NANATETSU ROCK FIREBALL COLUMN VOL.151

 「オマエも早く英国屋でスーツを作れる男になれ」
 わしが社会人になりたての頃、亡き親父殿がそう言っていたのをよく覚えておる。 大正生まれの親父殿世代の日本男児にとって、スーツ・イコール・イギリスというイメージは絶対的だったのじゃろう。 なにせ、「背広」という日本語は、イギリス・ロンドンのスーツ仕立て屋が軒を並べるストリート「サビル・ロウ」の“サビル”からきておるぐらいじゃからな! 
 わしの連載「ロック・ファッション・ルーツを辿る旅」は、The-Kingが現代に蘇らせたナッソージャケット&スーツ(ハリウッド・ジャケット)をロック・オリジナル・ファッションと定義して、そのスタイルの完成までの歴史を紐解いていくシリーズじゃ。 これまでは「ズート」「バギー」「ボールド・ルック」とアメリカン・スーツの流れをご紹介してきたが、今回はそのイギリスに目を向けてみようと思う。 The-Kingの展開する世界はアメリカン・フィフティーズじゃが、「エドワード」の様な“ブリティッシュ・ロック・ファッション”の真髄もしっかりと押さえられておるから問題はないじゃろう!

 ご存知の通り、イギリスには別個のロック・オリジナル・ファッション「テッズ」がある。 その登場は「ナッソー」よりも早くて、1951〜2年とされておる。 まだロックンロールが誕生しておらんかったことが、「テッズ」をロック・オリジナル・ファッションとするべきか否かで大いに迷うところじゃが、ここはひとつ、「ナッソー」を“アメリカ版”、「テッズ」を“イギリス版”のロック・オリジナル・ファッションとして手を打とう。 「ナッソー」と「テッズ」はタネ違いの兄弟とするのがもっとも平和的な解決じゃ! タネ違い? そうじゃ。 ハラ、おかあさんはいずれも「ズート」じゃよ!
 前回は「ナッソー」に昇華する直前のスタイル「ボールドルック」をご紹介したので、今回は「テッズ」として完成する直前のスタイル「ネオ・エドワーディアン」でいってみたい! 登場から僅か2〜3年で「テッズ」に改良されて昇華することであっさりとファッションの表舞台から姿を消したものの、イギリス版「ロック・オリジナル・ファッション」の誕生のために大きな役割を果たしたスタイルなのじゃ!


ロック・ファッション・ルーツを辿る旅〜第4回 ネオ・エドワーディアン
「テッズ」誕生の起爆剤となった、
怒れる英国ヤングの元祖ダンディズム



■ プロローグ〜やはり大元は「ズート」! ■

 イギリスのスーツやストリート・ファッションの歴史を遡っていくと、アメリカの「ズート」や「バギー」の様な極端な変形スタイルというのは無いんじゃな。 なんせイギリスは王国であり、ファッション・リーダーの元祖はエドワード7世&8世様じゃ。 何よりも王様の存在を重んじるお国柄だけに、王様スタイルを大幅に改良したり、パロったりすることは非国民のすること!っつうDNAがイギリス人には強かったとしても不思議はないな。
 イギリス唯一の若者の反抗的スタイルが、1940年代後半にアメリカから伝わってきた「ズート」だったんじゃが、これもアメリカほどのブームにはならんかった。 ヨーロッパでの「ズート」は、イギリスよりもフランスにおいて「ザズゥー」の名で人気を博しておった。(詳しくはVol.145参照) 
 とはいえ、やはり「ズート」の反逆のスピリットはイギリスでも徐々に若者を目覚めさせることになり、1948〜9年頃に「ネオ・エドワーディアン」というスタイルを登場させることになるのじゃ。
 元祖のエドワーディアン・スタイル(右写真)は1900年代の最初の12〜3年間が流行だったとされておるが、それから30数年の時を経て「エドワード・スタイル」が復活したのじゃ。 そして「ネオ・エドワーディアン」は、イギリス産では初めての純然たるストリート・ファッションとなるのじゃ。
 上の写真は、「ネオ・エドワーディアン」をキメてポーズをとる、当時のイギリスを代表するファッション・デザイナーのバニー・ロジャースじゃ。 バックのクラシック・カーもエエ味出しとるが、このファッション・スタイルは日本人の言う「典型的、古典的な英国紳士」じゃな! なんだか、若者なんざお呼びじゃないアダルトで誇り高きフンイキがプンプンするが、このスタイルこそが「テッズ」を生む最後のプロセスになるんじゃから、やはりファッションというのはオモシロイ!
 
