8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.11 |
「元祖エロカワ・ギャルズ〜ストーリー・オブ・ザ・ロネッツ」 犬にこばんわんこ。 いや、猫に・・・何を言ってるのかさっぱりわかりませんが、とにかく、頑固8鉄です。 さて、「ベエベエー!」なんて吠えながら、エレキかき鳴らす粋がったアンチャンだの、汗まみれの真っ黒なオッサンだのばかり、立て続けにお送りしてきました、暑苦しい頑固8鉄コーナー、さわやかに、初の女性スター登場です! 60年代前半に大活躍した「元祖エロカワギャル・グループ」、ロネッツ。 じつは、わたくし、中学生時代にLPをすべて手に入れ、さらにCDでも全て持っているのです! ・・などというと「こんぬちわーん!○下○郎どぇーすーん」のような蓄膿声のマニアを連想すると思いますが、実は、種を明かせば、アルバムは1枚きり(無名時代のコルビックスレコード・コンピ入れても2枚)、という短命なグループだったわけです。 写真→ 「ザ・ロネッツ(左からヴェロニカ・ベネット、エステル・ベネット、ネドラ・タリー)」 ロネッツは、1960年代を代表的するガール・グループのひとつでありまして、ヴェロニカ・ベネット(後のロニー・スペクター)、エステル・ベネットの姉妹と、従姉妹のネドラ・タリーの3人で結成されました。 ちなみに、わたくし、白状しますと、10代のころ、同じクラスの女の子なんかに見向きもせず、LPで聴いたことしかないロネッツにベタ惚れしていたことがありまして、特に、ネドラ・タリーにゾッコンでした。当時は、簡単にYOU TUBEで動画も観ることも出来ず、数枚の少ないモノクロ写真をながめ、1枚きりのLPを穴があくほど聴きながら、ネドラちゃんに想いをはせるという、相当ネガティブな青春を送った覚えがあります。飽きっぽいので半年くらいだったかもしれませんが。 それでも、手の届かない初恋の人のごとく、なかなか好みというのは変わらないもので、昨年、アメリカのオークションサイトで、60年代当時のオリジナルポートレイトを手に入れ、額装にして壁に飾る始末。 活動が少なかったために、あまり情報がなく、しかも、すぐに引退してしまった忘れがたいアイドルのような存在なのです。 写真← ヴェロニカ・ベネット 思わず、血圧があがってしまいましたが、それほど愛しているロネッツの音楽面で、最も特徴的だったのは、有名な「ウォール・オブ・サウンド」。これは、プロデューサーだったフィル・スペクターの手になるもので、100人近いオーケストラを使い、多重録音を繰り返して、レコード上で、これまで誰も聴いたことのなかった分厚いサウンドを作り上げたのでした。 まあ、ネドラちゃんがかわいければ、私的には、音などどうでもいい!といいたいところですが、ロネッツが大スターになったのは、スペクターの音作りがあってこそ。しかし、このスペクターという男とロネッツの関係は後にとんでもない大事態に発展してしまうのです。 さて、ベネット姉妹と、近所に住んでた従姉妹のネドラちゃんの3人組は、子供のころから一緒に唄うのが大好きでした。しかも、3人そろってモデル体系、おまけにダンスもめちゃウマ!という、アイドルになるのが当然のような美形グループだったわけです。そして、1959年、音楽好きのおばあちゃんの勧めで、アポロシアターのオーディションに出ることに。おばあちゃん偉い!!さすがです! しかし、才能抜群のめちゃエロカワイイ10代の美人3人組をそのまま放っておく馬鹿は、もちろん、いません。当然のごとく、スカウトされまして、マネージャーもつき、10代の女の子らしく、チャリティ・ショーで可愛らしくドゥーワップ唄ったりしておりました。 そして、彼女たちは、1961年、思わぬ偶然からチャンスを手にします。 有名なクラブ、ペパーミント・ラウンジのオーディションに合格した彼女たち、レイ・チャールズのナンバー、「ホワッド・アイ・セイ」をノリノリで歌ったところ、これが馬鹿ウケ! そして、これを契機に、ロニー&レラティヴスとしてコルピクス・レコードと契約し、「アイ・ウォント・ア・ボーイ」をシングルリリース。