8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.106
                                                                                       
              
              ファッションの考え方

物事には、まず、考え方があるべきです。
物事、何がどうなっているのかわからないと、自分が何をすればいいのかもわからなくなる。どっかで、「俺はこうする」と決めないといけない。
それは、人生に起こるあらゆることに言える。職業倫理であれ、趣味であれ、そうでないと方向性が定まらないまま迷走するだけの人生になってしまいます。
個人だけでなく、社会もそうです。

突然、何を言い出すのかって?

いえいえ、別に新聞の論説みたいな、インチキ社会科学論を展開しようってわけじゃない。このページを見に来る人が最も関心を持っているはずの、「ファッション」の話題。
といっても、うんちくん、じゃない、蘊蓄なんて展開しても、あまり意味がないし、詳しい人から、「おまえ、間違ってるぞ!」なんて言われて「す、すみません・・」って禿頭下げて謝るのもしゃくなので、ここはわたくしなりの「考え方」をメモっておこう、というわけです。
っというわけでコンバンワ タワラコータ・・ いいえ頑固8鉄です。

そもそも、なぜ人は服を着るのか?

どう?考えてみたことあります?考えても意味ない、って?
そんなことはない。余分にでかい脳味噌を持ってる人類なんだから、少し考えてみたって悪いことはないでしょ?金もかからないし。
わたしは、小学校から高校まで、ずっと制服だった世代です。小学校時代は、今みたいに東京が暖冬続き(今年は寒いけど)だったなんてことはなく、10月から寒くなってきて、3月までばっちり寒い、という時代。1〜2月には大雪が降って、近所の空き地に、でっかいかまくらが作れるくらいだったものです。
そんな中でも、小学生は、半ズボンでした。今、なんていうの?短パン?ショートパンツ?
なんでもいいや、我々の世代では、あれは、「半ズボン」ですよ。子供のころにいやというほどはかされた。夏も冬も常に半ズボン。長ズボン(いわゆるフルレングスの)にあこがれていました。あれは大人がはくものだったからです。
当時は、ガキで、なんとも思っていませんでした。そもそも、服なんてもんに関心なんてないですよ、当時の子供は。そんなことより、野球の練習、とか、ウルトラマン観てたり、とか、近所のクソガキグループと喧嘩してたりとか、そんなばかりしてるですから。

服は、防寒のため、身を守るために着るのだ、だって人間は「裸のサル」(生物学のデズモンド・モリスが言ったところの)だから、というふうに考えるのが普通かもしれませんが、わたしは違うと思います。確かに、根はそういうものだったかもしれないけど、途中から変質してしまった。
例えば、雪がしんしんと降る、クソ寒い真冬の屋外で、シャツ1枚に半ズボンで遊び回った我々からすれば、まるっきり、服なんて防寒になってないじゃないですか。ずっとそのまま、外で眠りこけたら、凍死してしまうけれど、服である必要はない。暖かい洞窟(現代ですから、家、ですね)かなんかに行くとか、せめて毛布らしきものでもあればいい。人類は、服を作るより先に、火をおこす方法を見つけてるんだし。じゃ、なんで服なんだ、と。
さて、たいてい色気づいてくるころに、なんだか、かっこつけたくなって、いろんな服に関心を示すようになるもんでしょ?では、服は、もてたいと想うようになったから、異性の気を牽くために、格好をつけるために着るのか。

それも間違っていると思います。今は違うのかもしれませんが、わたしが中学〜高校時代になったときは、詰め襟の学生服(軍服がルーツです)みたいな、がっちがちのお仕着せ制服を着せられていましたし、別にそれもなんとも思っていませんでした。だって、大学行って大会社か官庁でエリートになるのが「正しい」と教えられ、戦後最高水準の「詰め込み教育」をやらされてた世代ですから。社会人になったらなったで、全員、例外なく、メン・イン・ブラックかブルース・ブラザースみたいに、白いワイシャツにネクタイ、黒づくめのスーツを一生着続けるだけでおしまい、くらいに思っていた。
それに、服だの女の子どころじゃない。今のいわゆる「ゆとり教育」を経てきた世代とは比べものにならないくらい、我々の勉強量は半端じゃなかったのです。共通一次試験最初の世代で、「受験戦争」のまっただ中で10代を過ごしたのですから。
実は、脳科学の養老孟司さんが、これについては、最も納得のいく説明をしてくれています。それは、「現代社会は自然を嫌うからだ。」というものです。
現代社会が生み出した都市は、自然を排除しようとする。そりゃ、そうだ。ゴキブリが出るとすぐに大騒ぎするのは、あれが害虫だからじゃない。だって、ごきぶりって清潔好きだし、機能的にも優れていて、体表を覆っている油分で雑菌をシャットアウトしている。大変にきれいなんですよ。なんの害もないことは証明済です。実際、タイではごきぶりの一種が食用として重宝されています。
なぜ、人がごきぶりをいやがるかというと、「人工物で埋め尽くされたはずの都市にひっそり生息する自然」だからだと説明されます。
そんなの嫌!となぜか人は思うようになっている。脳がすぐに理解できないものは認めたくない。ごきぶりはどんな行動をとるか、見当もつかない。突然、飛びかかってくるかもしれない。きゃー、そんなのいやーっ!ぜーったい、みとめないっ!というわけ。
自然っていうのは、脳味噌で考えたってわかるようなレベルのものではないのです。いくら科学が発達したって、地震予知も出来なければ、不老不死にもならないし、冥王星まで飛んでいったり出来ないわけですから。だから、「わからないから嫌だ」となる。

