NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.319

 ハロー諸君! ここ2回ばかりは思い切り自分の過去を振り返るテーマじゃったが、この際だからもう1回やってしまうことにした! 「ほほぉ~、七鉄もついにネタ切れだな。こりゃもうすぐ降板だな」って喜んだな、そこのキミ! まあ確かに「作家はネタ切れになると昔話にすがる」って言われるし、世の中でセンセーなんて呼ばれているお偉い作家さんに比べれば才能なんてちっぽけなわしじゃから昔話にすがっても無理はないよな!と開き直っていくぞ~。

 今から約四半世紀前の1993年に、当時原宿と渋谷に存在した数々の洋楽アーティスト専門店を経営する会社を辞職したわしは、その約半年後、貯金を食い潰す寸前で東京・高円寺にあった「自主製作メディ受託会社」で働くことになった。 音楽関係の仕事とはあまり関わりたくなかったが、エルヴィス、ビートルズ、ストーンズといったビンデージロッカーの世界から、日本の名もなきミュージシャンたちのCDを作るってのも「落差が激し過ぎて却って面白いかも!」と踏んで(笑)就職したんじゃ。 いわゆるインディーズ・レーベルの下請け会社じゃな。 他にも就職活動らしきもんはしたけど、ロン毛で痩せこけたアル中野郎なんか、まともな会社から相手にされんかったってのが最大の理由か!?

 時代はまだまだCD全盛時代。 インターネットなんか、一部の企業でしかビジネスに利用されてない頃であり、音楽業界もアナログの匂いが強い時代じゃった。 インデーズって、今なら「貧民ビジネス」って言われかねない世界かもしれんが、当時の若者は音楽家志望なら「まず1枚のCDを作ること」、文筆家志望なら「1冊の本を出版すること」が夢の第一歩であり、そんないたいけな彼らのささやかな希望を叶えることが小さなビジネスになっていたんじゃよ。
 ではでは、エルヴィス、ビートルズ、ストーンズらの文章を書きまくり、キャラクターズグッズを売りまくっていた七鉄は、インディーズ下請け会社に転職してから果たして何をやっていたのでしょうかあ~!?



自主製作メディア受託会社で学んだ
名もなきアーティストたちの熱き情熱


■CD製作の流れ、DTP(デスクトッププリント)という新しい印刷物製作技術を知った!■

 まずは、その会社に入って初めて知ったCDという商品が作られる一般的な過程について述べておこう。

①CD製作希望者に所定の音楽スタジオに入って演奏してもらい、「DAT(ディー・エー・ティー/ダット)」(左写真)という小さなテープに録音してもらう。
「DAT」については、以下Wikipediaの説明でどうぞ。
【音声をA/D変換してデジタルで記録、D/A変換して再生するテープレコーダーまたはそのテープ、また特にその標準化された規格のことである。】 【業務用機にはSCMS機能制限がなかったために、音楽録音スタジオなどでは爆発的に普及した。当初は民生用としてスタートした規格だが、民生用にしてはオーバースペックなほど高性能であり、早くから業務用としてプロの現場で活用され始めた。放送用素材やマスターレコーダー、アイドルやヒーロー等のイベント会場の音響として、盛んに利用された。】

②音楽が録音されたDATをCD原盤製作工場へ持ち込み、そこで原盤CDを製作してもらう。

③原盤CDをCDプレス工場へ郵送する。

(①~③の流れと同時に)
④マッキントッシュを使って、CDジャケット、CD盤面用の印刷データを製作する。

⑤CDジャケット用データは印刷会社へ送り、刷り上がったジャケットをプレス工場へ送ってもらう。一方CD盤面データはCDプレス会社へ直接送る。

 最終的にプレス工場にて、プレスされたCDの盤面に印刷がほどこされ、ジャケットはCD用プラスチックケースに挿入され、更に盤面印刷が終わったCDがセットされた後に納品となる。 この全ての作業のスケジュール管理、およびCDジャケットとCD盤面のデータ作りがわしの仕事となったのじゃ。

 「1枚のCDという製品が市場にお目見えするまでに、こんな過程を踏むんだな」とつくづく感心した!なんてのは真っ赤なウソであり(笑)、生まれて初めてマッキントッシュというコンピュータを使った印刷データづくりに大わらわ! それまで「一太郎」とか「花子」といったワープロ用簡易文章作成ソフトしか使ったことがなかったんで、マッキントッシュの基本操作、さらにイラスト製作ソフト(イラストレーター)、画像加工ソフト(フォトショップ)をマスターするだけでも大変じゃったわい! 大体パソコン、それ以上にマウスってヤツにさえ触ったこともないアナログ人間には途方もない苦痛の毎日じゃった!

