返すことが増えていきました。
 それでも、やはり、豪傑ぶりを発揮することもあった。
 腎不全で全身チューブだらけ、もう、危篤状態になるのが目前と言われていたときも、「俺は帰るぞ!」と言い出す始末。
「そんなんで帰れる分けないだろ!バカなじいさんだ!」と言うと、「うるせえ!ここにはたばこも酒もねえじゃねえか!こら、英司、家に帰るぞ!」なんてことを言う。そして、実際に生還して帰宅したりした。
 しかし、最晩年の70台後半に入るころ、とうとう寝たきりとなり、何も言わなくなった。食事にも興味を失ってほとんど食べない。まるで黙って死を待つかのような日々が続きました。
 結局、オヤジは、2年間、自宅の介護用ベッドに寝たきりで過ごしました。
 おかしなもので、「もう俺は駄目だ」と愚痴ばかり言って苦しんでいるときは、結構まだまだいけるものですが、本当に、駄目だな、と思うと何も言わなくなる。そんな感じでした。
 初夏のある朝、再び脳出血を起こした父を病院に搬送しましたが、もう、助かる見込はないと告げられました。手術に耐えられる体力がすでに残っていなかった。
 俺は、ただ目を見開いて横たわっているオヤジに、笑いながら、こう言いました。
「あははは、とうさん、まただよ。しょうがねえなあ。昔と同じ。だから、も一回頑張れば元通りだよ。」
 オヤジは1回だけしっかりとうなづきました。
 そして、それが、「意識があるオヤジ」を見た、最後になりました。
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 その後、オヤジは意識混濁を起こして、自分が誰でどこにいるのかもわからないようで、ほとんど昏睡状態になりました。でも、時々ふっと反応することがある。
 内臓もあちこち壊れだして、医師が、まあ、もっても、あと1週間・・といわれても、なぜか少し持ち直したりする。で、あと2,3日かな・・と言うのに、なぜかまだまだどっこい生きている。そんな状態がかなり続いて、もしかすると持ち直すかもしれないと医師が言い出した。
 ああいう、何をしでかすかわからない親父のことだ、なんか最後にびっくりさせるようなことが・・・と思ったらありました。
 看護婦さんが、言うんです。「おとうさんは歌がおじょうずなんですね!秋田民謡でしょう?」
 「え??なぜ???」と思ったら、意識がほとんどないはずのオヤジが深夜に、病院中にとどろくような声で歌を歌いだしたらしい。
 じゃあ、ホントに、また家に帰ることが出来るのかも・・なんて少し思ったこともあった。
 しかし、そうそう奇跡が起きるなんてものではなく、2か月後の7月末のある朝、オヤジは帰らぬ人になりました。
 医師いわく「こんなに体力のある人はあまり見たことがない」「先天性の難病があるのに、平均寿命までこれたレアケース」と言うことでした。
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 さて、葬式は家族だけで・・ということで仕切ったのですが、実際にやってみると行列が出来るほどたくさんの人がやってきました。親戚は秋田だし、兄貴は90過ぎてこれないし、ほんとに家族とわずかな親戚だけのはずだったのです。
 民謡会の人、地元の自治会関係は予想はしていましたが、ぜんぜん見知らぬ人までやってきた。「どちら様ですか?」とたずねてみると、「よく公園で奥さんと必死で歩いているのを見ていました。すごい人だなと思って、なんどかお話したことがある。」とか、「道を歩いていると、歩くのもやっとなのに、にこにこしながら、挨拶して、笑わせてくれたりして、ずいぶん楽しい思いをさせていただいた。」といった人までいました。
俺は実務でかけずりまわっていたのですが、もっともしっかりしていたのが、典型的なおじいちゃん子だった娘でした。最初に諦めたのも娘だった。「だって、あのまま生きていたら、あまりにかわいそうだから。」と言っていました。オフクロも、何十年も前から予見していたかのように、ある意味肩の荷が下りたような感じだった。
そんな中、最も、オヤジと折り合いの悪かったうちのかみさんが、葬式で一番大泣きした。一緒に暮らしていても、人の心というのはなかなかわからないもんだと思いました。
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 パパやママに怒られても、優しいおじいちゃんのところに行けば、助けてくれる・・・娘は典型的なおじいちゃん子で、オヤジのことが大好きでした。
 オヤジの死後も、俺は、「昔、おじいちゃんは、ハンサムで・・」「昔おじいちゃんは、ひとりでやくざを5人もやっつけたことがあった」「病気を克服するために決死の覚悟でがんばった」とか、家庭内でしかわからない「おじいちゃん伝説」をときどき語ってきました。
 最近、もうすっかり大人になった娘が、「優しいおじいちゃんのことが大好きだったけど、それだけじゃないな。おじいちゃんはカッコイイと思う。わたしはおじいちゃんを尊敬する。」と言った。
 人が残したモノなんて、家だろうと財産だろうとやがて壊れるか国に没収されます。(相続税)でも、オヤジは形にならないものをちゃんと残したんだな、と、娘のせりふを聴いて確信したことろです。
 先月の29日はオヤジの命日で、7回忌。お盆ももう過ぎました。人は二度死ぬといいます。一回目は、肉体が滅びて骨になる。でも、本当の死は、二回目の死、すなわち、人々の記憶から消えることをいうのだそうです。お盆休みは海外旅行に行くためにあるのではありません。なくなった家族や先祖を忘れないためにあるんです。
 無名の、なんの変哲もない一庶民のお話を、赤の他人でなんのかかわりもないのに、最後まで読んでくれた読者の皆さんに感謝いたします。


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