NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.320

 そろそろタイで13年ぶりの再就職をしてから1年が経つことになったわい。 この七鉄、今までの人生において、こと生き延びる、食つなぐことだけはまだ運が残っておるようで(苦笑)、この度のタイでの仕事も老骨に鞭打ってなんとかやっております!

 なんてことはどーでもええんじゃけど、考えてみれば、1999年わしが初めて海外、タイで働くことになったのはまったくの偶然の積み重ねからじゃった。 冷静に振り返ってみると、旅の資金を使い果たす時期が迫っていただけに「あの時、あの仕事にありつかんかったら~」って思うとゾォ~とする時がある。 あの偶然の積み重ねで食いつなげていなかったら、今こうして諸君と関りをもつこともなかった(物乞いになった挙句、死んじまっていたかもしれん)と思う時もある!
 8鉄センセー風に言うと!?、人間はバカかリコウか、このふた種類しかいない。 リコウちゃんには、どこの国に行っても“口入屋の紹介”はある。 わしは馬鹿野郎なんで、偶然の積み重ねで仕事にありついて今日まで生き延びてきたんじゃ。 まあ、真面目半分、アルバイト探し気分半分で始めたバンコクでの就職活動の一ヶ月間は、ちょっと信じられないくらい偶然、ハプニング、昇降状態の連続だったんで、そんな思い出を茶飲み話的にオハナシしてみたいんで、どうかお付き合いのほどを!


初めての海外就活はジェットコースター!?1999年七鉄のバンコク職探し騒動記!


■ あなたは帰国した方がいいです ■

 初めての東南アジア放浪(台湾から始まってタイ→ラオス→タイ→ミャンマー)にちと疲れてしまい、最大の目的地であるインドに行く前に、わしは1998年の年末からバンコクで骨休め、まあバックパッカー宿で沈没生活をしておった。 その時宿内でもっとも仲良くなったのが自力で地道にタイ語を勉強しながら就職活動をしておったS君。 今考えると、バンコクでの就職は全てこのS君との出会い、お導きによって進行したのじゃ。

 ある日S君に誘われて、ビジネス街にある「人材登録派遣センター」へ行くことになった。 漫然とバックパッカー宿でぐうたらしているのも退屈なので、わしはS君のお誘いに乗ったんじゃ。
 履歴書と職務経歴書をノートPCで作成して、ネットカフェでプリントした。 運が良ければ、日本語情報誌の外注アルバイトの口でも見つかって今後の旅の資金を上乗せ出来るかもしれない、そんな軽い気持ちに過ぎなかったのじゃ。 インドのビザは既に入手してあり、飛行機のチケットも予約済みじゃったが、バンコクでアルバイトでも見つかったら、インド行きを延期するつもり、なんつうイーカゲンな気分な就職活動じゃった。

 人材派遣センターで履歴書と職務経歴書を提出すると、程なくしてハプニングが起こった。 「シャチョウガ ヨンデマス。コッチへ ドウゾ」 タイ人女性スタッフに促されて小さな会議室へ通されることになったのじゃ。
 「いきなり社長面接って、こりゃひょっとすると!」と期待に胸が高鳴ったが、社長さんのお言葉は完全に想定外だった。 
「履歴書と職務経歴書を拝見致しました。 大変残念ですが、あなたのスキルはタイでは役に立ちません」
「コンピュータを使った編集業務は、タイではまだ導入されていないんです。折角のスキルですが、職探しをされるなら帰国された方が得策です」

 生まれて初めて「あなたのレベルは高い」って評価されたのに、何たる皮肉な現実。 「あなたは“大き過ぎる”からダメよ」って女性に拒否された時って、こんな気分になるに違いない!?

