NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.288

 ハロー諸君。 アメリカ・メジャー・リーグ大谷選手が素晴らしいスタートを切ったのお! まもなく「ビバラス」に出かけるご予定のThe-Kingのボスも、大谷選手がトンデモナイ活躍をして全米で話題になっておる最中の渡米なので、同じ日本人の大ホープであるということでボスは「ビバラス」で大いに優遇されることじゃろう(笑) いやいや、ボスはロックファッション全般を手掛けておるので、二刀流どころか十刀流じゃあ~って、わしはすっかりコーフン状態におちいってしまっておるわい! ここはひとつ、久しぶりに野球ネタを書いてみたい! それも大谷選手の専売特許であり、日米のプロフェッショナル野球の歴史上、滅多に起こり得なかった「二刀流」の歴史、実例を語らせて頂くとしよう。

 考えてみれば、投打の二刀流選手というのは高校野球までは当たり前に存在するが、所詮プロレベルでは通用せんとされてきた。 特に現代野球においては、ディフェンス、オフェンスの両サイドにおいて戦略が細分化され、「1シーズンという大きなパズル」の中の小さなピースに個々の選手が持つ個性が当てはめられていく傾向が強い。 ベンチ入り25人全員の能力を活かし切る戦術じゃ。だから、一人二役なんて発想すらない、発想自体が馬鹿げていると考えられておるのが現代野球なのじゃ。
 しかも先発投手の役割は5~6イニング程度。 それも年間30試合程度の登板がリミット。 そんな投手受難の時代に、投手をやりながら打者でも一流の成績を出すことなんて不可能なのじゃ。 その不可能を23歳の若者、それも野球能力はワンランク下とみなされている日本人選手がやってのけようとしておるから、大谷選手は全米で驚愕の存在なのじゃ。 う~ん、ロックンロールの世界で例えれば、ジミ・ヘンドリックスばりのギターを弾きながら、エルヴィスばりのヴォーカルをカマセル事が出来るヤツってとこかいのお~(笑) こりゃ到底アリエマセン!

 これから大谷選手がどんな記録を積み上げていくのか、わしもそこまでは予想できないわな。 しかし野球ファンが不可能と思い込み、とっくの昔に忘れ去られていた「二刀流」という過去の遺物的なプレーのわずかな実例をこのわしが諸君へ紐解くことで、今後の大谷選手の活躍に胸を膨らませて頂ければ幸いじゃ!

祝・大谷選手MLB初勝利&3試合連続本塁打!日米プロ野球二刀流の歴史!!

■Part 1 遠い昔に活躍した日米元祖二刀流 ■

ベーブ・ルース~打者としての覚醒が二刀流を封印させた
キング・オブ・ベースボール!


 大谷選手が活躍する度に「ベーブ・ルース以来の~」と形容されるな。 大体ベーブ・ルースが一時期投手だったってことすら知らん人が殆どじゃろうから、ベーブ・ルースの軌跡を簡単に紹介しよう。
 ルースが活躍した時代は1910~20年代。 通算714本塁打、シーズン60本塁打という、当時としては破天荒な大記録を打ち立てたことで、アメリカではルースは「キング・オブ・ベースボール」と呼ばれておる。
 元々ルースは1914年にボストン・レッドソックスに投手として入団し、6年間でシーズン20勝以上2回を含む通算89勝46敗という成績を残しておる。 投手として出場する以外は時々外野手として出場し、1918年には11本塁打を打ち、投手としての登板が減った翌19年(17試合9勝)には29本塁打を打っておる。
 投手として9勝、打者として29本塁打、これは一昨年の大谷選手(10勝22本塁打)に匹敵するスゴイ成績じゃ。 しかも当時は指名打者制(DH)が無かったので、外野手としての守備の負担も請け負いながらの二刀流じゃった。

 ところが、誰もがルースに打者一本に絞って本塁打を増産することを望んだ。 当時は典型的な投高打低の時代であり、打者が年間に二ケタの本塁打を記録することすら稀であり、ルースの29本塁打は驚異的な記録だったので、二刀流は賞賛されなかったのじゃ。
 ルースはニューヨーク・ヤンキースに移籍した1920年から打者に専念していきなり54本塁打! 以降も本塁打をぶっばなし続けながらアメリカン・ヒーローの座へと駆け上っていったのじゃ! ある意味で、ルースの打者としての大活躍が、二刀流という極めて特殊で異端なスタイルを野球界の闇に葬ってしまったと言えるじゃろう。


