8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.103 |
謹賀新年 明けましておめでとうございまするめいか!8鉄です。 なんて、あっけらかんとしたタイトルでしょう!わかりやすいっ! で、とにかく、THE KINGの商品を、今年も買ってね! おしまいっ! で、以下は、おまけ。ちょっと学術っぽいノリで書いてみたので、「ごちゃごちゃくだらん!」「字がいつにも増してたくさんあってうざい!」と思われた方は、ずーっと、下にスクロールしていって、最後の行だけ呼んでください。ではではー。 (付録)「意識とは何か」 さて、年始恒例で、今回は、音楽とはなんの関係もない雑談を。雑談というには、少し硬いですが。昔、若いころ、いろいろと悩んでいたときに、いちばん納得のいく答えをくれたのが、養老孟司教授という著名な脳科学者、解剖学者。東京大学名誉教授、医学博士。)が書いた「唯脳論」という医学系の書物でした。今日は、その主な論旨をたどりながら、わたしなりになにか書いてみたいと思います。 しかし、昨年もいろいろなことがございましたね。消費税がどうしたこうした、民主党が大敗した、憲法改正がどうたらこうたら・・あまりよく知らないんですけども、ひとつ言えることは、全部「人間社会で起こること」、ってことじゃないでしょうか。 昔から、日本人は「花鳥風月」を大切にする文化を育ててきたと言われています。「花鳥風月」って要するに、「自然」ですよね。 新聞、テレビ、インターネット等で流されるニュースはたいてい、政治、経済、事件など、「人間社会で起こること」ばかりで、自然については、先の大震災のように、マイナス面ばかりが報道されるのが常。「自然は怖ろしい」ってことです。なんか当たり前みたいですが、政府もマスコミも、人間社会の利害調整のためにあるものです。犬や猫は消費税を払ったり、新聞を読んだりしないわけですから、仕方がない。それに、マスコミは特に、「こんなコワイことがあるんだよ。」「危ないよ、君も!」って言うのが使命みたいなところがある。そういうこと言ったり書いたりすると、なぜか常に「売れる」し、売れないと会社がつぶれますから。 しかし、人間もまた自然の一部。「自己意識」はあまりそんな風に考えませんが、何も考えなくても、髪の毛は伸びるし、トイレにも行くし、どんなに気をつけたって臭うし、誰でも歳をとれば髪が抜けたり、しわやシミだらけになったり、やせ衰え、いろいろ必要なことが自力でできなくなり、必ず病気になって、死にます。そんなの嫌だ、ったって仕方ない。それが自然だから。当たり前のことですが、「人体というものは自然そのもの」であります。自然には逆らえない。どんなに医学が発達してもこれだけは避けられません。 それを、あまり意識せず、人工的な空間で、人間社会のことばかり考えていると、やがてアタマがどうかしちゃいます。うつ病が増えたり、自殺大国になったりとか。「年金だの医療費だの消費税だのもっと重要なことがたくさんあるんだ!とれもろす!」なんて言ってる場合じゃないんですよ、ホントは。不思議なもんで、そういうものなんですね。 いやいや、人間社会は、自然の素晴らしさをよく知っていて、それを破壊していく環境問題を解決しようとしているじゃないか、とおっしゃるかもしれません。 しかし、本当は、地球環境は人間次第でどうにでもなる、なんて、とんでもない。おこがましいことこの上ないんですよ。自分が蒔いた種を刈ろうとしているだけですから。産業革命が起こらなければ、近代工業社会もなく、化石燃料消費が原因となる地球温暖化を筆頭にした環境問題なんてものも起こっていません。例えば、モータリゼーションをとってみても、「歩くと時間がかかるから自動車を発明した」わけですが、要するに、「莫大な化石燃料エネルギーを消費して時間を短縮した」ってことです。温暖化問題など、それのマイナス面が大きくなりすぎて、途方に暮れているといったところでしょうか。先進国と称する国に属する人間のわがままで、あらゆるところにツケを回している。 そもそも、そんなこと言ってる人間そのものが環境のほんの一部に過ぎないですよね。飯を食う、ってのは、自然界から何かを取り入れては排泄することを繰り返していかないと死んでしまうからです。(動的平衡、といいます。)代謝機構が、細胞レベルで元素の入れ替えをしている。人の大腸なんて、たった2週間で入れ替わる。ウンコの成分ってご存じですか?別に汚い話でもないんでもない。