 
■ “かっこいい”男性像の変化に順応!?したスーツ 

 では「ネオ・エドワーディアン」の基本スタイルを列記していこう。

☆上着ダブル・タイプ
 〜エドワード7世時代の軍服の簡易仕様とされており、また1900年前後約20年間流行していたフロック・コートの復興スタイル。
@上襟はビロード張り
A大きめの胸フラップポケット付き
Bウエストは極端な絞り
C大き目のボタン8個
D丈は元祖エドワーディアンよりもよりロング
E装飾アイテムとして、ステッキや傘を携帯。 またフラワーホールに花を飾る


☆上着シングル・タイプ
 〜重装備なダブル・タイプとオフィシャル・スーツとの折衷スタイル
@丈はやや長め
Aウエストは極端な絞り
Bダブル・フラップ・ポケット
C別生地(ジャガード編み、ストライプ、花柄等)の襟付きベスト(ダブル仕様もあり!) ボタンは6〜8個
Dシャツはハイカラー、もしくはウイングスプレッド風で、更に袖には大きめのカフスを使用

☆パンツ
 元祖エドワーディアンの後期に見られた、腰回りのタイトなややスリムタイプ。 2タックで、裾はダブル

 以上、その特徴を文字で確認するだけでも、「ネオ・エドワーディアン」は遊び心が宿るエンターテイメントなスーツであることが分かるな。 アメリカと比較するとどうしてもお堅い歴史を辿らざるをえなかったイギリスのファッションが、初めて“くだけて”若者の嗜好にグッと近づいたスタイルが「ネオ・エドワーディアン」だったのであ〜る。
 このスタイルを生んだ要因のひとつは、当時のイギリスにおける“かっこいい”男性像が、第二次世界戦前後とは変わってきていたことじゃろう。 それまではカチッとキメたオシャレ男でお金持ちで包容力のある中年男性が世の女性の憧れじゃったが、時代が平和になってくると、少々危なっかしくてかっ飛んでおって遊び心を持っておる男性が魅力的になってくる!(つまりわしの様な男じゃって言わせるでない!?) そんな新世代の男の装いとして「ネオ・エドワーディアン」が登場したんじゃ。


■ 仕掛け人はサビル・ロウの仕立屋さん! ■

 新しいファッションを生み出すのは、斬新なファッション・デザイナーであったり、ロックスターや映画スターだったり、ストリート・キッズであったりするが、「ネオ・エドワーディアン」が登場した1940年代末期のイギリスには、まだそんな風潮はなかったんじゃ。 では一体誰が「ネオ・エドワーディアン」を発案したのじゃろうか。 この点に関してはほとんど不明じゃ。 僅かな資料によれば、それはロンドンのサビル・ロウにある仕立屋さんだったとされておる。
 サビル・ロウとは20世紀初頭より数多くの仕立屋さんが軒を並べる有名な一画じゃ。 (リーゼントの名の由来となったリージェント・ストリートはサビル・ロウと並走しておる!) そのある仕立屋さんが、イギリスの上流階級の若者にアピールするために「ネオ・エドワーディアン」を発表したとされておるのじゃ。

 しかし当時のサビル・ロウのほとんどの仕立屋さんは、王族や軍人、つまりセレブを顧客としており、新しいブームのためのファッションを考案するだけの裁量のあった仕立屋さんが本当に存在したのか。 いまだに「それはウチなんじゃ!」っつって手を上げる者はおらんしな。
 サビル・ロウの仕立屋のリストをチェックすると、「ここなんじゃないか?」と思える店舗があるにはある。 ひとつは「ギーヴズ&ホークス」。 サビル・ロウの老舗的仕立屋であり、一時期はもっともセレブの顧客数が多かったと言われておる。 ということは、もっとも多くの人間のファッション嗜好と仕立てのパターンを知り尽くしておるということじゃ。 柔軟な発想が生み出されたとしても納得じゃ。
 もうひとつは「アンダーソン&シェパード」。 ここも老舗店のひとつじゃが、古くから顧客に欧米の映画スターが多かったのじゃ。 新しい感性、新しい流行にもっとも敏感な仕立屋であると言ってもええじゃろう。 まあこの点は今後も調査していきたいので、解明次第のご報告とさせて頂こう。
 