ジョー・ブッシュ&クラレンス・ミッチェル

 実はベーブ・ルース以前に二刀流を始め、ルースが打者に専念した以降もひっそりと二刀流を続けた選手が2人おる。 ジョー・ブッシュ(196勝、313安打)、クラレンス・ミッチェル(125勝、324安打)じゃ。  二人とも投手としては一流の成績を残しておるものの、打者としては大成しておらんが、現役最後まで二刀流を貫いておる。
 ブッシュは1918、9年はルースの同僚(レッドソックス)だったので、一チームに2人の二刀流選手がいたのじゃ。 ミッチェルは1933年にマイナーリーグに降格した後も二刀流を続けて、51歳でで完全引退したという鉄人じゃった。


参考知識~スモーキー・ジョー・ウッド 
 ベースボール・マニアの間では、「二刀流」の解釈を「投手時代と打者時代と、2つの時期でいずれも活躍した」と広げた場合には、「真の元祖・二刀流」はベーブ・ルースでも、ジョー・ブッシュでもないという説を唱える者もいる。 その説によれば、1910年代の名選手スモーキー・ジョー・ウッドこそ元祖であるらしい。 
 ウッドはルースよりも6年早い1908年にボストン・レッドソックスに投手として入団。 以降8年間で30勝以上1回、20勝以上1回を含む通算117勝を記録。 1916年指の怪我により一旦引退。 この年はルースがウッドと入れ替わる様に投手として主戦を張り始めた年でもあるのじゃ。

 その後ウッドは1917年クリーブランド・インディアンスにMLB選手として復帰してからは打者として活躍。 現役最後となった1922年には8本塁打、150安打、92打点、打率.297を記録している。 大谷選手が初本塁打を放ったのが、遠い昔にウッドの在籍したインディアンスとのカードであり、これも何かの因縁じゃろうか!?



関根潤三~弱小球団において二刀流で奮闘した“あの優しいオジサン”


 プロ野球解説者として、ジェントルでソフトな語り口で人気の高かった関根さん! 実はこの人こそ日本プロ野球における元祖・二刀流選手だったのじゃ。
 1950年に近鉄に投手として入団し、以降8年間で65勝94敗を記録。 数字だけを見ると二流投手じゃが、当時の近鉄は万年最下位の弱小チームであり、関根選手はエースとして孤軍奮闘しておった。 53年からは3年連続二桁勝利を挙げておる。 その間も時折野手としても出場しており、打数は少ないながら毎年2割8分~3割の打率をマーク。

 肩の故障で登板がめっきり減った1957年には(登録は投手のまま)、打者として突如年間122安打、打率.284を記録。 翌年から野手に転向して通算1137安打59本塁打を記録した。 投手として1回、野手として4回オールスター戦に選出されており、投手と野手と別々にオールスター戦に出場した日本プロ野球史上唯一の選手じゃ。


参考知識~永淵洋三

 この選手の名前、諸君の中で知っておる方がいたら、その方は相当の野球マニアじゃ。  先述の関根潤三氏が近鉄を去った4年後の1968年にドラフト2位で同球団に入団した、身長168センチの小柄な選手じゃ。 大酒飲みの選手でもあり、漫画「あぶさん」のモデルになったことはマニアの間では有名じゃ。
 入団した68年には、試合途中で代打に出て、次の回にマウンドに登り、何人か投げて、外野の守備に回ったり、外野からワンポイントリリーフでマウンドに行き、終わると又外野に戻るような出場記録も残しておる。 結局この年は投手として12試合に登板して19回1/3イニングスを投げておる(0勝1敗)。 外野手としての出場がメインであり、打撃成績は74安打5本塁打。 まあ記録を見れば、投手登板はアルバイト程度なので本格的な「二刀流」とは言い難いが、選手数不足で投手が致し方なく野手としても出場していた戦前の時代を除けば、永淵選手の投手打者兼任の記録は貴重ではある。

 ところがこの永淵選手、打者(外野手)に専念した翌69年には、打率.333でいきなり首位打者に輝いた! 以降は3割打者の常連として活躍を続けることになったのじゃ。 ベーブ・ルースのパターンと同様に、永淵選手の打者としての覚醒が「二刀流」を封印してしまったのである。
 ちなみに永淵選手は引退した1980年以降はスカウトに転身。 「最近はどこの球団も体の大きな選手ばかり捕りたがる傾向にあるが、日本人の身体能力からして、スポーツ選手の身長は170センチ台半ばぐらいが理想的だと思う」という印象的なコメントをわしは読んだことがある。 時代が変わったとはいえ、身長193センチの大谷選手の二刀流を、永淵元選手はどんな思いで見ておるのじゃろう。