だって誰だってするでしょ?これ、食べ物の残留物だって思っている人が多いですが、実は、1割程度に過ぎません。ほとんどは胃液や膵液で溶かされ、体内に吸収されてしまうからです。残りの6割は水、15%は大腸菌など消化管に常駐している細菌類の死骸、そして、15パーセントは、腸そのもの、すなわち、古くなった腸壁そのものを毎日、ウンコとして捨てているわけです。当然、喰ったものから新しく生成して、腸そのものが新しく入れ替わる。やだ、そんなの。マリリン・モンローはウンコしない、わたしだって汚くない、って言ったって仕方ない。事実なんだから。そうじゃなかったら、あなた死んでますよ、とっくに。 世界は、元素レベルでみれば、植物も動物も、すべてが循環していて、人もそのほんの一部に過ぎないってことです。それに、死んだらそのうち、地表の一部になるんですよ、誰でも。今は火葬だからならない、なんてことはない。いつかは骨壺だって土に返りますから。要するに、常に環境と生物は「込み」なんですね。別々にあるわけじゃない。 さて、話代わって、日本人に「どんなときに幸せを感じますか」というアンケートをすると、「友達と一緒に笑っているとき」「理解しあえる家族と過ごす時間」などの回答が多いのだそうです。それは、すなわち、ほとんどが「人間関係によって幸せになる」ということを意味します。それは、たいへんに結構なことなのですが、裏を返せば、「人間関係で不幸になる」こともある、ということです。そんなのは当たり前のことで、古今東西、人間はそうやって生きてきたのですが、人間関係だけの世界、すなわち、人間社会における他人との関係が自分の人生のすべてに思えてしまうようになると、「人付き合い」だけで一喜一憂して一生過ごすという妙なことになってしまいます。それは間違いです。 だって、「人間社会や人付き合いとはまったく関係のない世界」というのが、実体として間違いなくある。しかも、そちらのほうがはるかに大きい。比べものにならないくらい大きいんです。それが、「花鳥風月」に代表される自然やモノの世界です。宇宙空間まで考えたら想像がつくと思います。人間なんて、束になったって、とてつもなく小さな塵にすら満たない。誰だってそんなことは知っている。なのに、なぜか、日々の生活は、いつの間にか「人づきあい」で埋め尽くされていく。 何も難しいことをせよ、ってわけじゃあない。空を行く雲を眺めたり、庭の木にとまった雀を眺めたり、状況が許すなら、ペットを飼ったりする。他人がなにをどう思うかなど関係なく、目の前にあるモノを楽しむ。そういう世界を置き去りにして、観念ばかりのアタマでっかちになると、ヤバイんじゃないか。ぼやーっと空を見上げているだけで、そんなことに気づいたりするのです。 そもそも、仏教もそういう教えなんですよね。諸行無常、無我ですから。日本には古来からそういう教えがあった。本当のわたくし(意識)、なんてものは、幻みたいなもんで、実は、ない。体というモノは確かに存在するけれど、常に滅びていく。 ここでひとつ、面白い映画を紹介しましょう。 アメリカ映画の巨匠、ジョージ・パル監督最後の、そしてパル自身が最も愛したと言われる、あまり知られていない名作「ラオ博士の7つの顔」(1964)。 20世紀初頭の小さな西部の町にやってきた、謎の東洋人ラオ博士とそのサーカスが、町の人々の心を解きほぐしていく、児童向けでもある不思議な物語です。 サーカスに魅せられ、ラオ博士に、サーカスに入れてもらえるよう頼む男の子。 「こんな田舎町にいたって、なにも楽しいことなんかない。連れて行って。」と言う子供に優しくラオ博士が語りかけるのです。 「見方次第では、世の中全てがサーカスなのだよ。草や木が育ち、鳥が歌い、月の光が砂漠を照らすのも、誰もが楽しめるサーカスだ。手に砂を握った時、その手の中には自然の神秘と驚異がある。生きている事の素晴らしさを知る時、いつでも、どこにいても、君はドクター・ラオのサーカスの一員なんだよ。」 子供のころに患った脳膜炎に由来する若年性アルツハイマーに苦しみ、わずか30代で没した天才脚本家チャールズ・ボーモントが子供たちに残したこの素晴らしい台詞には心打たれるものがあります。SFやファンタジー映画の巨匠といわれたパルの最も言いたかったこともきっと、これだったのではないか、と私は思っています。この数行の台詞のおかげで、この映画はいつまでも愛される名作となっています。 そして、「自然こそが奇跡そのものだ。」