NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN Vol.225


 う〜ん、2015年オータムシーズンへダッシュをかけるべきThe-Kingのロックンロール・パンツが発表されたというのに、わしは心のどこかで寂しさを感じておる毎日じゃ。 「ほぉ、オマエさんににっぽんの秋の儚い情緒を感じるデリカシーがあんのかい?」ってやかましーぞ! 8鉄センセーのコラムが休止状態になってしまったから虚しいのじゃ。 センセーのコラムは未知の音楽への素晴らしい水先案内をしてくれとったから誠に残念なのじゃ。 センセーの分までわしが頑張ります!なんてとてもじゃないが言えないハイセンスなコーナーじゃったんで、1日も早い復帰を願っておる次第じゃ。 諸君からもThe-Kingへ8鉄センセー復帰を願う声を送ってくれたまえ。 でも「七鉄はクビにしてもいいから〜」ってのはやめちくれ〜。

 さてと、アジアを旅しておると、今も昔もインド好きの旅人が多い事に驚いてしまう。 「これからインドに行く」者を含めれば、10人中7〜8人はインドに惹かれておる割合になるといっても過言じゃない。 しかも老若男女問わず、じゃ。
 わしは1999年にインドに行った際、急性食中毒で三日間宿の中で悶絶、気絶を繰り返した経験があるので、二度と行きたくない。 「あの時食らった肉体的苦痛は生涯忘れられん」っつう経験談をビギナー君に話した事も何度もあるが、それでも彼等はインドへの憧れの念を翻さない。 「なんで旅人はそこまでインドに惹かれるんじゃろうか?」って談義を、今回の旅でも何度か交わしておる。

 かつてわしがインドに惹かれておった理由は、紛れもなく「ラーガ・ロック(インド音楽的ロック)」の影響じゃ。 西洋音楽の音階や音色とはまったく異質で怪しい、それでいて妖しいラーガロック独特の魅力に一時期狂った様にとりつかれておったからじゃ。 わしはドラッグはほとんどやったことがないんで(本当じゃぞ。 ドラッグより酒の方が全然いい!)、「サイケデリック」云々でラーガ・ロックを語ることは出来ないものの、長時間音楽の世界にどっぷりとトリップ出来たのは、「ラーガ・ロック」が筆頭じゃった。 エルヴィスやビートルズで体験出来た「疾走感」、ブルースロックで体験出来た「重層感」を伴ったエクスタシーとは別世界の音楽空間が「ラーガロック」には確かにあった。
 久しぶりにインド談義をしている今日この頃、「ラーガ・ロック」の名盤、名曲というヤツを意識の底から引っ張り出してきたんで披露してしんぜよう。
 

ラーガ・ロック出現50周年小史! 
あのミステリアスでエロティックな音をもう一度!!


■1965年〜最初に手がけたのはどこのどいつだ?■

 まず「誰が最初にロック界でラーガ・ロックを演ったのか。 もしくはインド楽器を使ったのか)? これは一般的には、ビートルズのジョージ・ハリスンって事になっておる。 名曲「ノルウエーの森」でのシタール演奏じゃ。 1965年10月録音じゃから丁度50年前じゃな!
 しかし、ローリング・ストーンズ贔屓の者の説によれば、ブライアン・ジョーンズ(「黒く塗れ」1966年3月録音)と定義したがる! その理由は、ジョージは主にイントロでシタールをチョロッと弾いておるだけじゃが、ブライアンは曲の全般でシタールを弾いておる!からなんだとか(笑)