■ Part 2 投手として出場した試合での本塁打記録 ■

 ベーブ・ルースが打者として大爆発を起こしたことで、メジャーリーグ全体が空前の本塁打ブームとなり、以降は長きにわたって「二刀流」はお呼びでなくなっておったのじゃ。 そうなると「二刀流」が見られるのは、いち選手が投手としてマウンドに立ちながら、打者としても打席に立つ試合のみ。 
 しかも投手が打席に入らない指名打者制のある米アメリカン・リーグ(1973年から)、日本パ・リーグ(1975年から)では見られないから、「二刀流」の活躍が起きる確率は非常に稀じゃ。 そこで投手が登板した試合に打席に立った場合の本塁打記録を見てみよう。

ウェス・フェレス=通算38本、シーズン9本
 メジャーリーグでの投手の本塁打記録は、ウェス・フェレスという選手の通算38本塁打がトップ。 フェレスは主に1930年代に活躍した投手で、シーズン20勝以上6回を含む通算193勝を挙げた名投手であり、投手としてシーズン9本塁打もメジャー記録じゃ。
 1931年4月29日にノーヒットノーランを達成した試合では、自ら本塁打と二塁打を含む4打点を挙げている。 日本ではまったく無名のウェス・フェレス、これを機会に名前ぐらいは憶えておいてほしいぞ!


金田正一=通算36本
 ご存知日本プロ野球史上唯一の通算400勝投手じゃ。 投手としての様々な通算記録の持ち主じゃが、打者としても一流。 投手として出場しながら放った本塁打36本も日本記録。 またサヨナラ本塁打、代打本塁打も2本も打っておる。 代打本塁打の1本は巨人在籍時代(1968年)。 当時の巨人はV9の黄金時代の真っただ中。 強力な代打陣を差し置いて起用されただけでも驚きなのに、しっかり本塁打を記録しているところはサスガじゃ!

 ちなみに金田選手は高校を中退してシーズン半ばに国鉄スワローズ(現ヤクルト)に入団した1950年、17歳2ヶ月で本塁打を放った。 これは日本プロ野球史上「最年少本塁打記録」じゃ。 また巨人のV9がスタートした1965年に巨人に移籍した金田選手は、開幕戦に起用されて完投勝利を挙げる傍ら、自ら本塁打を放っておる。 巨人V9時代の「第1勝目」は金田選手の投打の活躍によってもたらされたのじゃ。

藤本英雄=シーズン7本塁打
 藤本英雄選手は、日本初の完全試合(パーフェクト・ゲーム)を記録したり、日本人投手で初めてスライダーを投げたこと等で有名じゃ。 完全試合を達成した1950年、投手としてのシーズン7本塁打の日本記録も作っておる。 また49~51年の3年間は、通算10本塁打、平均打率.285という打者顔負けの打ちっぷりを見せておる!

 この「投手7本塁打」の記録は破られそうで破られない一種の珍記録。 1960~70年代は各球団のエース級投手の本塁打が割と見られた時代じゃったが、金田正一6本(1962年)、米田哲也(阪急)5本(60、68年)、成田文男(ロッテ)5本(69年)、平松政次(大洋)5本(71年)、松岡弘(ヤクルト)5本(77年)等、ついに7本に到達することはなかった。


■ Part 3  1試合限定二刀流の奇跡!~昭和40年代のエースたちの偉業 ■

 昭和40年代(1965~74年)に活躍した日本プロ野球球団のエースたちは、とにかくよく打ったもんじゃ。 自らのソロ本塁打による1点を守り切って勝ったり、均衡試合を打破する本塁打を放ったり、「野球は一人でも出来る」と言わんばかりの活躍を時折見せてくれた。 中でも次の3人の「二刀流」ぶりは既に伝説もんじゃ!

堀内恒夫=ノーヒット・ノーラン&3本塁打、日本シリーズ完投勝利&2打席連続本塁打
 ご存知巨人V9時代のエースで1965年のドラフト第一期生。 「投手でダメでも内野手として使える」という評価で巨人は堀内を指名したという逸話があり、また堀内の高校時代の恩師が、巨人の川上監督に「あの子に野球を教えなくていい。 野球だけなら、あなたやONよりも上手いから」と語ったほどの抜群の野球センスの持ち主じゃった。

 入団2年目の1967年、ノーヒットノーランを達成した試合で自ら3本塁打という仰天記録をマーク! 投手の1試合3本塁打は日米の野球史上唯一じゃ。 「4本目を狙っていたので、ノーヒットピッチングをやっていることを忘れていた」と語っているほど、その野球フィーリングは「宇宙人」じゃわい!
 また1973年の日本シリーズ第3戦(対南海戦)では、これも史上初の投手として2打席連続本塁打を放って完投勝利。 第2戦でも決勝安打を放っており、この活躍によりシリーズ最優秀選手に輝いた。 1983年の現役最終登板の試合でも、十八番である本塁打をぶっ放して引退試合に詰めかけた大観衆の度肝を抜いた! 最後の最後まで「二刀流」を見せつけてくれたと言ってよいじゃろう。