 ちなみに日本では90年代半ばから、編集ソフトとデジカメがあれば、写真入り紙面作り(DTP作業)が可能になったが、当時のタイの紙面作りはまだアナログ作業だったんじゃ。 文字入力したワープロからプリントした紙面と紙焼きの写真をカッターナイフでカットして、大きな版下台紙にスプレー糊とピンセットを使って貼り込んでいく手作業(版下作業)は、現代のDTP作業よりも、3倍以上の時間と労力を要したものじゃ。


■ コイツを採るなら、俺は辞める! ■
 
 人材派遣センターへの登録が完全に空振りに終わってから一週間後、S君は「毎日安いタイ飯ばかりじゃ身体がもたないから、たまには日本食屋に行きましょう」と誘ってくれた。 その日本食屋はS君の行きつけの店であり、日本人ママさんを紹介してくれた。
 そのママさんってのが結構な世話好きの方で、わしの日本での職歴を聞き出すと、頼みもしないのに日本語情報誌A紙の編集長を紹介してあげると言い出した。 「まあ機会があれば」なんてテキトーに返答してたら、ママさんはソッコーでその編集長に電話をしてさっそく編集長と翌日逢う段取りまでしてくれたんじゃ。 S君はママさんに「ありがとうございます」って御礼を言っておるんじゃから、ホントいいヤツじゃ!

 残念ながらA紙では人員募集をしてなかったんじゃが、ご親切にも編集長は別の情報紙B紙を紹介して下さり、B紙の事務所にお邪魔する段取りまでして下さった。
 ハナシがトントン拍子過ぎて怖いぐらいじゃったけど、こういう時は流れに乗るしかない! まあ海外で働くのは初めてだし、タイ語も出来ないし、採用されることなんかないだろうと軽い気持ちだったが、B紙の社長様と約1時間の面接の後に、なんと採用決定が下されたから驚いた! しかも編集長代理で働いてほしいとの有難いお言葉を頂戴したんじゃよ。

 その当時、B紙には編集長がいなかったようじゃが、タイ語も話せず、バンコクの地理すら分かっていない自分が現地情報紙の編集長(代理)なんて出来るのだろうかとポカ~ンとした。 過日、タイではまだDTP作業が出来ない事を知って愕然としたが、こりゃもうアナログ作業だろうが何だろうがやるしかない。
 「ではうちの若い日本人編集者2人を紹介しましょう」と社長様はご機嫌のご様子なので、どうやら採用決定はジョーダンではなさそうじゃった(笑)。

 しかしここから事態が急変した! 社長様に呼ばれて姿を現した編集部員の一人が、わしの採用に強引に反対し始めたのじゃ。 理由はただ一つ、わしがタイ語がまったく話せないこと。 彼はテーブルをひっくり返さんばかりの勢いで、「タイ語が話せない者を編集長にするならば自分は今すぐに辞めてやる!」と鬼の形相で喚き散らしたんじゃよ。
 更に黙りこくっていたもう一人に向かって、「編集長無しで頑張って来た俺たち2人の今までの苦労はどうなるんだ!」と激しく同意を求めている。
 あまりの彼の剣幕にわしは唖然としてしまい、弱り切った社長様は「申し訳ない。 採用については後日あらためて連絡します」」と本当に申し訳なさそうに言った。 何も悪いことはしていないのに、一方的に悪人扱いをしてくる様なクソガキなんざとうまくやっていけるはずもないので、「今日のお話は無かったことにして下さい」とわしの方から社長様に丁重に採用のご厚意をお断りした。

「日本の会社だったら、あんな即決採用やそのどんでん返しを短時間の内に受けることなんかないはずじゃ」
「しかしあのクソガキ、感情論で社長決定を覆そうなんていい度胸してやがるな」
「この前は人材派遣登録センターで、レベルが高過ぎるからダメって思いもよらぬダメ出しを食らうし・・・」
まったく予想も出来ないジェットコースター的な展開ばかりのタイの就職活動に、こりゃもう苦笑するしかなかったわい。


■“どんでん返しアゲイン”は、インドへ出発する当日に起こった!■

 僅か一ヶ月の間に色々あり過ぎたバンコクでの就職活動じゃが、所詮旅人の分際であり真面目に職探しをやっていたわけではなかった。 偶然の出会いに振り回されただけじゃったとも言えるな。
 わしは気分を100パーセント旅人に戻すことにして、いよいよインド出発当日を迎えた。 旅の資金は心もとないが、インドはタイよりもずっと物価は安いので、二、三ヶ月ならなんとかなるじゃろう、行くしかない!

