NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.257

 2016年のこのコーナーもついにラスト。 The-Kingは前回のジャケット、今回のシャツ、いずれも「神ってる」クオリティでビシッとキメテクレタ! これぞロッカーの一年の〆に相応しいお仕事じゃな! わしの方は、え〜とあくまでマイペースでやりますわい(笑)

 今年は珍しく新しめのロックをたくさん聞いた一年だったんで、ここ2回ばかりはオールド・ロック、ヴィンテージ・ロックを度外視したテーマで迫ったが、一年の最後はやはりわしのフェイバリットであるブルース・ロックのテーマで締めくくってみよう。
 というのも、先日発表されたローリング・ストーンズの11年ぶりの新作『ブルー&ロンサム』に打ちのめされてしまったからじゃ。 全曲ブルースのカバーなんじゃけど、復活とか蘇生とかのレベルを遥かに超越した大爆発がストーンズに起こっておったからじゃ。 詳しくは後ほど述べるとして、あらためてロックンローラーにとってのブルースという音楽の威力、魅力、存在価値ってもんを否が応でも考えさせられるまさに衝撃の一枚じゃった。

 ロック史の中でブルースのカバーは星の数ほどあるが、完全カバーアルバムとなると意外と少ない、というか、21世紀に入るまではほとんど存在しなかった。 オールド・ロックンロール、スタンダード・ポップスのカバーとはまた違って、やはり親玉ブルースとなるとどんなロッカーでもアルバム1枚を作る勇気がなかったんじゃろう。 また一般的にはアメリカではブルースは長らく大きな商品価値はないとされてきたので、ロッカー側にやる気はあってもレコード会社が承認しなかったということも充分に考えられる。
 そこでわしが、『ブルー&ロンサム』を機に数少ないロッカーによるブルースのカバーアルバ厶を引っ張り出して聞いてみたので是非とも紹介してみたい! ブルースにあまり興味ない方は、ひょっとしてブルースというと、あの♪〜ズッズチャッチャーン〜ズッズチャッチャーン〜♪っつったおも〜いノリを連想してうんざりするかもしれんが、そんなんばっかりがブルースではないんで、どうかご安心を(笑) 『ブルー&ロンサム』を含めてアルバム全7枚、完全ズブズブ、ドロドロのコピーは1枚もない。 ブルースがロックという音楽の中、またロックバンドの精神の中で如何なるかたちで息づいておるかってのが、聞いておるだけでいわば有形無形で認識できる作品ばかりであります!


ブルースカバー・アルバム7選! ブルースはロッカーに何をもたらしたのか?


★ 「ブルー&ロンサム/ローリング・ストーンズ」(2016年発表) ★ 

 ミック・ジャガーとキース・リチャーズは73歳、ロン・ウッドは69歳、そしてチャーリーワッツが75歳って「嘘だろう!」。 なんなんじゃ! このアルバムの得体の知れない異常すぎるハイテンションは!!

 彼らが五十路を過ぎた四半世紀前から何かにつけて「ストーンズは若い」「いまだにカッコイイ」って連発されてきたが、わしはちっともそう思わんかったよ。 数年に一度だけアルバム出して懐メロツアーをやるバンドが若いはずがないのじゃ。 基本的に出しておる音は年相応だし、見かけだって日本人の同年齢よりも老けとる連中が「カッコイイ」わけがないのじゃ。
 確かに身体能力の衰えが遅くて、好きなことをやり続けておる者だけが放つ溌剌とした「オーラが強い」。 それをアホなマスコミがまず「若い」「カッコイイ」って騒ぎ立てておるだけなのじゃ。
 ところが新作『ブルー&ロンサム』において、わしはストーンズに対する認識を大いにあらためなければならなくなった! 「若い」「カッコイイ」なんぞはもはや必要なく、彼らは年齢不詳の「ロックンロールのクレイジーモンスター」になってしもうたのじゃ。
 肌に充分な色艶があるのに深いシワも刻まれておる化物。 ゲスなオンナをこまし続けているのに清楚な美女も魅了してしまう化物。 無法者の風体、キャラなのに煌びやかな舞台でもキマル化物。 そしてブルースのトーンにガキのようにはしゃぎながらも、突如としてオリジナル・ブルースを紡ぎ出せる化物。
 もちろん以前からその兆候は見え始めてはおった。 それは、数年前にマーティン・スコセッシと共同製作されたライブ映画「シャイン・ア・ライト」。 その中でブルースのカバーをやるシーンがあるのじゃが、その時突然ストーンズの姿が巨大化するのをスクリーンで確かに感じた。 ストーンズの4人だけでライブ会場であるビーコン・シアターを破壊してしまうようなサウンドオーラをブチカマシテおったのじゃ。 その時、「ストーンズの“本当の勇姿”はこのシーンが最後かもしれない」なんて思ったりしたもんじゃが、あの時の衝撃が『ブルー&ロンサム』全編で炸裂しておるのじゃ。 いやいや、『ブルー&ロンサム』によってストーンズは更に何十倍も巨大化して、本当に実在するモンスターになっちまった! およそ音楽家、いや人間という生命体の進化論では考えられない突然変異がストーンズの連中に起こったとしか言い様がない!