江夏豊=オールスター9人連続三振&場外本塁打、延長戦ノーヒット・ノーラン&サヨナラ本塁打
 堀内と同時代に活躍した阪神のエースじゃ。 江夏といえば、豪速球で三振をとりまくったイメージが強烈じゃが、打者としても派手に活躍したもんじゃ。
 まず1968年にシーズン奪三振記録(353個)を達成した試合では、延長12回に自らサヨナラ安打。 また1973年に史上初の延長戦ノーヒット・ノーランを記録した試合では、延長11回裏にサヨナラ本塁打! 当時の阪神は打線が弱かったため、江夏は大記録達成の試合を自分のバットでケリを付けておったのじゃ。

 伝説のオールスター戦9打者連続三振を記録した試合(1971年)では、打者として場外本塁打までぶっ放しておる! 確かな記録かどうかは定かではないが、この試合が行われた西宮球場における初の場外本塁打だったとか。 以降、西宮球場での場外本塁打はたったの1本(阪急・加藤秀司)しか出なかったらしい。

成田文男=満塁本塁打2本、3試合連続本塁打
 1962~1972年まで東京の下町(荒川区・南千住)に存在した東京スタジアムで投げまくっていた東京/ロッテ・オリオンズのエースが成田文男(入団は65年)。 成田が活躍した時代は巨人、セ・リーグ大偏重時代であり、一般的にはパ・リーグはあまり注目されていなかったが、成田の記録は一級品じゃ。 20勝以上4回を含む通算175勝、最多勝利投手2回、ノーヒットノーラン1回、オールスターゲーム選出8回等、堀内や江夏に引けを取らない投手としての輝きを残しておる。

 成田は打者顔負けの巧みなバットコントロールを誇った打者でもあり、69年には投手として登板した3試合に連続して本塁打を放っており、投手生涯で満塁本塁打も2本記録。 また71年には1試合2本塁打6打点を挙げておる。
 プロ野球界全体の投手力が上がり、投手の好打撃があまり期待出来なくなっていた1973年、成田は打率.288を記録していることも特筆もの。 この年からロッテの監督に就任した元400勝投手の金田正一は、「投球、守備、打撃、何をやっても上手い」と成田のマルチな才能に舌を巻いていたという。


 ベーブルースは約100年前、関根潤三は約60年前、昭和40年代のエース投手たちは約50年前・・・遠い昔に活躍した二刀流選手たちに思いを馳せた時、「彼らと大谷選手と、果たしてどっちがスゴイのじゃろう?」と野球少年の様な気持ちになって懐かしいことこの上ない。 野球の歴史にしろ、自分の人生にしろ、長い長い時間の隔たりを一気に埋めてくれて、過去と現在とを見事にコネクトしてくれる大谷選手には、チョットおかしな言い方だがとても感謝しておるのじゃ!
 今後の大谷選手に望むことは、野球少年全員が夢見ていた「エース兼4番」であり、「20勝&3割40本塁打」じゃ! そんな無垢な夢を託せる選手が、わしが生きておる間に出現したことが本当に嬉しいわい。


■ Part4 「4番ピッチャー大谷」 ■

 最後に大谷選手が打者として出場する際の「指名打者制度」について。 これは打撃力が弱い投手の代わりに打撃専門の打者が打席に立てる制度だが、実は使っても使わなくてもいい制度なのじゃ。 だから「4番ピッチャー大谷」はルール上は可能なのじゃ! ただし、もし大谷選手が完投出来ずに途中で退いた場合、代わって登板した投手もその試合中は打席に立たなければならないという決まりがある。 これは投手の完投が難しい現代野球においてはリスクが大きい戦術じゃ。

 ならば、まず投手・大谷選手には必ず完投もしくはロング・イニングを投げてもらい、投手として出場したその試合にも打席に立ち続けてもらいたい。 そうすれば「投手兼4番」は可能じゃ! そして更に指名打者としても他の試合で打席に立ってもらいたい。 ここまできたら、大谷選手にはそんなどデカイ夢に向かって邁進して頂きたいものじゃ!
 「4番ピッチャー大谷」
それがスタジアムにコールされた時、それは大谷選手がベーブルース以来の「キング・オブ・ベースボール」の座に大きく近づいた時なのじゃ!

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