 ところが、「いやいや、ジョージでもブライアンでもない!」という説が無いこともない。 それはキンクスのレイ・デイビス。 1965年7月30日リリースのシングル「シー・マイ・フレンズ」じゃ。 同年のワールドツアーの最中にインドのボンベイに立ち寄ったレイが、現地音楽を聴いてインスピレーションを得て書いた曲らしく、シタールは使わずに12弦ギターでそれっぽい音を創出しとる。 ジョージもブライアンも「シー・マイ・フレンズ」を聴いてシタールの導入を思い立ったというオハナシじゃ。
 ブライアン・ジョーンズに関しては、楽器は何でもすぐに弾きこなせる特殊な才能の持ち主じゃったので、いろんな弦楽器をいじくる軽〜い感覚でシタールを弾いてみたのじゃろう。 ジョージ・ハリスンはそのままどっぷりとインド音楽に浸り、「ラブ・ユー・トゥー」「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」「ジ・インナー・ライト」とインド音楽からの影響が如実なナンバーをたて続けに発表したことで、「インド音楽イコール・ジョージ」って評判になったのじゃ。
 
 こういう起源説ってのはキリが無くて調べていて飽きないもんじゃけど、もうひとつだけ(笑) レッド・ツェッペリンのギタリスト、ジミー・ペイジ自身の声によるとだな、自分こそが「シタールを最初に“スタジオに持ち込んでトライした”者」なんだって!
 ジミーは1967年ヤードバーズ加入時に、「ホワイト・サマー」なるインド風味たっぷりのインスト曲を発表しとるが、その原型になったのが63年に発表されたアイリッシュ・トラッド・ソング「She Moved Through the Fair」であり、ジミーはスタジオミュージシャンとして多忙を極めておった1965年に「She Moved Through the Fair」を発展させた曲をシタールでトライしていたとか!? だから、自分こそがラーガロックの元祖一人なのだと(笑)
 まあこの際、誰が最初であってもよろしいわい。 イギリスを代表するバンドのギタリストたちが、あっという間にインド音楽のエッセンスにそろって魅了されてしまったってことの方が興味深いもんじゃ。

1966年〜初のラーガ・ロック・ヒット曲「霧の8マイル/ Eight Miles High」


 全編これラーガ・ロック!なる曲が初めてヒット・シングル・チャートに登場したのは、1966年3月に米ビルボード・チャートで14位まで上昇したバーズの「霧の8マイル」じゃ。 バーズとは、アメリカのフォーク・ロック・バンドであり、「ビートルズとボブ・ディランとのハイブリット」と呼ばれた美しいコーラスと12弦ギターの音色が看板。以下、「霧の8マイル」について素晴らしい解説文を見つけたのでそのまま引用しておこう。

「霧の8マイル」は、このグループの代名詞とも言えるロジャー・マッギンの12弦ギターによるイントロのソロ・プレイでスタートする。 ただし、これまでのバーズ作品で聴くことのできた爽やかなギター・ソロとは異なり、調性を無視するかのようなきわめて複雑で不協和音的な響きをもたらすギター・フレーズが用いられている。 直後にボーカル・パートがスタートしてバーズらしさに溢れた美しいコーラス・ワークが楽しめるものの、この部分でもドラムスを中心にリズム・トラックはかなり複雑な動きを見せており、この曲のサイケデリックな性格を強く印象づける。
 イントロに登場するギター・ソロは間奏とコーダの部分でも繰り返し使用され、この曲全体のイメージを作り上げるうえでの決定的な役割を果たしている。 ロジャー・マッギン自身は、このギター・プレイについて「ジョン・コルトレーンとインド音楽の双方から影響を受けた」と語っているが、モダン・ジャズの先鋭性と東洋音楽にヒントを得たクラシックな音階からの離脱の試みが相互に影響し合うことでこの曲の先進性を生み出したと言えるだろう。 」(「masterpieces/ロック名曲セレクション」より)