 宿をチェックアウトする約1時間前、部屋でパッキングをしているとフロントのにーちゃんが「電話だよ」とわざわざ伝えに来てくれた。 電話に出てみると、先日情報紙B誌を紹介してくれたA誌の編集長じゃった。

編集長:「我々の編集部の日本人が来月辞めることになったんだ。 外国人労働者採用枠も一人分空くから、明日からでも仮採用ってことで来てくれ!」
わし  :「ぇえ? いやあの、これからインドに出発するんですけど・・・」
編集長:「インド? 今から?・・・とにかく、大至急そっちへ行くから待っててくれ!」

編集長はバイクタクシーを使って本当に宿までやって来た。 宿を出発するまでに残り30分しかなかった。

編集長:インドなんか行かないでくれよ。一緒に仕事をしよう。
わし  :ありがたいですが、今回の旅の最大の目的地はインドなんでどうしても行きたいんです。
編集長:どれぐらい行っているんだ?
わし  :三ヶ月ぐらいの予定です。 行かせて下さい。 お願いします。
編集長:・・・分かった。 二ヶ月ならいいよ。 三ヶ月は待てないから、二ヶ月後には必ずバンコクへ戻ってきてくれ!

 かくして二ヶ月後バンコクに戻ると、定宿のメッセージボードにはわしの就職活動のきっかけを作ってくれたS君の書置きが貼られてあって感動したわい!

 「就職おめでとうございます。 僕は中東に行くことにしました。 お元気で。 また会いましょう!」 

 そして編集長は約束を守ってくれて、わしを編集部に迎え入れてくれたが、S君に再会出来なかったのは残念じゃったなあ。 実はインドで激しい体調不良に見舞われたんで、どの道長くは滞在できなかったし、もう旅の資金もスッカンピン寸前だったし、もっと早くバンコクに戻ってくれば良かったと後悔したもんじゃ。
 S君や編集長との出会いがなかったら、多分わしには日本に帰国するしか生きる道はなかった。 ホント、人との出会いが人生を変えるものじゃ。

 タイ、東南アジアとの関わりは随分と長くなったもんじゃが、もっとも印象深い思い出は、就職活動らしきものをしてみた20年前のこの一ヶ月間じゃな。
 次々と知り合うことになり、その都度世話を焼いて下さった方々には申し訳ない言い方になるが、自分の知らない所で自分の進路、運命が操作されておって、有難いことも迷惑なことも突然やってくる! 驚きの連続のうちに、気が付いてみたら就職が決まっていたって感じじゃ! もっとも一般職ではなくて、情報紙の編集者という特定の技能職に一応はこだわっておった事が、案外ジェットコースター的展開を呼んだのかもしれない。 メディア編集なんて世界は一般職の方々に比べて変わり者が多くて、人の出入りが激しいからのお!

 わしを採用してくれた編集長はよく言っておった。 「ここは日本じゃないことを忘れないでくれ。 日本じゃ起こらないような事が毎日毎日あるんだよ。 だからおもしろいんだ!」と。
 「僕にとって日本じゃ起こらないことを最初に起こしてくれた人は、編集長、あなたです!」って返したような覚えがある(笑) 

 では最後に。
 「1999年七鉄のバンコク職探し騒動」は、後日談まで含めれば決してハッピーエンドではなかったんじゃ。 無事バンコクでの就職を果たした約三ヶ月後、社内的事情によって編集長とわしの立場が逆転してしもうたのじゃ。 つまりわしが編集長になってしまい、“前編集長”とお別れする羽目になってしもうたんじゃ。 
 そして編集長交代事件とほぼ同時期に、日本の姉貴に預けておいた19歳の愛猫が亡くなったという知らせが入った。 その猫はわしにしかなつかなかっただけに、「(編集長になったわしは)もう日本には戻ってこない」と察して旅立ってしまったに違いない。
 新しく重要な“何か”を得ることは、同時に古い大切な“何か” を失うことだという・・・それを地で行くことで 「1999年七鉄のバンコク職探し騒動」は一応の結末を迎えたのじゃった。
 
 諸君、今回もご清聴ありがとやんした!



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