「生きていることだけで素晴らしい」と語るラオ博士が東洋人という設定なのは、自分と環境はひとつながりのものだという、古くからの東洋の思想があるからだと思います。大自然を「脅威」として敵対し、それを「退治する」ことを発想の原点としてきたアメリカ人には、この映画はさぞ新鮮に映ったことでしょう。 さて、現代医学でも解明できない謎、それは、「意識とは何か」です。「脳」は人体の一部なので、モノです。だって人だってモノですから。生きていようが死んでいようがモノはモノです。五感でとらえることができる事物を「モノ」と定義するのだから当たり前です。 実は毎日、誰でも必ず、意識を失います。眠っているとき、客観的に脳波をとれば、確かに「意識はあるように見える」けど、眠っている本人は、誰もそれを「意識できない」でしょ? 脳はモノなので、一晩で消えてなくなったりしませんが、脳の作用の一部である意識なんて、単なる作用なので、しょっちゅう、消えては現れ、現れては消えるのを繰り返している。ずっとなくなってしまわないもの、自分が自分であるためということを保たせているのは、実は「意識」ではなくて、モノである「体」です。「脳は体の一部」ですから。 しかし、なぜ、「脳」というモノで起きる、「ニューロン(神経細胞)間の物理的な電気信号のやりとりから「意識」なんていう作用が生まれるのか、解明できていない。なぜ手術をするときに使う「全身麻酔(単なる「酸化窒素」です。)」で完全に意識が消失してしまうのか、どんな科学者も説明不可能だそうです。経験的に知っているだけで、科学的な機構は不明のまま使用されている。意識=覚醒状態のこと、と定義すれば、それは、脳幹の特定部位が関与していることがわかっている。そこを破壊すると昏睡状態になります。しかし、覚醒していることと、主観的意識、自分は自分だ、という意識はイコールではありません。 そもそも、根っこにある「意識」は何か、定義するのは「科学」だと思いがちですが、「科学」というのは「意識」そのもの。無意識で科学はできません。すなわち、「科学=意識が意識を定義する」ということは、「意識は意識である」ということを意味するだけで何の説明にもならない。自己言及のパラドックスになってしまう。意識がなにかという定義ができなければ、なぜ意識があったりなかったりするのか説明できないのは当然ということでしょう。 「意識とは何か」、これほど科学技術が発達しても未解決なんですよ。 さらに、最近では、「意識は後追い」であることがわかってきています。われわれは、常に「なになにをしよう」と「意識」して、行動する、と思っていますが、実験結果では、「行動を起こす脳の活動が先で、意識はその0.5秒後に発生する」ことが証明されているそうです。歩こう、と思う半秒前に、脚を前に出す運動を起こすよう脳が動いているということです。「意識」とは、単なる検証、「行動を起こそうとしたすぐ後に、自分の行動をチェックするためにある作用なのではないか」という仮説も出てきています。しかも、意識は、勝手に動いている脳を「止める」ことしかできない。だから、道徳律はすべて「〜してはならない。」となっている。 実は、「社会と呼ばれる約束事(主に道徳律を基礎においている)」を作っているのは、脳、ではなくて、意識です。ちょっと考えてみると、よくわかる。眠っている間に、刑法の改正について考えたりしないでしょ?それは意識がないからです。脳味噌はありますけども。 ところで、「鏡の謎」というのをご存じでしょうか?最初に言い出したのは、プラトンなのだそうですが、いまだにスマートな説明をすることができない、難問だと言われています。 「鏡は左右を反転する」と思っている方が多いのですが、どうでしょう? 実体である自分自身が右手を挙げると「鏡の中の自分」は左手を挙げているように思える、ということですね。だから、「鏡は左右が逆」という常識が出てくる。わたしは、はげているので、髪の分け目がありません(!)が、しっかりと分け目がある方は、鏡に写った自分と写真やヴィデオに写った自分と左右が入れ替わっていると感じるでしょ?分け目が逆にあるだけでかなり印象が変わりますから。 でも、実は、これは間違っている。間違っていることは、簡単な物理学で証明できます。 鏡は左右を反転しません。実際、右手を挙げると、鏡に写った像も鏡という1枚の板の右側に写っているほうの手が挙がります。右手は右側に写る、これが物理学です。 光の反射作用によってできる平面鏡の鏡像の原理や性質は,すでにニュートンの時代に,に解決されています。