 その会社には女性のデザイナーさんが既に3人いたんで、毎日2時間、時間の空いている方につきっきりで指導してもらった。 それまでワープロからプリントしたモンや生写真を台紙にペタペタ張り込んで印刷用版下を作っていたわしにとっては、何が何だかワカラナイ、自分のアホさ加減、時代遅れなレベルをデザイナーさんたちにさらけ出しているようなみじめ~な気分じゃったよ。 でも彼女たち皆んなが人間的に優しい方だったので、随分救われたもんじゃ。


■ CDジャケット、CD盤面の規格を間違えると大変! ■
 
 CDのケースにはいろんな規格(種類)があることはもちろん知っておったが、ケースに挿入されるジャケットのサイズが違うことは初めて知った。 シングルCD用の細長いヤツは誰でも違いが分かるが、通常規格サイズ、スリムケース規格、2枚組(3枚組)用規格、デジパック規格などがあり、これを間違えてデータを作って印刷してしまうと、プレス工場でケースに入らなかったり、ケース内に隙間が出来てしまう。 
 マッキントッシュの基本作業の習得でタリナイ頭脳を使い切っておるんで、ついやっちまうんじゃこのイージーミスを! 「ジャケのサイズ違ってますよ!」「ケースに入らないから、こっちで1~2ミリジャケをカットしておきますが、納品遅れますし、作業代頂きますよ」って数回ほどプレス工場からクレームが入ったこともあった!

 CD盤面印刷においては、当時のCDは真ん中の丸いホールの外側にもうひとつ円形の溝があるのが一般的であり、この溝の位置指定が1ミリでもズレると印刷できない! 一応使いまわしが出来る基本フォーマットがあるんじゃけど、やはりマックの基本操作に慣れていないんで、いつの間にかフォーマットのデータのロックを外してしまい、ズレたまんまでプレス工場に送ってしまい、またまた余計な修正作業代を取られたことも何回かあり、これだけのミスで納品が遅れてしまって発注者のお怒りを買ってしもうたこともあった。
 いやもう、最初の半年間ぐらいは生きておる気がしないくらい失敗と恥を重ねる毎日じゃった。

 プレス工場、発注者からのクレームをいきなり何回も体験したわしじゃが、偉かったのは社長さんじゃ。 わしのミスについて一切ノーコメントじゃった。 わしは毎月の様に減俸を覚悟しておったが、そんな事は一度も無かった。 わしが業務に慣れるのをじっと待っていてくれたもんじゃ。 本当に有難かったけれど、逆にそれがプレッシャーでなあ~(泣)


■事態が好転し始めたのは「新聞記事」から■

 ある時わしの苦悩の業務が好転するきっかけになる出来事があった。 毎日マックやソフトの指導をしてくれていた女性デザイナーの一人が、わしが会社の代表として新聞のネタになることを提案してきたのじゃ。 何でも元カレが産経新聞の記者であり、彼女は元カレが担当している「新しい仕事、新しい生き方をしている人物を取り上げる“きょうの人”」っつうコーナーにわしを推薦したというのじゃ!

 会社に迷惑をかけておるわしを何で?って当然のごとく断ったが、彼女は「一生懸命新しい生き方をしているじゃないですか!」って笑ってとりあってくれない!? また彼女には既に社内に新しい彼氏がおり、その彼氏は仕事がデキル男だったんで、「何で彼を推薦しないのか?」ってまったくもって不思議じゃった。
 わしはワケワカンナイまま産経新聞本社に赴き、テキトーに自主製作メディ会社の存在意義や将来性を語ったが、それがホントーに写真付きの記事になった! しかもインタビューの一言一句が正確に再現されていて驚いた。 業務に慣れていないクセして随分とエラソーな事を喋ってしまったんで社内で恥ずかしかったわい!
 やはり新聞報道の力は大きく、製作担当者としてわしを名指しの発注が少しづつ増えていき、業務にも慣れていったもんじゃ。 
(上写真はイメージ。わしのインタビューが掲載された記事とは無関係)