 なおこの曲はドラッグ体験に基づいた不健康なサウンドということで、放送禁止扱いに。 それさえ無ければ間違いなくトップ10入りしていたと言われておる。


1966〜1968年 早過ぎる豊穣期到来

 ビートルズの革新的な試みの連続とバーズの「霧の8マイル」の大ヒットにより、ロック界は一躍ラーガロック・ブームとなった。 “ビョ〜ンビョ〜ン”のシタール、“トンツクトントン・トンツクトントン”のタブラ(打楽器)、またはファズをギンギンに聞かせたノイジーなギターによるインド的効果音を駆使することがオッシャレ〜な時代になったのじゃ。 またドラッグ効果によるサイケデリック嗜好も相まって、ロックはあっという間に表面上は深遠な雰囲気(矛盾した表現じゃけど)に加工することが“イケテル”バンドのステイタスになったのじゃ。
 よぉ〜く考えてみれば、インド伝統の瞑想的見地とそれを助成するインド音楽の世界観は、ドラッグの幻覚作用によるインスタントな新世界とは相反するものと思われるが、幸か不幸か、ロックミュージシャンの多くが、インドブームに飲み込まれてしまい、手っ取り早く似非インド世界に到達するためにサイケデリックへ走ったのじゃよ。 それだけインド音楽ってのが、賢明なロッカーまでも狂わせてしまうほど超魅力的に聞こえたって事じゃ。
 まあそのお蔭で、自分の人生において“カレー以外で”初めてインドという存在を意識した経験を持った者が世界中にたくさんおったはずじゃ。 もちろん、わしもその一人じゃ! ではここで「ノルウェーの森」「霧の8マイル」「黒くぬれ」程度では満足出来ないロッカーたちが作り上げたラーガ・ロックの代表的大曲をご紹介しよう。

■イースト・ウエスト/ポール・バターフィールド・ブルースバンド(1966年7月)

 アメリカン・ブルース・ロックの草分け的バンドのセカンド・アルバム。 その出現から僅か一年余のラーガのファクターを早くもロック(ブルース)の中に馴染ませ切ってみせた奇跡っつうもんが、13分強のタイトルソングで聞くことができる!
 ありきたりの心地よいブルース・セッションでスタートするものの、気がついてみたら「ありゃ、インド?」じゃ。 インド楽器は一切使用していない(多分)ものの、ヴォーカル代わりのハープと2本のギターが何ともミョーチクリンで変態的!?な音色をかますのじゃ! 「ちょっとやり過ぎなんじゃね?」って感じ始めると、いつのまにやら通常のブルースセッションに戻っとるって具合で、それを豊かな音色と抜群の楽器テクでまるでサイケデリックな壁画を描いていくようなスムーズさで展開していく様は実にエキセントリック!
 ハーピストのポール・バターフィールド、ギタリストのマイク・ブルーム・フィールド&エルビン・ビショップの3人は、大衆人気に背を向けていた玄人好みの達人、名人の域に達したプレイヤー。 そんなシブスギのロックンロール・ライフを歩んでいた彼等までが、若き日の鍛錬のフォーマットとしてラーガロックをセレクトしていたというのは、時代性も影響していたとはいえ、やはりラーガロックに抗い難い魅力があったということじゃろう。


■イン・ア・ガダ・ダ・ビダ/アイアン・バタフライ(1968年)

 「ロック史上最大の一発屋」と言っても過言ではない、サンフランシスコ出身のハードロック・バンド、アイアン・バタフライ。 『イン・ア・ガダ・ダ・ビダ』は彼等のセカンドアルバムに当たり、そのタイトルソングはまさに彼等の一世一代の名曲じゃ。 アナログB面をすべて使って収録された17分にも及ぶ大曲であり、この曲の出現によってラーガロックとサイケデリックロックへのシーンのチャレンジ・ブームは頂点に達したのじゃ。
 神秘的で悪魔の信号のような危険な視覚的ままたきを感じさせるオルガンに導かれ、メジャーコードに成りそうでならない中近東風のエキゾチックなメロディが延々と繰り広げられる。 ギターはファズをめいっぱい使って猛禽類の唸りのような抑制されたトーンを炸裂。 ドラムスはダブラに近いチューニングで妖しい覚醒感をもたらす雰囲気を演出。 その裏で、人間のあらゆる精神状態における心臓の鼓動を再現するようなヘヴィなベースがうねりまくる。 シラフで聞いても酒やドラッグをキメて聞いても、サイケデリックな無我の境地にひきづりこまれる恐るべき楽曲じゃ。