その結論は『垂直に置かれた平面鏡は,鏡の前にある物体の,鏡面に垂直な方向(通常前後方向と呼ばれる)の向きを逆転するが,鏡面に平行なすべての方向(垂直・水平を含む無数の方向がある)の向きを逆にしない』というものです。 すなわち、鏡は前後関係を逆転します。(体の前面=目がある側と背面=背中が、入れ替わります。そうでなかったら、鏡には背中が映ることになります。)ですが、左右は正確に映し出します。では、左右が逆転しているように感じるのはなぜでしょう? それは、日常生活で他人と向き合うとき,その人(対面者)の右側は必ずわれわれから見て左側にあることを,経験的に熟知しているため,鏡の中の人物でもその通りと思い込むからだと説明されます。人は物体の鏡像を,触れることができる実物ではないと知っていても,実物(の属性をもつもの)のように眺めてしまうのです。 文字の場合は、どうでしょう? 鏡に左右非対称の文字を写すと左右が逆に見えます。これはどう説明するのか。 通常紙を裏返せば文字が見えなくなるから,鏡の助けを借りる。透明紙に書かれた文字なら鏡はいりません。鏡は,裏側から透視した表面の上下左右の形そのままを映し出すことになります。試してみるとわかる。鏡に映った文字は「裏返し」なんですよ。 鏡像というのは、実は、その写す実物(自分の姿、文字など)を180? 視線の向きを変えて裏側から透視した「形」です。 自分の顔の鏡像は,鏡の中にしか見られない形であり,半回転によって向かい合った他人が見る自分の顔形(実在するもの)ではありません。今は自分自身を写真や動画で、「他人が見た自分=実在する自分の姿」をヴァーチャルに観ることができますから、鏡に写った自分の姿とギャップを感じることになります。もし、あなたが粘土人形みたいに、他人の目の前で,自分の顔の右左が入れ替わる変身(現実には不可能)を遂げたとすれば、現れる顔が、鏡像ということになる。これを、鏡は顔の左右軸でなく,前後軸を反転させることで実現してくれるのです。 対面=左右逆転で代表される「対面者の左右がいつも(鏡像も含め)逆になるはず」という観測者の基準的常識と,「鏡像の左右が入れ変わらない」という物理的事実の認識との間の不一致が,鏡の謎の骨子だったことになります。 人の意識は、いとも簡単に「固定観念、思い込みで真実が見えなくなる」ものなのです。 今まで述べたような、何者だかさっぱりわからない「意識」なんていうものが創り出した、なんの実体もない「社会」なんてものが、本当にあてになるのでしょうか?極論すれば、社会なんて、指導者だの支配者だのが変わってしまえば、ころころ変わったりしますよね。歴史がちゃんと証明しています。約束事、って、要は憲法みたいに、紙切れに書いた文字に過ぎないんですよ。友達が変われば、つきあい方のルールが変わってもおかしくない。敵国であったアメリカが突然、友人になったりした、日本の戦前から戦後への変化なんてのは、まさに180度の大転換だったわけです。 ちょっと話がそれるのですが、先日、ライブの後、終電ギリギリで帰ったのです。家は東京都心から遠方なので、人身事故で都営線がストップしていて結構大変な目にあいました。 深夜、駅前からタクシーに乗ったとき、愚痴がてら、運転手さんに、「最近、人身事故がやたらに多いけど、自殺も多いのかもしれないね。」と話しました。そのとき、年配の運転手さんの答えがはっとするほど的を得ていました。 「ほっといても、人なんて100パーセント死ぬのにねえ・・なんで、わざわざ自分で死ぬかねえ・・」 人工環境で埋め尽くされた都市は、「自然なことはなにか」という認識をいつの間にか奪います。そして、人間関係が人生のすべてになってしまう。幸も不幸も人間関係次第になっていく。友達が冷たいとか、そんなことですぐに動じたりする。それがどれほど危険なことか、という議論と、運転手さんの言った台詞は明らかに同じことです。 僕は、通勤に往復4時間かけてまで、田舎暮らしをしているのには、ちゃんと訳があります。庭は薔薇園だし、毎朝、えさ台にたくさんの野鳥がやってきます。ちょっと歩けば、田園風景が広がり、雄大な雲も輝く星もたくさん見られます。東京暮らしの友達が遊びに来て、「星の数にびっくりする」というくらい。よく観察すれば、家の小さな庭でもひとつの生態系であることもわかります。 他の動物を見ているだけでも、「当たり前のこと」が何か、よくわかります。