 余談じゃが、産経新聞に掲載されたことにより、予想外の恩恵が幾つかあった。 
 まず親父。 「オマエ、音楽の仕事って一体何やってんだ!」って、それまでまったく理解を示していなかったが、その新聞記事を見せたらひと言、「人間、好きなことをやるのが一番だな」と。
 また個人的な理由により退職した前勤務先の社長とは犬猿状態じゃったが、その社長が新聞記事を見たらしく、プライベートでは付き合いが続ていていた社員たちに「アイツ、新聞に出るなんて」とか羨ましがっていたそうじゃ(笑)
 さらに可愛がっていた後輩が田舎に招待してくれた時、ご両親がやはり新聞記事をご覧になっていたらしく、ものすご~く歓待してくれて、更に地元の新聞社にわしを推薦しておいたから面接に行ってくれと! いやもう恐縮の限りであり、一生懸命失礼のないようにお断りをしたもんじゃ。
 まだまだインターネットが普及していない時代だっただけに、「東京の新聞の威力ってスゲーな!」って実感したもんじゃ。

 ところでだ。 わしって少し変なトコがあり、折角大手の新聞に取り上げられたのに、それを積極的にその後の仕事や人生に活用したり、自慢のネタとして友人やガールフレンド相手に見せびらかすという気持ちが全くないんじゃ。 その新聞自体も親父に渡してしまったんで、以降四半世紀に渡ってお目にかかってすらおらん(笑) マスコミに取り上げられたというメリットに対して無頓着なんじゃよな~。 もう少しセコク、イヤラシク活用しておけば、わしの人生も変わったもんになったかもしれん!?


■色んなお客様、色んなご事情との出会い(オウム真理教からも!)■


 今でも忘れられないのは、CD製作依頼をしてくる方々には様々なタイプ、事情があったことじゃ。
 発注がもっとも多かったのは、ビジュアル系バンドとしてブレイクを熱望する若きロック野郎ども! みんな気持ちが熱くて、ジャケットデザインの打ち合わせでも超積極的でいいヤツが多かった! もっともジャケに使用したいという写真は別人の様に着飾っていて笑いを堪えるのが大変じゃった!
 オモシロカッタのは、打ち合わせの際に必ず彼女さんを連れてくること(笑) 「オレ、頑張ってんだよ!」って見せつけたかったんじゃろう(笑) そんで帰る間際、それまで無言じゃった彼女さんたちは必ず「よろしくお願いします」ってわしに頭を下げるんじゃよ。 ホント、みんな頑張ってメジャーになってくれ!って願ったもんじゃよ。

 結婚式の引出物として用意する為に、自作自演曲の録音CDの製作を依頼してくる方もおった。
 二週間不眠不休で作業したというトランス系サウンドが録音されたDAT持参で現れた死にそうなデジタルオタク君もおった。
 “彼女たち”と友人たちのためだけのクリスマスプレゼント用に、メジャーなクリスマスソングを録音したいと現れた、超ナルシスト君もおった。
 「わしらはアナログで勝負!」とばかりに、CDではなくカセットテープでって条件で、日本全国の民謡をハーモニカ合奏した音源を持ち込んだ初老の紳士もおった。
 「わしゃ~カラオケクラブの師匠じゃ。 生徒たちにわしの歌が入ったCDを配りたい」って、着物姿で登場したセンセーもおったのお。 CDの希望タイトルは「男は三度泣け!」(爆)
 在日外国人のお客様も時々あった。 中でも中国琵琶奏者の中国人女性からの依頼がもっとも印象的じゃ。 彼女のお名前は白艶(はくえん)さんとおっしゃり、DATを受け取りに彼女のマンションにお邪魔した際、目の前で中国琵琶を演奏してくれて感動したわい!
 自殺されたという息子さんの一周忌に合わせて、息子さんが生前残したプライベート録音の音源をCDにしたいというお母様からの発注を受けたこともあったわい。 製作期間があまりなかったが、何としても一周忌に納品を間に合わせようと各業者さんに無理を言ってお願いしたもんじゃ。

 そして極めつけじゃったのが、「オウム真理教」の高円寺支部から電話があったこと! 地下鉄サリン事件により、オウム真理教が日本中から非難轟轟の真っ最中の時期であり、電話をとってしまった女性総務が「アタシ怖い!お願い、電話変わって下さい!」って言われて仕方なしにわしが電話応対に出ると、「尊士の説法を録音したCDを大至急2,000枚プレスして頂きたい。 お金は幾らでも出します」とのこと。 恐らくあっちこっちで断られた挙句に電話してきたんじゃろうが、さすがにこの発注は受けることは出来なかったわい!