 余談じゃが、サビル・ロウは“ある事件”によってもロック史にその名を刻しておる。 それはビートルズ最後の屋外演奏となった「ルーフ・トップ・コンサート」-映画「レット・イット・ビー」で観られる、アップル・オフィス・ビルの屋上での演奏じゃが、アップル・オフィスはサビル・ロウにあったのじゃよ。 またビートルズの連中はサビル・ロウにある「ナッターズ」という仕立屋でスーツをオーダーしておった。


■ 飛びついたのは、やはり下層階級の若者 ■

 上流階級の若者向けに発表された「ネオ・エドワーディアン」じゃったが、敏感に反応したのはイースト・エンドの若者じゃった。 イースト・エンドとは、ロンドンの下町、低賃金労働者たちや外国からの移民たちがひしめくドック(船舶の修理工場)地域じゃ。 「イギリスの貧乏人が金持ちになるには、サッカー選手かミュージシャンになるしかない」という言葉はこのイースト・エンドから生まれたのじゃ。
 貧しい生活の中で、生きる糧を必死に捜し求める若者にとって、「ネオ・エドワーディアン」は「今までに無かった新しい何か」を感じさせてくれる希望のファッションとなったのじゃ。 う〜ん、そろそろ反逆のロックンロールのファッションになるべく匂いがしてきたことじゃろう!そうなる予兆を感じるじゃろう!!
 しかし驚くべき事は、イーストエンドの若者は「ネオ・エドワーディアン」を楽しむだけに留まらずに、僅か2〜3年後にはこいつを叩き台にして「テッズ」を生み出してしまったことじゃ。 それもロックンロールという音楽、ロックスターという存在無しに、じゃ! ここら辺のバイタリティーっつうか、エネルギーには感服するしかないわな〜。 「ネオ・エドワーディアン」は、まさに「テッズへの黄金の架け橋」だったわけじゃ。


■ エピローグ
   〜イギリスのファッションの流れを変えた静かなる革命 ■


 それまではずっと保守的だったイギリスのファッション史に落ちた最初の爆弾が「ネオ・エドワーディアン」だったわけじゃが、左の写真、「ザ・ネオ・エドワーディアン」っつうビシッとキマッタ装いと、右の写真、ごくごく初期のテッズくんたちを比べると、当時の若者ファッションの進化のセンスってもんが、なあ〜んとなく分かってほのぼのするのお〜♪ でも、「カワイイもんだ!」なんて笑ってはいかんぞ! 現代を生きる諸君にはThe-Kingがおるから、己の美意識を一気にグレードアップできるものの、当時はThe-Kingは存在しなかったから、自分たちで創意工夫しなければいけない時代だったのじゃ。 この際、The-Kingと21世紀という時代に感謝せよ!と言っておこう。
 
 なお「ネオ・エドワーディアン」のもうひとつの存在意義とは、後のイギリスのファッション史を激しく揺り動かして大いなるブームを巻き起こすきっかけになったことじゃろうな。 あっという間に「テッズ」を生み、そこから「ロッカーズ」「モッズ」「キンキー」とヤング・ファッションの炎を激しく燃え上がらせ、1960年代中盤にはファッションと音楽の歴史的ブームである「スウィンギング・ロンドン」の誕生にまで貢献したことじゃ。 