 冷静になって聴き直してみると、とにもかくにもミック・ジャガーの存在感が圧倒的じゃ。 近年はミックよりもキース・リチャーズの言動が取り沙汰される割合が多く、「ストーンズはキースがいなけりゃ」的風潮もなきにしもあらずじゃったが、やっぱりストーンズはミックが先頭に立って爆進するべきバンドであることを思い出させてくれた。 メンバーとのコラボがどうしたとかはストーンズには似合わない。 ミックのあまりのやる気に気後れしたのか、キースがことのほか今回はおとなしい(笑) ストーンズという重量戦車にブルースという武器を大量に積み込んで、ミック・ジャガー軍曹自らが的確にブルース砲弾をブッパナシテおる!
 ミックの次に張り切っておるのが、実はロン・ウッドなのじゃ。 立場が「キースの弟分」なだけに、その功績があまり目立ってこなかったが、今回は“やってくれている”! 特にリードギターのパートはほとんどがロン・ウッドであることが明白であり、クラプトンの域に到達したかのように冴えまくっておる。 時折聴かせる鋭利なカッティングも、かつての名盤『サム・ガールズ』での熱演が再現されておるかのようじゃ。
 そう、『ブルー&ロンサム』全体の感触はわしには『サム・ガールズ』に近いのじゃ。 パンク・ブームを吹っ飛ばすかのような超攻撃的で硬質なリフの嵐をキメていたのはキースとそれに引っ張られたロンじゃったが、今回はロンがキースを誘導しておるようじゃな。
 まあキース・ファンは当てが外れた様に聞こえるかもしれんが、こうした弟分の充実ぶりを影で支えるのもキースの重要な役目であり、つまり『ブルー&ロンサム』ではキースは完全に裏方に回っておるのじゃよ。 逆にこういう時のストーンズってのは、角をためとるようで何をしでかすか分からないほどデンジャラスになる! その結果が『ブルー&ロンサム』だと認識されたし。
 そしてチャーリー・ワッツもキメまくっておるぞ! この人って、ストーンズがキャリアを重ねれば重ねるほどプレイが益々冴え渡ってきておる。 まさにドラマー盛り!ってなプレイであり、今更ながらにストーンズ内のスター・プレイヤーに昇格したようにお見受けする! 将来の参考にしたくなるようなエエ歳のとり方をしたお顔をしとるし(笑)、今もっともカッコイイおじい様じゃよ! ミックがどんなにハメを外そうが、キースがどんなに酔いどれようが!?、必ず「ザ・ローリング・ストーンズ・サウンド」に連れ戻すことのできる求心力をもったドラミングじゃ。

