NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN VOL.193


 前編では我らが“テディ”こと、エドワード7世の生い立ちと、皇太子時代からの型破りな外遊ぶりをご紹介した。 今回の後編では、ファッション・リーダーとして男性ファッションの礎を築いたテディ・オリジナル・ファッションの代表的なものを取り上げてみたい。

 現代においてファッション・リーダーといえば、旬の芸能人さんやモデルさんというイメージが強いが、テディが生きた100〜150年前の世界では王族、皇族たちがその役割を担っており、テディはその中でも「元祖ファッション・リーダー」としてその名をファッションに刻しておるのじゃ。 ほとんどの「現代ファッション史」の類の書籍は、とにもかくにもテディのファッショに関する記述からスタートすることが一種の決まり事になっとるほど、その影響力は絶大のようじゃ。 テディは「ロックファッション」に限定されることなく、「男性ファッション」の教祖様と言うべき存在なのじゃ!

 一般的にはテディが国王だった時代(1900〜1910年)が「イギリスの古き良き時代」と言われておるが、正確にはテディの皇太子時代、それも1860〜70年代からが「古き良き時代」なんだそうじゃ。 大英帝国が世界各地にその勢力を定着させていく一方で、破天荒な皇太子テディが独創的なニュー・ファッションによって「プリンス・オブ・ウエールズ」の名で庶民の人気者になっていったからじゃ。 イギリス王室が国力と文化力の両面からその威力を国民に誇示して絶大な支持を得ていたからこそ“良き時代”と呼ばれておるのじゃ。 国力の方は、テディの母ビクトリア女王が辣腕をふるい、皇太子テディはいわば文化面における先導者、非公認の文化大臣として活躍しておったのじゃ!




ダンディと呼ばれし男:第11回〜元イギリス国王・エドワード7世 (後編)
永遠のファッション・リーダーにして、異端のプリンス/キング「テディ」!
世界中のセレブから庶民までを魅了した、エドワーディアンの実態


■ プリンス・アルバート・フロック 

 テディが流行させた最初のファッションと言われる、昼間の正礼服であり、モーニングの前身と言われておるフロックコートじゃ。 「プリンス・アルバート・フロック」という別称も残されておるので、間違いなく皇太子時代のテディが流行らせたファッションじゃ。 テディ流のファッションを総括して「エドワーディアン」と言うが、そのスタートこそこの「プリンス・アルバート・フロック」なのじゃ。
 
 最大の特徴は、「エドワード・ジャケット」の原型ともいうべき膝元まである長い丈。 「エドワーディアン」の基本スタイルじゃな。 1950年代後半に登場した「エドワード・ジャケット」は、「プリンス・アルバート・フロック」に「ズート・スーツ」のラフでルーズなフィーリングをミックスされたものじゃ。
 右のイラストでお分かりの通り、当時のフロックコートの前裾には2種類あり、斜めに裁った「カッタウェイ・フロックコート」(イラスト内中央2人)というスタイルは、そのまま後のモーニングのスタイルに継承されることになる。 「プリンス・アルバート・フロック」とは前裾を裁たないスタイル(イラスト内左右2人)なんだそうじゃ。
 また胸のVゾーンはかなり高く、ネクタイが結び目の下10センチ程度しか見えず、ベストは完全に隠れているのも特徴。 ラペル(下襟)には拝絹(はいけん:シルク等の光沢のある生地を張る)が施されておる。
 3つボタンのシングル仕様と6つボタンのダブル仕様があるが、ダブル仕様はテディが美食家ゆえにお太りになられた際にでっぱったお腹を隠すために着用を始めたとも言われておる。

 こんだけ紹介しただけで、テッズたちが考案した元祖エドワード・ジャケットが「プリンス・アルバート・フロック」のパロディってのがよく分かるな! エドワード・ジャケットの長目の丈やフィット感は「プリンス・アルバート・フロック」そのものじゃが、低く広めのVゾーンや襟の仕様は「プリンス・アルバート・フロック」の正反対じゃ!