七鉄の酔眼雑記
 〜久し振りの新聞
  

 過ぎ去りし初夏のある晩、友人宅のマンションで深酒をしておったら、その友人が先に酔い潰れてしもうた。 時刻は早朝4時をまわった刻じゃったかな。 仕方がないから後片付けをして帰ろうとしたら、玄関の方から何かが金属と擦れながらストン!と落っこちる懐かしい音がしよった。 朝刊が玄関扉のポストに放り込まれたのじゃ。 わしは数年前に帰国してからは新聞をとっておらんので、久し振りにこの音を聞いた。 懐かしさついでに、失敬してその朝刊に目を通すことにしたんじゃが、お天道様が完全にお目見えする時刻まで読んでしもうたよ。
 新聞(一般紙)をじっくり読むなんて何年ぶりだったじゃろうか。 情報の一部始終ってのはやはり新聞じゃないと読めんもんじゃな〜と、当たり前のことをしみじみと感じ入ったよ。 そして「情報を頂き、ありがとうございました!」ってミョーに充実した夜明けを過ごした気分になったもんじゃ。 読後感ってもんを味わったんじゃろうな。 

 その数日後、某業界新聞の現役記者君とわしの部屋で深酒をした。(また深酒か!) ヤロウはやけに上機嫌で「現代新聞論」をブチかましておったが、上記の感慨もあったので、あえてツッコミを入れずに喋らせておいた。 ところがその内に「最近の新聞業界は病んでいる! 情報操作をして、読者を強引に思想先導しようとしているんだ! 読者に情報の良し悪しの判断を委ねるのが新聞の基本だあ〜」とかなんとか。
 折角新聞の良さを再認識していたのに、それを根底から揺るがしやがる・・・もう世の中で何を信用していいのか分からなくなった、というのは冗談! すさまじい勢いでヤロウが空けていくわしの高級ウイスキーの残量がもう心配で心配で(苦笑)。 もっとも頂き物のウイスキーじゃがな!

 毎日何度も更新されるインターネットの情報は、新聞よりも種類は多彩じゃ。 「5W1H」も未到の必要最低限の内容じゃ。 深く知りたければ続報を待つかしかない。 ただし情報によっては、画面下段の「コミュニティーサービス」「ツィッター」「フェイスブック」による多くの人から寄せられたコメントを読むことが出来るな。 中にはこのコメントの方から詳しい事実関係を知る場合もあるが、ひとつの情報に関する文字量は、全体としてはこの「コメント」の方が圧倒的に多いという内容の本末転倒状態がネット情報の特徴なんじゃな。 情報の送り手よりも、情報の受け手の方が活発なメディア(インターネット)からの情報一辺倒になっていた、ここ数年の自分の日常がとても歪(いびつ)に思えてきよった。 

 1990年代半ば、インターネットが一般社会に広がりつつあった頃にわしは某大手新聞社の長老殿にインタビューする機会があった。 そん時にこんなコメントを頂いた。
「情報の早さ、種類はインターネット。 情報の質、詳細は新聞。 住み分けが成されるはずだから、我々にとってネットの普及は痛手ではない」
 あれから既に十数年が経過したが、長老殿の慧眼ぶりにあらためて驚くとともに、新聞というメディアの恒久的な存在価値を再認識させられたわしじゃが、現役記者君のご意見も実はとても気になっておる。 新聞の情報操作ねえ〜。 
 インターネット社会の確立によって、それに対抗するために新聞の負の属性が表面化してきておるのじゃろうか。 新聞が売れなくなってきた時代だけに、おまんじゅう攻撃(賄賂攻め)にでも屈して、ありもしないブームをデッチ上げたり、対抗勢力を引き摺り下ろしたり、読者不在の領域で架空の世界を演出しておるのじゃろうか・・・。 いずれにせよ与えられる膨大な情報から自分に必要なものをピックアップできる「情報精査力」が無いと、余生が情報に振り回されて終わってしまうな〜なんてちょっぴりシリアスになっておるこの頃じゃ。
 
 ちなみにその某大手新聞社の長老とは、今や悪名高きナベツネさんなんじゃ! このお方、若かりし時から社内の特ダネ賞を独占していたという伝説的な名新聞記者じゃった。 新聞とインターネットとの違いをあっさりと見抜き、「ネットおそるるに足らず」と豪語していたのはさすが!じゃが、最近はよそ様とのいざこざが絶えずにやる事なす事非難轟々じゃのお〜。
 プロ野球界の私物化とかなんとか、そんなことよりも人生最終楽章の大仕事として、新聞界の大粛清でもやってみたらどうじゃろうか。 インターネット情報にまみれてしまって、生活の指針がブレまくっている現代社会に一石、いや巨石を投じて頂きたいものじゃ。

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