 『ブルー&ロンサム』は、純然たる意味合いにおいてはブルースじゃないと思う。 ストーンズ自体も、案外ブルースという枠だけで云々されるのは望んでおらんかもしれん。 ブルースをフォーマットして、人間としてロッカーとして、またバンドとして何が演れるか。 それを世間に啓示してみせた正真正銘のロック・アルバムじゃ。
 ロック・アルバムに人々が求める思いは、エクスタシー、カタルシス、センセーション、ニュー・インテリジェンス、ニュー・ブルース・エモーションetc 『ブルー&ロンサム』の完成度はそのどいつとも異なる。 とにかくブルース・カバー・アルバムの中ではスバ抜けて異次元にあるだけに、その評価のされ方はしばらくは混迷を極めるじゃろう。
 じゃがこんな途轍もない種類のロック・アルバムを作り上げてしまった以上、ストーンズに望むことは、『ブルー&ロンサム』によって変異した自らを積極的に世間に披露していくことじゃろうな。 それこそが、とにもかくにもバンドを継続し続けることで若干形骸化してきたストーンズの名声ってヤツを、名実ともに音楽史に刻み込むため彼らの最後の使命じゃと思う!


★ 「マディ・ウォータース・ブルース/ポール・ロジャース」(1993年) ★

 オープニングとエンディングにオリジナル・タイトル・ソングが配されてはおるが、その他13曲は全てマディー・ウォータースのカバー。 ロック・ミュージシャンのブルース・カバー・アルバムのハシリ的作品であ〜る! 当時ソロ・ボーカリストとしての活動がイマイチだったポールにとって、起死回生のヒットアルバムとなった。
 60年代末期からフリー、バッド・カンパニー、ファーム(withジミー・ペイジ)、ロウ(with ケニー・ロジャース)等のバンドで白人ブルース・シンガーの最高峰という称号をほしいままにしてきたポールにとっては、それまで誰もやってなかったとはいえ、ブルースカバーアルバムはお手の物の企画だったんじゃろうけど、予想に反して、ブルース・ロックを通り越してロック!になっとる。 が、しかしロックの根底にあるのがブルースであり、ブルース・スピリットを忘れたらロックにならない!ということがよぉ〜く分かる仕上がり具合に今更ながらに唸ってしまう。
 ジェフ・ベック、デイヴ・ギルモア、ブライアン・メイ、ゲイリー・ムーア、ニール・ショーン、ブライアン・セッツアー、スラッシュなど、新旧の凄腕ギタリストたちを招聘しているにもかかわらず「ボーカル・アルバム」に仕上げてしまったのは、やはりさすがポールじゃ。 ポールに十八番のスタイルでやられまくるとさしものギタリストたちも従順にならざるをえないというか、またそれが彼らのブルース・スピリットを引き出しておるともいえる。 ブルース・カバーという内容は別にしても、スター・ギタリストたちが出しゃばる気を失くしてしまうほどの技量とテンションをもったロックヴォーカルを久しぶりに聞かされたもんじゃ。 もっともこれができるのは、エルヴィスは別として、やはりポール・ロジャースとロッド・スチュワートぐらいじゃろう。

 ただし発表当時はどうにも拭いきれない違和感もあった。 極めて正当的なブルースシンガーのポールの声質と、演奏者たちの奏でる現代的なエレクトリックサウンドがどうにもマッチしないのじゃ。 これはオールド・ロック・ファン、オールド・“ポール・ファン”なら誰でも感じたであろうが、ブルースが絶対的な基本であるというポールの信念に裏打ちされた溌剌とした歌いっぷりに、やがてそんな厄介なジレンマは吹き飛ぶことであろう。 ポール・ロジャース復活の起爆剤になったアルバムであるとともに、ブルースが新しい時代にも聴き継がれていくためのひとつのフォーマットが作られたアルバムでもある。


★ 「フロム・ザ・クレイドル/エリック・クラプトン」(1994年) ★

 発表された当時は、まさにクラプトン・ブーム最盛期! 何をやっても大当たりするクラプトンにとって我が世の春じゃっただけに、ブルースのカバーアルバムというシブイ企画をかますにゃあ絶好のタイミングじゃった(笑)
 クラプトンは後にB.B.キングとのジョイントやロバート・ジョンソンのカバーなどの同系の作品を製作しとるが、本作がもっともモダンで洗練されたブルース・アルバムになっておる。 そして、クラプトンのアルバム製作への気概ってもんが、非常にダイレクトに伝わってくる久しぶりの作品じゃった。ギターで何でも弾きこなしてしまい、その都度優秀なサポートメンバーも集まってくるだけに、クラプトンは常に余力を残してニヒルに自らの姿を見え隠れさせるようなポーズを長らくとってきたが、本作ではノッケからクラプトン像丸出しな姿勢に驚かされる! やはりブルースのカバーとなると、この稀代の天才ギタリストも気合が違ってくるのじゃろうか!? そのテンションの高さは22年後のストーンズの『ブルー&ロンサム』にも匹敵するじゃろう。