 “ガ・ダ・ダビ・ダ”ってのは意味不明じゃが、もともと曲のタイトルは『In the Garden of the eden(エデンの園)』だったらしく、いわゆる旧約聖書に出てくる理想郷ってこと。 それをヴォーカリストがドラッグでろれつが回らなくなって“ガ・ダ・ダビ・ダ”って口走ってしまったのをそのままタイトルにしたそう。
 『イン・ア・ガダ・ダ・ビダ』は、アメリカ大手レーベルのアトランティック・レコード史上初の売上100万枚に到達したビッグセールス・アルバムになったが、アイアン・バタフライはそれ以降はサッパリ。 一応アメリカン・サイケデリック・ハードロック・バンドの元祖とは評されておるものの他の曲はほとんど誰も知らんじゃろうな。

■Raga Rock /Forkswingars

 こいつは1966年(67年?)にアメリカで発表された、当時流行していたラーガロックの楽曲のカバーばかりが演奏された企画物アルバム。 演奏しとるのは、Folkswingersというのは西海岸のセッションミュージシャンによる即席バンドで、わしはあんまり知らんが全員凄腕のミュージシャンらしい。 このアルバムには参加しとらんが、以前はカントリー界のビッグネーム、グレン・キャンベルとか、ドアーズのファースト・アルバムで覆面ベーシストとして参加したラリー・ネクテルなんかもいたらしい。
 本作では「ノルウェーの森」「霧の8マイル」「黒くぬれ」の他に、「Along Comes Mary/アソシエーション」「Homeward Bound/サイモン&ガーファンクル」なんかも収録。 すべての楽曲をファズギターとシタールをフィーチャーしたインストでやっておる。
 有名曲ばかりのソングリストを見せられると、高校生の学園祭バンド・レベルのクオリティを連想してしまうがとんでもない! インストということで演奏は充実しておるように聞こえて、曲によってはオリジナル・テイクよりも優秀!? アラを探すとすれば、スタジオ・ミュージシャンの演奏なんで懲りすぎており、それが古臭さを感じさせてとてもチープ。でも却ってノスタルジックでもあるからわしは好き!
 アルバム・カヴァーにあしらわれた女性もええですな! あの頃の美人は天然で、内から匂い立つような色気があった!ってラーガ・ロックとは全然関係ないデザインのような気もするが聴く者のノスタルジアを駆り立てるのに一役買ってオル!?

■不思議の壁/ジョージ・ハリスン

 ラーガ・ロックの先導者、ジョージ・ハリスンのファースト・ソロ・アルバム。 まだビートルズ存命中に発表されたアルバムであり、同名映画のサウンドトラック盤でもある。 楽曲のほぼ半分は、インドの現地ミュージシャンを起用して録音されており、「(ジョージ流)ラーガ・ポップ」と言った方が相応しい小品が幾つかそろっておる。 ヒット曲もなくていまだに地味な立場に甘んじておるものの、加速化するラーガロック・ブームとは一線を画する、ジョージが目指したポップ・シーンにおけるインド音楽のあり方が一旦結実したかのような内容じゃ。
 今にして思うと、ジョージ自身はインプビゼーションを中心としたチョイト意味不明で威嚇的なラーガ・ロックよりも、インド音楽のメロディ、未知のインド哲学に裏打ちされた歌詞によって、ポップ・ミュージックの新境地を切り開こうとしていたのであり、その発案者である自身の意思を超越した部分で勝手に拡大していくラーガ・ロックのブームに眉をひそめていたのかもしれない。 じゃが時代はジョージの思惑通りには進まず、このアルバムも単なる実験音楽作品としてブームの隅っこに置き去りにされてきた感が強い。


日本にもラーガ・ロックがあった!