■ ディレクターズ・スーツ&ディナー・スーツ 

 「ディレクターズ・スーツ」は「プリンス・アルバート・フロック」に続く、“準”正礼服。 「プリンス・アルバート・フロック」が王室として出席しなければならない超オカタイ式典等で着用していたのに対して、ディレクターズ・スーツは通常の執務服といった位置づけがなされておる。
 黒の高級カシミアウールで仕立てられ、動きやすさが考慮されていたのか「プリンス・アルバート・フロック」よりも丈は短く、威厳を示すためかハッタリのためか、ラベルはピークド・ラペル(下襟の先端が上に向いておるタイプ)じゃ。 また黒とグレーの縞模様のパンツが合わせられたのも特徴的。 この組み合わせの流儀はそのまま後のモーニングに引き継がれることになるのじゃ。

 「ディナー・スーツ」とは、読んで字の如しで、晩餐会用のスーツじゃ。 「ディレクターズ・スーツ」よりもゆったり目の仕立てがなされ、Vゾーンはベストがはっきりと見えるほど広かったとされておる。 ジャケットとパンツは同じ生地。 「プリンス・アルバート・フロック」や「ディレクターズ・スーツ」ほど際立った特徴はなかったが、意外なところでテディの「ディナー・スーツ」は注目を浴びる。 それはベストの一番下のボタンを外すことじゃ。美食家で大食漢のテディは晩餐会では満腹になるまで食べまくるのでお腹が苦しくなる。そのために予めボタンを外しておくのじゃ。 ところがこれが「オシャレ!」ってなってしまったのじゃ!(笑)


■ ノーフォーク・ジャケット&ひざ丈幅広プリーチズ 

 諸君ならもうご存知じゃな! そう「ナッソー・ジャケット」の源流とされる、テディの狩猟用のジャケットじゃ。「ノーフォーク・ジャケット」に関しては、かつてこのコーナーで詳しく述べておるのでそいつを是非とも再読してほしい。
 テディは狩猟用だけでなく、サイクリングやゴルフにも「ノーフォーク・ジャケット」を着用し、同時に披露したひざ丈の幅広のプリーチズまで庶民の普段着にまで流行するほどの人気スタイルになったのじゃ。 
 テディはさらにノーフォーク・ジャケットとタータンチェックのスカートの組み合わせも披露しておったが、タータンチェックが上流階級か入手できないシロモノだったこともあり、こちらは庶民にとっては仰ぎ見る憧れのスタイルに終始したんだそうじゃ。
 
 因みにだな、わしの知人でイギリス狂いのヤツがおってな。 幅広プリーチズやタータンチェック・スカートを部屋着で着ておったが、失礼ながら笑っちゃった! ヤツの着こなし云々以前に、腰位置が低くてひざ下の短い日本人男性には絶対似合わない!


■ クリース(折り目)入りのパンツ ■

 スーツのパンツに折り目があるなんてのは当たり前の様じゃが、実はこれもテディが考案したんじゃ! 1860年にテディがアメリカ外遊の際に初披露したという伝説が残っておる。 とは言っても前後中央ではなくて、両端左右に入っておったそうじゃ。 1890年代になってからテディは前後中央にも折り目を入れるようになったとされておる。
 前後中央の折り目に関しては、ベストの一番下のボタンを外すことと同様に、日々進行する肥満対策のひとつだったとか。 要するに失われていくスマートさを少しでも強調するためのアイディアだったとか。 何ともオチャメなテディじゃ!このフロントクリースは英国陸軍のエリート将校たちによって考案されたという説が正しいらしいが、まあ我らとしてはテディの遊び心から生まれたと信じておこうではないか!


■ グレンプレイド ■


「グレンプレイド」とは「ディストリクト・タータン」、つまり地味な「タータン・チェック」の一種じゃ。 かつてのイギリスは階級によって使用、着用出来る格子柄の色数が厳しく決められておって、「グレンプレイド」は丁度中間あたりの地方有力者レベルが使用できるチェック柄じゃった。
 テディは王室出身者だから最高級、最多色のタータンチェックが使用できるにもかかわず、「ノーフォーク・ジャケット」やパンツやスカートに好んで「グレンプレイド」を使用した。 こんな気さくな姿勢がまた庶民に愛される所以でもあったに違いないじゃろう。
 「グレンプレイド」にも様々な種類があるが、テディが使用していた柄はやがて「プリンス・オブ・ウエールズ」と呼ばれるようになるのじゃ。

 

 その他ホンブルグハット(つばが巻き上がり、中央が凹んだ帽子)、襟腰の高いシャツ、Vゾーンが狭いジャケット、パンツのターンナップ(折り返し)等、善し悪しは別として、テディが試みるファッションスタイルのほとんどは話題となり、また後任のエドワード8世に受け継がれることで別のファッションスタイルに昇華していった場合も多い。 メンズ・ファッションの黎明期とはいえ、決まり切ったスタイルに次々と風穴を開けて男性に「オシャレ時代」を到来させたのがテディだったのじゃ。
 テディの数々のアイディとは、度重ねた諸外国への外遊の賜物であり、世界各地の文化を貪欲に吸収していったことがアイディアの源泉となったに違いない。 また偉大なる母ビクトリア女王の方針により、なかなか正式な公務に就くことを許されなかったテディ最大の反抗心!が「エドワーディアン・スタイル」の発展の原動力になったのじゃ。
 