うちの犬は、ほとんど外に出たがりませんし、同種の「友達」もいません。飯を食うのと寝るのと散歩に行くのが日課ですが、別に不幸せなそぶりもなければ、ふてくされたり自虐行為をしたりもしません。特に重篤な病気でなければ、医者にいかなくても自然と治るし、何も問題なく、淡々とその生涯を送っていく。なぜ、人間だけが「自己とは何か。社会をどうすべきか。」なんていう、複雑怪奇なことで意味もなく悩んだりするのでしょう?それが本当に「高級なこと」なんでしょうか。 人間が自分以外、誰もいない世界があったとします。たったひとりで、世界に向かって「相対性理論は間違いなく働いている!」と叫んでみても、その言及にはなんの意味もありません。だって、そんなことに関心をしめすのは、人間だけだからです。 生き物は、自然に産まれて、自然に死んでいきます。いずれ、意識がなくなり、体がなくなっておしまいです。人も生き物です。そして、その事実は、どんなに金持ちだろうと貧乏だろうと、どんな社会に属していようと、なにも変わりません。誰でも同じです。そんな当たり前のことを忘れると、おかしなことになります。 だからといって、人間社会の問題がどうでもいい、とは思いません。いろいろと国際化や少子高齢化、原発問題など、問題山積であることもわかりますし、誰かが知恵を出さなくてはならない。確かにそのとおりです。それが、「平等の達成」とか「平和の維持」とか「環境保護」とかいう大義名分のために過ぎなくても、その時代の人々の要請というものは、常にある。 しかし、そこに、「人とは何か」「自然とはなにか」といった根源的な問いがなければ、それは単なる人間社会だけのひとりよがりな、利害調整に過ぎなくなる可能性があります。 そして、集合体である社会を構成する、ひとりひとりの人が「自然に生きていく上で必要な知恵」を、いつの間にか、法律だの経済だの政治だのといった、人間社会という、実体のないシステムの一部に置き換えてしまおうという方向に行ってしまう可能性もあります。やたらと明文化すればいい、やたらと法律で縛ればいい、という発想はまさにそれです。 もっと基本に立ち返ってみると、物事はとてもわかりやすくなるように感じます。例えば、「人を殺してはならない」というのは、当たり前ですが、なぜ当たり前なのかを問えば、かなりの難題となってきます。死刑制度はどうするのか、もっと言えば、戦争だったら人殺してもいいのか、など。 基本に立ち返ると、人を殺してはならないのは、それが「人の体が自然」だからではないか。むやみに「意識」なんていう訳のわからない自己都合で「人という自然を傷つけたり奪ってはならない」と考えたほうがすっきりする。もっと広げて考えれば、必要最小限の食い扶持は仕方ないとしても、人間社会の勝手な都合で、他の生き物の命をむやみに奪うことも、地球環境を汚染することもあってはならないということになります。でないと、「自分と環境が込み」である以上、自分自身の危機として巡り巡ってくる。他人をおとしめると必ず自分が苦しみます。因果応報です。だから、そうやって、自然と共生する、というのは、人間同士が共存するのと同じ意味を持ちます。それは、綺麗事でも屁理屈でもなくて、「自然に生きていく上での当たり前の知恵」なんだと気づくのです。 世の中にはいろいろな人がいます。環境問題に真剣に取り組んでいる人います。自分の食い扶持を稼ぐだけで手一杯の人もいます。家族や大切な人の不幸で、どん底の人もいます。一方で、金もうけでアタマがいっぱいの人も、名誉が手には入ったら死んでもかまわないと思うような人もいます。 でも、そんな自分の欲得だって、意識が決めている以上、すぐに変わってしまう、たいしてあてにならないものだってことを知っていればこそ、健全さを保つことも、できるのではないかと思います。 「いくら悩んでも仕方ない。なるようになるさ。」 「死んだらおしまいなんだから、そんなこと考えるだけ無駄。」 「自分で考えるような自分らしい自分なんてどこにもないのだから、世間様に迷惑をかけないよう、与えられた仕事でもしよう。」 「得体の知れない社会なんてあてにしないで、他人に迷惑をかけずに楽しめることを続けよう。」 「体が資本なんだから、健康に気をつけよう。」 「命と自然を大切にしよう。」 なんか、そんな、幼稚園の教えみたいなことこそ、いつも変わらない本当のことなんじゃないか、と改めて思うのです。 以上で「付録」は終わり。 さて、結論。みなさん、今年もTHE KINGをよろしくね!おしまいっ! |