 日本のグループサウンズ(GS)の中にも、ラーガ・ロックをやったツワモノがおったのをご存知か? 鈴木ヒロミツがリーダーだった日本初の本格的ブルースバンド、モップスじゃ。
 モップスは1968年発表のファースト・アルバムが全編サイケデリックな『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』であり、アルバムに先駆けて発表されたデビュー・シングル「ベラよ急げ」ではシタールを本格的に導入しておる。(作詞は無名時代の阿久悠じゃ!)

 更に1970年にデビューしたフラワー・トラベリン・バンド(FTB)も忘れてはならんな! ヴォーカルのジョー山中をフューチャーした海外進出志向の強かった日本のロック史上最強のバンドじゃ。 ギタリストの石間秀機はインド音階を駆使したラーガ奏法の日本 における第一人者でもあり、インド音楽のエッセンスを本格的にバンドサウンドに注入しておる。 

 モップスとFTBのラーガロック・サウンドは、ラーガロックばかり集めたアメリカのコンピレーション・アルバム『Electric Psychedelic Sitar Headswirlers 』にも収録されておるが、その演奏力の高さ、ラーガロックの雰囲気作りの腕前は本場のロック・バンド以上に高いことが証明されておる!


あっさりと終焉を迎え、プログレにバトンタッチ!?

 異常な速度で満開となったラーガ・ロックじゃが、先述した「イン・ア・ガダ・ダ・ビダ」以降は大きな話題を振りまくこともなく、70年代が迫るにつれてブームはしぼんでいった。 代わりに俄然台頭してきたブームが「プログレッシブ・ロック」と言えよう。 サウンドをインド風味にして独特の世界観を演出するだけはロックという表現が収まりきれない段階に入っていったのじゃ。 精神世界はより文学的、哲学的に、サウンドはより高等音楽理論的にロックは拡大し始めたのじゃ。 そういったロックの進化の大きなきっかけとなったのがラーガ・ロック、サイケデリック・ロック・ブームだったのじゃ。

 ちなみにわしは当時メジャー・バンドのラーガ・ロックしか聴いておらんかったが、マイナー・バンドのそれまで網羅したモノスンゴイ!コンピレーション・アルバムがある。 CD10枚組のボックスセット『Electric Psychedelic Sitar Headswirlers 』! タイトルからお分かり頂けるように、シタールの音が入ってる曲を漏れなく収録したような超マニアックなアルバムじゃ。 現在入手困難のようで、インターネットでの曲目紹介しか内容が分からんが、日本のモップス、FTB、J.A. Caesar, The Ghostまで収録されとる徹底ぶり!
 全曲においてさわりの部分だけは聞くことが出来るのでトライしたら、それだけでも強烈なインパクトがあって、ラーガ・ロック全盛時代にソッコーでトリップしてしもうたわい。 またラーガロック・バンドとしては珍しく70年代に入ってからデビューしたマジック・カーペットというバンドのテイクももれなく収録されておった。 帰国したら何としてでも入手して聴きまくりたい!


 駆け足でラーガ・ロックの短い全盛時代を追ってきたが、ホント70年代になると「ラーガ・ロックって何?」ってぐらい誰も何にも言わなくなったな。 ラーガ・ロック提唱者のジョージ・ハリスンすら、サウンドの中にラーガを導入することはほとんどなかった。
 例外は先述したツェッペリンのジミー・ペイジが、「ホワイトサマー」の改編ともいうべき「ブラック・マウンテンサイド」をライブで長時間演奏して話題になっておったぐらい。 「だから言ったろ。 我こそがラーガ・ロックの本家なんだ!」ってとこだったのか(笑)

 時は流れ、1990年代中期頃になると、ワールドミュージック・ブームに乗って、ロックシーンの中でも再びインド音楽をサウンドの中核に掲げるロッカーが現れ始めた。まあその辺以降の「新しいラーガ・ロックのあり方」に関してはただいまお勉強中の身なんで、知識が広がり理解力が熟成してからあらためてご紹介しよう!
 