 今回の紹介文のために、あらためてテディに関する文献をチェックしたが、とにかく楽しくてしょうがなかった!何と言っても、The-Kingの代表的アイテム「エドワード・ジャケット」「ナッソージャケット」の誕生にテディの存在が限りなく大きく関与しておるからじゃ。 しかもテディ自身が一介のファッション・デザイナーとか音楽家とかではなく、王様(The-King!)だったってとこじゃ!
 The-Kingの功績はThe-Kingが継承して然るべきなのじゃ〜ってダジャレかましておる場合じゃないが、源流が由緒正しく、しかも高貴な遊び心満載なんじゃからThe-Kingの進むべき道もはっきりと見えてくるというものじゃ! その道を明るく広大に照らしていくのは諸君じゃぞ〜♪
「エドワーディアン」がテディから庶民に広く浸透していったように、諸君もThe-Kingファッションを世界中のロック・フリークたちの注目を浴びるように精進してくれ!



七鉄の酔眼雑記 
 
 こんな事を言ったら、「オマエ、アタマおかしいんじゃないか?」ってバカにされるじゃろうが、あのロンドン・パンクが意外と短命だったのは、テディを生んだイギリス王室にまで唾を吐く様な悪態をついたからなんじゃなかろうか、と。

 どこの国の歴史を勉強しても、必ず「古き良き時代」と呼ばれる時代があるもんじゃ。 中には歴史学者が勝手にそのように定義、提唱したことが一般化した場合もあるが、テディが生きた時代は、本当にイギリスの庶民が慈しむように「古き良き時代」と呼んでおり、それは未来永劫に変わらないようじゃ。
 わしとしては、国のトップに立つ人物が国民から敬愛される一方で「庶民のアイドル」としても存在していた事自体が「古き良き時代」と思えるな。 そしてテディ逝去の約半世紀後から花開くことになるイギリスのロックン・ロール・カルチャーにも、テディは大きな影響を及ぼしていたことを重ね考えると、イギリスという国が素直に羨ましいもんじゃ。

 元来イギリスのロッカーたちと王室との関係は懇意とまではいかないまでも、悪くはないはずじゃ。 大体テッズたちはテディに敬意を表していたし、王室主催のコンサートがビートルズに任せられたり、更に王室は彼らに勲章まで与えた。 「プリンス・トラスト」や「ネブワース」といったビッグ・ミュージック・イベントには王室が大きく関与しておるもんじゃ。 だからイギリスのビッグ・ロッカーのライブでの堂々たる立ち振る舞いには、「大英帝国を背負う」という大いなる気概を感じるものじゃ。
 ロックは反逆する若者の音楽なのに、体制の権威である王室の庇護の元で暴れておるのか!って矛盾も生じてくるが、イギリスのヤングカルチャーの生みの親がテディなんだからって事で、全ては丸く収まる!?のがイギリスのロックなんじゃろう。

 そして冒頭のパンクのハナシじゃが、パンクはロック史上初めて真正面から王室を侮辱したが、あっさり短命に終わった要因は、王室というイギリスの聖域を汚そうとしたことへの天誅だったのかもしれんな。 王室の歴史の中にテディがおったことまで忘れておったら、そりゃロックの神様も怒るわい!とか今さらながらに実感しておる次第じゃ。
 ちなみに「テディ賛歌」なるロック・ナンバーを探してみたが、見つからんかった。 テッズ賛歌の「テディ・ボーイ」なら、ポール・マッカートニーを初め何曲か存在するんじゃがなあ。 ダイアナ妃が亡くなった時は、エルトン・ジョンが「グッバイ・イングリッシュ・ローズ」を歌ったが、捧げるお相手がテディとなると、存在があまりにもデカ過ぎるってことなのじゃろう。

 ロック・ナンバーが無理ならば、The-Kingで生産数限定の「プリンス・アルバート・フロック」の完全復刻品を発表してくれんかな。 売上の一部はイギリス王室に寄贈じゃ!もちろんスペシャル・プロデューサーとリミテッド・ナンバー1番の権利者はわしじゃ! 



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