 実は全曲カバーではなくても、アルバム全体のスタイルが「実質ブルースのカバー」という作品ならば、それ以前にもロック・シーンには結構あったもんじゃ。 ところが大概はルーツ・ミュージックに立ち返ったにもかかわらず演る側のロッカーとしてのエネルギーの枯渇を露呈してしまうもんが多かった。 だからブルース・カバー・アルバムはアンタッチャブルってのが90年代までのロック界の不文律だったんじゃよ。 そんな通説を打ち破ったのが上記のポール・ロジャースの『マディ・ウォータース・ブルース』と本作品じゃろう。
 『マディ・ウォータース・ブルース』同様、やはりバックの演奏が現代的過ぎて発表当初は耳障りの感は否めなかったが、両作とも「これがブルースが生き延びていく新しい道」と割り切って徹底してモダンなアレンジがされておる。 ブルース・ファンとしては、もっとしっとりと女性を愛撫するようにプレイしたクラプトンのブルースを聞きたかったことじゃろうが、イケイケ状態の当時のクラプトンにとって、救いがたいブルースの泥沼にハマッタようなドロドロのプレイには興味がなかったってことじゃろう。
 しっかし、上手い、センスがいい、そしてセクシー。 もう呆れるほどじゃ(笑) 黒人とか白人とか、ブルース・スピリットがどうしたとか、そんな事を超越したレベルでクラプトンはブルースで楽しく遊んでおるように聞こえる。
 また本作ではブルースという時代の埃を被り易い音楽を洗浄し丁寧にラッピングしてあらためて世の中に送り出した感もあって、音楽としてのオシャレ度もなかなか。 こういうとてつもない芸当をあっさりとやってのけることが出来るのは今だにクラプトンだけじゃろうな。 クラプトンのブルースは真面目すぎるという声も少なくないが、真面目なスタンスをサラリとやっているように聴かせてしまうのもクラプトン・ブルースの魅力じゃ。 いやあ〜カッコイイ!


★ 「ホンキン・オン・ホーボー/エアロスミス」(2003年) ★

 時は「ブルース生誕100周年」と制定された2003年じゃ。 エアロスミスがブルース・カバー・アルバムをレコーディングしとるというニュースが入ってきたもんじゃが、「エアロって、ちょっと違うんじゃねえか?」と不安になったもんじゃが、とりあえず聞いてみるとその不安が的中!? いや、これはエアロスミスを非難しとるんではなくてだな、本作は「ブルースの復権」ではなくて「やはりロックの原点はブルース」ってことを実にエアロスミスらしいスタイルで世に示した作品じゃった。
 例えば若いエアロスミス・ファンに聞かせたらブルースのカバーアルバムだと気がつかず、「なんか、すごいエネルギッシュな仕上がりだな」ってなるじゃろう。 オールド・ファンでもブルースを知らないファンなら「おぉ、70年代の第一期黄金時代に回帰したんだな!」ってなるじゃろう。 つまり、カバーだろうがオリジナルだろうがそんな事は関係なく、40年も前に突如大爆発を起こして全米を席巻したエアロスミスのサウンドそのものなのじゃ。
 「ここまで原曲を捻じ曲げひっくり返しながら分解し、そいつを歪んだエレクトリックサウンドの爆音にする必要があるのか」と呆れるほどの傍若無人なアレンジの連続なんじゃけど、それはブルース・ファン側の感じ方であり、ロックファン側から聞けば「これぞまさしくエアロスミスの原点!」であり、このやり方こそ、70年代中期に力で全米各地のオーディエンスをなぎ倒していった若きエアロスミス絶頂期のスタイルなのじゃ。 プロデュースも、かつて第6のメンバーと言われたジャック・ダグラスという徹底ぶりじゃ!
 