また、ボビー・ライデル、デル・シャノン、ジョウイ・ディーなどのバックアップシンガーを勤めたりもします。 そんなわけで、コルピクス・レコードで、何曲かレコーディングし、今聴いても、当時のガール・グループの中でもとりわけ素晴らしい出来映えだったのですが、50年代半ばのチャンテルズ以来、結構たくさんあったガール・ドゥーワップと比べると、サウンドは余り目新しいものではなく、あまりぱっとした成功はしなかったのです。あんなに可愛いのにっ!! すいません、ロネッツのことになるとすぐムキになってしまいます。 そして、1963年、ロネッツは、フィレスという、トンカツ屋みたいな名前のレコードレーベルを経営し、独特のウォール・オブ・サウンドで有名なプロデューサー、フィル・スペクターに注目され、契約します。スペクター(デーブではない)は、自分のプロデュースで大ヒットを飛ばしていたクリスタルズを超えるような、新しいガール・グループを売り出そうと、虎視眈々と女の子グループに目を光らせていたのですが、主にリードを唄っていたヴェロニカ(ベネット姉妹の妹のほう)の声にぞっこん参ってしまったのです。 そして、スペクターは、可愛らしさが売りだったロネッツを、もっとバッド・ガール風にさせ、(ビーハイヴヘア、タイトスカート、どぎついツケマツゲとアイライナー)、どんどんヒットを出していた最大の楽譜出版社であるブリル・ビルディングの名ソングライターコンビ、エリー・グリニッジ、ジェフ・バリーと共作した、男を誘うエロいおねえさま風の歌詞を伴った傑作、「ビー・マイ・ベイビー」を吹き込ませました。 これが、全米ポップチャートの2位になり、世界各地でも大ヒット! ついに、中森明菜(古・・)も、沢尻エリカ様(悪・・)も真っ青の、「元祖エロカワ・ギャル・グループ」の登場となるのです! 写真← 「アルバム・ジャケット」 続いて出た「ベイビー、アイ・ラヴ・ユー」、(24位)、翌64年の「ベスト・パート・オブ・ブレイキング・アップ」(39位)、「ドゥ・アイ・ラヴ・ユー?」(34位)、「ウォーキン・イン・ザ・レイン」(24位)と、ヒットは続き、出来映えも素晴らしいの一言なのですが、「ビー・マイ・ベイビー」に迫るヒットはなぜか出ません。 50年代ドゥーワップの見事なリアレンジ版、「ソー・ヤング」なども納められた、たった1枚の伝説的傑作アルバム、「プレゼンティング・ザ・ファビュラス・ロネッツーフューチャリング・ベロニカ」も、当時は、ホット100の96位どまりという、信じられない結果でした。 なぜか?というと、そうです、これまで、毎回毎回、男ばかり紹介してきた、暑苦しい「頑固8鉄コラム」で、繰り返し繰り返し、イヤになるほど、書いてきたとおり、1964年は、「ビートルズ大襲来」の年なのです。 もう、ビートルズのせいで、すてきなロネッツですら、消し飛んでしまったのです!この際、はっきり言ってしまいますが、わたくし、昔から、ホンットに、ビートルズが大嫌いであります。彼らのせいで、大好きなロネッツもわずか1枚のアルバムのみ・・。 ・・・・人気を奪われたのが、アメリカの汚いおっさんだの暑苦しいアンチャンだのならまだしもっ!!!ロネッツをっ!!!解散に追い込むなんてっ!!ゼーーーッタイに許せませんーーーーっ!!!! ・・・などと、21世紀の今頃、極東の島国で杉下右京のように怒っても仕方ないのですが、1966年、ヒットがないまま、ビートルズの前座(ふざけんな!バカヤロー!)を最後に、ロネッツは解散してしまうのです。っと記したのはオハナシをちょいとオモロクする為であり、実はビートルズの偉大さ素晴らしさは当然のごとくガッチリ心しておるのでビートルズ好きの方は、どうか真に受けないようによろしくであります。 |
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