■ファイナルワークは、ミッキー吉野と■

 この会社での最後の仕事は、 なんと元ゴダイゴのミッキー吉野の依頼による自主製作CDじゃった。 ゴダイゴは1980年代に栄華を極めたものの既に解散状態にあり、ミッキー吉野は様々な事情からソロアルバムの発表に自主製作というスタイルを選んだのじゃ。
 タイトルは『THE EARTHMATICS 1 ゴダイゴ記』。 ゴダイゴのメンバーじゃったギタリストの浅野孝已、ベーシストのスティーブ・フォックスが参加したレコーディングにはわしも立ち会った。 立ち会っただけじゃ! 決してダイナマイト・シャウトしとらんぞ!(笑) 浅野氏はスゴイダンディな方で、「キミ、産経新聞に出た人だね」って言われて恐縮してしまったわい!
 またレコードジャケットのデザインの打ち合わせにも何度も参加した。 「オイルペインティングの感触が強過ぎるので、色を少し薄くして水彩色感覚を出しましょう」なんてエラソーな提案もしたわい。 最後の打ち合わせの時に、ミッキー吉野から「良いアドバイス、コーディネイトをありがとう。 あなたの名前も中ジャケに入れておいて下さい」って言われた時は嬉しかったなあ~。
 そのCDはミッキー吉野という有名ミュージシャンからの依頼品ってことで、会社の製作物展示コーナーのど真ん中にど~んと飾られることになり、わしも10枚くらい貰った。 しかし先述した産経新聞の記事じゃないけど、どうもこういうブツに対する執着心が無さ過ぎであり、そのCDも全部会社に置いてきてしまい、手元には1枚も残さなかった。

※右写真は、1980年代のゴダイゴ時代の、(左から)スティーブ、浅野、吉野各氏)


今でも飯が食えている技術の基本を学んだ二年半■ 


 この自主製作メディア製作会社には二年半ほど勤めたもんじゃ。 1枚のCD、それは「わしのロックンロール魂を焚きつけてくれる炎のアイテム」だったんじゃけど、自主製作って世界に入りこんだお陰で、名もなき作り手の様々な思惑、事情によって成立する物もあるのだってことを教えてもらったわい。 有名アーティストたちが「炎のアイテム」を完成させるもっとももっと前の段階のピュアな創作意欲の一端を、名もなきアーティストたちから教えてもらったともいえるな。

 そして何よりも、PCワールド、ソフト/アプリケーション・ワールドを学ぶことが出来たことが大きかった。 今わしがこうやって飯を食えておるのも、この会社での体験のお陰じゃ。 最初はクレームばっかり受けていたわしをクビにせず、黙って見守ってくれた社長さんに今でも深く感謝しております。
(ページ・トップ写真と下写真は、当時わしが使用しておった、マッキントッシュの旧L/Cシリーズ)

 今にして思えば、産経新聞に紹介された記事、名前がクレジットされたミッキー吉野のソロアルバム、それはわしのこの会社で携わった仕事の2大シンボルじゃった。 喜んで人に自慢しまくり、手元において事あるごとに眺めながらいい気になったって誰もわしを責められないじゃろう。 しかし、繰り返すがこの2アイテムに対してわしは思い入れがあまりにも無さ過ぎたのじゃ。
 そのよくワカンナイ自分の深層心理をこの度考えてみたんじゃけど、恐らくこういうことだったんじゃないか?って思い当たるふしがあった。
 わしは幼い頃からお袋に言われ続けたもんじゃ。
 「オマエは物覚えが悪いし不器用だから、人一倍努力しないと人並みになれない。 でも努力している姿、苦しんでいる姿を他人に見せるな!」
 この言葉が無意識のうちに血肉化しておったんじゃろうな。 当時は毎日が修練、失敗の連続であり、わしは自分自身に自信がなかったのじゃ。 だから、たとえメジャー様と関わったとはいえそれは単なる幸運に過ぎず、ブツを手元に置いたり他人に見せびらかしたりするのは、自信がないから努力しているという自分の痕跡を残すようなものだと思ったんじゃろう。

 まあ実のお袋しか言ってくれない厳しいご指摘が招いたヒネクレタ考え方じゃけど、その一方で、女のお袋が教えてくれた男のダンディズムってヤツだったのかもしれないとも思えるわい!
 色々ありました二年半、退職したのは1996年夏じゃったか。 そろそろ生まれながらの放浪癖が復活してきて、ユーラシア放浪への準備を始める時期が近づいてきたのでありました。 以上、今回もご清聴ありがとやんした!


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