 
食うや食わずの時代、彼らはこんな乱暴なブルースカバー演奏を繰り返しながら散々罵声を浴びておったじゃろうが、それは彼らなりにブルースを消化して屈強のオリジナルを生み出すための必要悪な時期だったんじゃな。 既に巨大な名声を得たとはいえ、「ブルース生誕100周年」にそこへ回帰するというアイディアはご立派じゃ。 「ブルースに感謝!」などとしたり顔でブルース・イベントでジェントルにブルースをプレイするよりもロッカー的じゃよ。
 正直なところハチャメチャにブルースをやり過ぎておるんじゃが、リズムセクションだけは非常にまとも(笑) 気負いがなく、黙々とフロント陣の暴れっぷりを支えておる。 まあ、ここがいまひとつツマンナイ部分ではあるんじゃけど、リズムセクションの地味で縁の下の力持ち的な仕事っぷりが、本作を「ブルース・パンク」ではなくて「ブルース・ロック」のテンションでかろうじて留めておるのかもしれん。 こういう「暴力一歩手前の暴力衝動で踏みとどまってみせる」芸当もまた、70年代中期のエアロスミスの特徴じゃ。 ブルース・コピー時代ではなくて、ブルース・アレンジ時代への回帰、こんなブルースへの表敬があってもいい。
 


★ 「ビンゴ!/スティーブ・ミラー・バンド」(2010年) 
 今更なんじゃけど、スティーブ・ミラー・バンドの魅力って今でも判然としないんじゃ。 元々はブルースバンドで、全盛期は70〜80年代。 イメージとしては「生真面目なブリティッシュ・ロックが肌に合わんロックファンが好む、適度にAORでブルージーでノリは悪くはないB級っぽいバンド」って感じ。 わしのような“清く正しいゴリゴリのブルースロック少年”の感性にはなかなか引っかからなかった存在じゃ。 だから身銭切ってレコードを買ってステレオの前で聞くよりも、ラジオで聞き流しておくだけで充分ってのが彼らへのわしのスタンスじゃった。
 さて、ブルースのカバーアルバムっていうだけに、それこそ何十年ぶりに本作にてスティーブ・ミラー・バンドを聞いた。 何でも17年ぶりの作品らしかったが、かつてのオリジナル曲と何ら変わることなく、一聴してスティーブ・ミラー・バンドってのが分かったから、ある意味彼らのオリジナリティはすごい! そして「あぁ、やっぱりわざわざCD買わんでもええわい。 ダウンロードで充分」ってトコじゃった(笑)

 しかしながらこの度のテーマによりブルースカバーアルバムを色々聴きまくっておる内に、スティーブ・ミラー・バンドのノリをメインにした力みのないちょっとラフ(に聞こえるよう)なスタンスってのもブルースをやる上でもアリ!ってことに気がついた。 ブルースって音楽を堅苦しく捉えることなく、ダチ公とダベリながらでも、メシ食いながらでも、彼女とかる〜くキッスしながらでも、(もちろん酒のみながらでも!)いろんな“ながら族”をやりながら聞き流せるブルースがあってもいいじゃねえかってトコじゃな(笑)
 この辺の感覚ってなかなか日本人にはわかりづらいんじゃろうけど、ブルースとかカントリーとかロックとかが何ら特別の音楽ではなくて、日常生活に根付いておるアメリカ人にとっては聞く音楽をセレクトするにあたって重要なポイントのひとつなんじゃろう。 彼らが70年代のアメリカで絶大な支持を得ていた要因のひとつを遅ればせながら認識した次第!? なんか、敬愛するブルースを同窓会バンド、もしくはパブロックバンドのノリで平々凡々かつ和気合い合いでスイスイとやっていく感覚、これはもはや彼らにしか出来ないスタイルかもしれない!