七鉄の酔眼雑記 〜懐かしのインド・ヒット曲「クチュクチュ・ホタヘ

 「わしはインド行って死にかけたから、もう行かんわい」だけじゃ、インドっつう国に申し訳ない。 インド体験記を少しだけ記しておこう。
 1999年当時、インド全土を圧巻しておった映画があった。 タイトルは「クチュクチュ・ホタヘ」っつって、ヒンドゥー語だか何だか知らんけど、「何かが起きている」って意味らしい。 インド人の間で「クチュクチュを観たかい?」ってフレーズが挨拶代わりになっておったぐらい、インド人みんなが夢中になっておった。
 あの当時のインド映画ってのは「全編ミュージカル」って感じで、とにかくキレイな女優さんがこぼれんばかりの笑顔とセクシーなダンスをキメまくりながらずぅ〜と歌い踊っておるだけと言っても差し支えなく、「クチュクチュ・ホタヘ」は主題曲もインド人好みじゃったらしくて、そりゃもう空前の大ヒット映画じゃった。 我ら外国人旅行者、にわかインド・ファンでさえ知っておったぐらいじゃ。
 わしも薄汚れた映画館で実際に観たが、よぉ分からんというかアホらしい(?)というか、ずぅ〜と歌い踊っておるお嬢さんに、べったべたの二枚目野郎がニヤニヤヘラヘラしながらひたすら求愛しているとしか観れんかったわい。 でも映画終了後、近くにいたインド人男性の方から「ジャパニーズか?観てくれてありがとう」みたいな事を言われて握手を求められたもんじゃ。その後お茶に誘われたが、どうもホモっぽい雰囲気の男性だったんでお断りしたがな。

 元々ラーガ・ロックが好きだったからインドに行ってみようと思っただけに、逆にインドでは「現地のロックはどうなんじゃろう?」って興味はあった。 しかし当時のインドで洋楽ロックンロールを聞く機会はついに訪れなかったわい。
 唯一の例外が、コルカタっつう外国人旅行者の玄関的な存在の大都市におった時、表通りに開店したばかりの大きなオーディオ屋から「ホテル・カリフォルニア」のライブ・バージョンが聞こえてきた事。 「次はどんな曲がかけられるんじゃろうか?」と期待しておったら、その1曲だけがエンドレスでリピートされて苦笑で終わった!
 最近のインドのロック事情はいかがなものなのか? 数年前、メタル界のヒーローであるメタリカのコンサートが中止になって暴動が起きた、なんつうニュースを読んだ記憶があるが、インド人がメタルねえ・・・あまりにものんびりと時間が経過しておるお国柄なんで、逆にメタルは最高の刺激になるのか!?まあ今度インド帰りの者に出くわす機会があったら、その辺を聞いておこう。

 ロックによってインド人の国民性を垣間見た事もあったな。 聖なる川・ガンジスのほとりの街バラナシに行った時じゃ。 宿の部屋でポータブルプレイヤーでロック(ストーンズだったか?)を聴いていたら、いつのまにやら部屋の入り口にインド人従業員が突っ立っておった。 彼は不思議そうな顔をしながらはっきりと言った。 「こんな音楽を聴くぐらいなら、クチュクチュ・ホタヘを聴け」と! その口調は「クチュクチュを聞かない者は人にあらず!」って感じ。
 総じてインド人ってのは、何でもかんでもインドのものが世界最高と信じ切っており、行きつけのレストランでもカレー以外のメニューをオーダーすると嫌な顔をされる。 じゃあ仕方ねーから今日もカレーにすっか、ってなると途端に満面の笑み。 「そうそう、カレーが一番おいしいのだ」って言いやがる(笑)
 ある日本人女性なんかは、インド人男性からナンパされた時「世界で一番美しいのはインド女性。 二番目が日本女性」って言われたらしいぞ!(笑) 世界はインドを中心にして、西洋と東洋に分かれているって、よくわかんないプライドがあるんだそうな。 そんな高飛車な態度をとられても、あんまり腹が立たないのがインド人の魅力かもしれん(笑)とまあ、インド話はこの辺で!。


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