しかし、一番、身近な自然は何かと考えてみれば、わかりますよね?
そうです、自分自身。自分の体は嘘をつきません。自然そのものだからです。
子供がよくする質問に、たいへん面白い、深いものがあるそうです。「つばきは、口の中にあるときには、汚くないのに、ぺっ、って吐いたとたんに、なんで汚くなるの?」というもの。それは、自分で自分を汚いとは思わないというポジティブな感情がある。脳には、自分と自分以外を区別する「自己」を規定する領域があるので、「自分」と認識されている領域から外に出たものは、とたんに「自分以外の自然」になってしまうから「汚い、不快」と思うようになるから、というのが回答。
すなわち、自分を「得体の知れない自然物」だと思いたくない「自己」が、なぜだかわからないけれど、人にはある。だから、人工物である「服」で覆って、人工物らしきもののフリをするために、服は発明されたのだ、という説明でした。「俺は、わけわからんごきぶりなんかとは違うもんね−」と思い込もうとしている。でも、真実は違う。人間もごきぶりも「動物の一種」に過ぎないからです。
少なくとも、わたしはとても納得がいった。

え?俺は違う?すげえセクシーなおねえさまが、全裸で歩いていたら、後を付いていくって?
いえいえ、そんなことは妄想です。現実にそんなことが起きたら、不気味がって誰も近づかない。おっさんだったら逃げるでしょう?全裸のおっさんだって、おねえさんだって人間に変わりはないのにも関わらず。
昔のヒッピーコミューンみたいに、温暖なカリフォルニアで、みんなが全裸で生活していたら、自然か、っていうとそうでもない。ぜんぜん定着しなかった。やっぱり、みんな服を着るのが好きなんですよ。なぜかはこれまで述べたとおりです。
ファッションの原点、ってのはこのあたりにあるんじゃないかなあ、ってのが、養老先生の考えなんですけどね。もともと、自分を○○だと思いたい、とか、自分をなになにに見せたいとかそういう機能を持っている。
あとは、服飾、ファッションの進展、歴史は、「戦争に行くにはこんな機能があると便利」とか、「コンクリート上を歩くには、こんな靴が便利」とかいった機能の問題、「メカメカしいのが好き」という人は、なんとなく、てらてらした化繊の服を着たがるかもしれないし、樹木を連想するような自然派は、なんとなく、「森ガール」みたいな、リネンのしわしわな服を好むかもしれない、といった好みの問題。

それがどんどん細分化していくと、「昔のアメリカ映画みたいな○○が欲しい」「トム・クルーズが着ていた○○みたいななんたらが欲しい」とか。
どっちにしろ、要するに、「自分をありのままの自然ではなくて、なにか別の作り物めいたものに見せたい。」ってことでしょう?
ありのままの自然がなにかは、毎日、家に帰って、せいぜい防寒のための服(パジャマ)を着て、ごろごろ寝転がってビール飲んだり、裸になって風呂入ったりすればわかります。外では目を見張るようなモデル体型の美人だって、家の中では、風呂でビール飲んで、屁こいて、「あー、さっぱりしたあー」なんてことを、言ってるかもしれない。いや、絶対に言っているに違いありません。
そういった、ありのままの自然は、本当に気持ちいい、リラックス出来るものなんですよね。
もうひとつ、子供はとても自然ですが、愛されている。たいていの人は、子どもを見たら、ほほえましく思うでしょう?子どもは、現代社会では最も愛される身近な自然です。あとは、ほ乳類などの、人類の近親種も、人間の子どもに似た感覚で受け入れられる。
ちなみに、テレビは、「子どもか動物を出せば、必ず視聴率がとれる」って昔から言われてるんです。あと、食い物、ですね。だからテレビはそんな番組ばかりでしょ?
それも最近は、実は、感覚が変わりつつあるのかもしれません。少子高齢化が進むというのには、自然を排除するという感覚が、そこまで浸食してきている、という可能性もあるかもしれない。


 ずいぶんと話がややこしくなりましたが、話を戻すと、真夏の日よけのためのシャツとか冬の毛布みたいなコートとか、そういう機能重視のものも「格好良さ」が求められる時代。ほとんどの服は基本的に「ファッション」すなわち、外出用であって、パジャマで自由気まま、に比べれば、あまり気分のいいものではないけれど、着ないといけないような気がする、っていうのが現代社会なんじゃないかと思います。思います、どころじゃない、そんなの当たり前じゃないか、って?
いえ、今でもアフリカや中南米の山村にいったりすれば、裸同然で暮らしている人たちもいますよ。それに、そのほうが自然ですよ。現在、先進国といわれるヨーロッパ文化圏(後追いの日本も含む)の人間は、かなり昔から、ある意味、たいへんに「不自然な格好」で暮らしてきたということなんじゃないでしょうか。

では、この辺で今日の講義はおしまい・・・え?なに、社長?講義じゃないって?
なんだ、早く言ってよ、そういうことは。

ま、ながながとどうでもいい屁理屈みたいな話をしてきましたが、先進国たる?日本に住んでいる以上、衣服を着て生きていくのがフツー。どんな服を着て、自分をどんな風に見せたいか、は、商売でもない限り、その人の自由!

自由といったら、ラケンロール!ラケンロールといったら、THE KING !
というわけで、引き続き、THE KINGの服をよろしくお願いいたします。

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