★ 「メンフィス・ブルース/シンディ・ローパー」(2011年) ★
 
ロッカーではないが、アルバムが素晴らしいので是非加えておきたい1枚。 シンディは1984年のメジャーデヴュー直後の大ヒット曲「ハイスクールはダンステリア」「タイム・アフター・タイム」でのコミカルなPVや歌声があまりにも強烈じゃったけど、その一方で確かな歌唱力が古くから噂されておった。 わしは本作で初めて彼女のブルースマン(ウーマン?)としての力量を認識し、そして敬服致しやした。 誰とは言わんけど、アメリカン・ヒット・チャートをたまにチェックしとると、「私、ブルースだって歌えます」って妙にルーツ音楽回帰をアピールする白人女性シンガーは結構おるけど、情感ふりかざし過ぎなPVも含めて大概はシラケテしまったもんじゃけど、シンディ・ローパーは本物じゃったわい!

 わしは女性ブルース・シンガーに対する知識はまだまだシロウトさんなんじゃけど、一応ビッグネームはそこそこ聞いておる。 彼女たちの魅力を総括すると、男性ブルース・シンガーと同じ曲を歌っても、まったくニュアンスが違って聞こえたり、同じ曲を再録しても違った解釈で歌い上げることのできる力量に驚かされる。
 男性の場合は「もっともっと、オレの情念はこんなもんじゃねー」って歌の深みにハマっていくもんじゃけど、女性の場合は「アノ曲、もう忘れちゃったわ!」って呑気に否定して新しく歌ってみせるとこじゃな〜。 天使か悪魔か、天女か娼婦か、ネンネか○リマンか、ママかハニーか。 ブルースを歌うことで彼女たちはいかようにも変身してみせるのである。 「やっぱ女って適わねーな」って思うわい(笑) だから女性のブルースは心に染み入りながらも、「しょーがねえ、明日も生きるしかねえか」とポジティブな気分にさせてくれる。 “女性アルト・ブルースの権化”であり“暗黒ブルース”が多かったニーナ・シモン(アニマルズの「悲しき願い」のオリジナル・シンガー)でさえ、泥沼にはまらない救済のトーンを感じるのじゃ。

 シンディ・ローパーには、ジャニス・ジョプリンやローラ・ニーロのような、好き嫌いは別にしてもとりあえずは周囲を圧倒してしまう飛び抜けた声量や歌唱スタイルはないが、わしが女性ブルースシンガーに必須と感じておる歌唱センスの七変化があるんじゃな。 まだまだ往年の黒人女性シンガーのようなド迫力ではないが、その予備隊、研究員(AKBじゃねーぞ!)として素質は充分にあるようなのじゃ。 
 更にモータウン・サウンドのように、ブルースやソウルをポップスに変換してしまうマジック・センスも持ち合わせておる。 シンディのブルースを聞いておると、とても救われるのじゃ。 こんなブルースが歌える白人女性シンガーはわしは初めて知ったわい。 例えばエリック・クラプトンが、一時期ブルースをオシャレでモダンな音楽として世に広めたように、シンディーには彼女独自の解釈でブルースの新しい魅力を覚醒させるような作品をこれからも送り出してもらいたいものじゃ。 



★ 「ルーツ」(2011年)&「ステップ・バック〜ルーツ2/ジョニー・ウインター」(2014年) ★

 ブルースをロックで演る事のカッコヨサを世に広めた功績ではクラプトン以上であるジョニー・ウインター。 クラプトンがいわばブルース・ソウルにガッチリ心臓を掴まれっぱなしで、ブルースとの折り合いを見つける作業に没頭しておったのに対して、ジョニーはあくまでも白人のフィーリングでブルースをカッコヨクやり続けることに無我夢中な人生じゃった。(2014年逝去) ジョニーはそのブルース・ロックな人生において、幸か不幸か最後にとった手段がブルースのカバーアルバム。 そいつがこの2枚のアルバムであり、この世の置き土産になったんじゃ。 ここでは、その同一の企画性から2枚を1枚(2枚組)のアルバム扱いとさせて頂こう。
 ファンならばソングリストをみればすぐに気がつくであろう。 目新しい選曲は特になく、古くからジョニーがステージでやりまくってきたナンバーが多い。 とりたてて新しい解釈もない代わりに、全盛期が再現されたような復活のプレイが多い。 でもそれはジョニー・ファンにとっては偉大なる予定調和であり、「やはりこの人はコレしか出来ない、そのコレがすごかったのだ」と安心して聞けてしまうアルバムじゃったことがちょっと残念ではある。
 恐らくヴィンテージ・ロッカー(オールド・ロッカー)たちのルーツミュージック嗜好が顕著な時代だったので、「オレを忘れてくれるな!」といった一撃であり、ブルース・ロック剛速球一本槍の人、ジョニー・ウインターを象徴するラストワークスとも言えるじゃろう。

 とまあ、何だか妙に冷静に分析してしまったが、近年のルーツ・ミュージック嗜好というブームは実はベテラン勢ばかりではなくて、アメリカ南部の若手にもその傾向は強いのじゃ。 テキトーなベテランよりも遥かにセンスのいいルーツ・ミュージックをプレイする若手も少なくない。 若手までがルーツミュージックに夢中になるロックシーンの流れを作った一人は紛れもなくジョニー・ウインターである。 レイドバックすることもなく、私家的作品に逃げ込むこともなく、同窓会的活動に落ち着くこともなく、あくまでもアメリカの大地に轟き渡るフルボリュームなブルース・ロックを追求した姿勢を、孫のような世代に継承される21世紀まで貫き通したロッカーがジョニー・ウインターってことじゃ。
 かつてマディー・ウォーターズが「ジョニーはオレの義理の息子だ」とそのプレイを絶賛したことがあったが、これはマディが「白人サイドでやってみたかったブルースの新しい展開を、ジョニーがやってくれているんだ」と言わんとしていると解釈してもいい。 良くも悪くも、ジョニーはマディー・ウォーターズのこの言葉とそこから湧き出た使命感を生涯守り続けたロッカーじゃった。 その不滅のブルース・ロック魂最後の爆発がこの2枚のアルバムであるのじゃ。

 余談ながら「ルーツ」の日本盤には2曲のボーナス・トラックが収録されており、その内の1曲はボブ・ディラン「追憶のハイウェイ61」のカバー。1983年のライブ・バージョンなんじゃけど、ジミ・ヘンドリックスばりのバカテクと爆音でディランナンバーをハードブルースに仕立て上げた激演であり、ブラボーじゃ! 
 

 以上7枚のアルバムそれぞれに別個のスタイル、ブルースへのスタンスがあるものの、7者のロッカーが自分の必殺技をもってしてブルースカバーに臨んでおることは間違いなかろう。 それが敬愛するブルースに対する彼らの礼儀なんじゃろうな。
 実際に出来上がったアルバムに対する世間の反応、その後の活動に与えた影響は様々じゃが、一人のロッカーの音楽性の構成上、ブルースがどんな形で関わっておるのかが聞けば即座に分かってしまうところがこれらのアルバム最大の魅力じゃな! ブルースカバーアルバムを製作するということは、音楽家としての自分自身をまるでレントゲン写真のように詳らかにすることにほかならないのであ〜る!

 わし個人的には、90年代以降からブルース・フィーリングを湛えた若手ロッカーがどんどん少なくなっていった感が強い。 それがロックの現状に興味が失せていった最大の原因でもあるのじゃが、21世紀が数年過ぎたあたりから、ブルースもしくはブルース・ロック復活の兆しが見え始め、それは現在でも続いておるのが嬉しい。 アメリカの南部ではかなり大きな潮流になっておるじゃ。 ここに紹介したアルバムが大いに貢献しとるに違いない! 其の辺のシーンの流れを汲み取ったこともローリング・ストーンズが『ブルー&ロンサム』に取り組んだ要因でもあるんじゃろうな。
 冒頭で述べた通り、ブルースカバーアルバムの数は多くはない。 だから英米の音楽メディアは、只今「ロックのブルース傑作カバー曲特集」って切り口の企画を結構やっとる。 いつの日か、それらがオムニバス形式で編集されたアルバムなんかで発売されないかのお〜なんて期待しとるけど、複雑な権利が絡んで実現は難しいかもしれん。 ならば、自分でセレクトしてオキニの私家版アルバムを作るしかないな。 出来上がったらここで紹介するけど、んまっあんまり期待しないで待っていてくれい!?
 


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