ROCK FIREBALL COLUMN by NANATETSU Vol.129

 毎度「勝手にブレイクタイム・コーナー」を拝見しとると、全国津々浦々から次々と熱きロックン・ロール・ファンがThe-Kingのオフィスにやって来ておるのお。 グレイト! わしからも御礼を申し上げるぞ。 東京スカイツリーのおひざ元である東京墨田区押上のThe-Kingオフィスが、ゆっくりと確実に「新しきロックの聖地」へのプロセスを経ているようじゃな。 今後とも遠慮はいらんぞ。 予め連絡を入れた上で(これトテツモナク大事!)、ぜひともThe-Kingオフィスを訪れて、アイテムの素晴らしさを現物を見て実感してほしいぞ。 ひょっとしたわしの訪問と鉢合わせすることで、ありがた〜い(ヤカマシイ?)ウンチクを聞くことができるかもしれんから、その時はヨロシクじゃ。
 さてThe-Kingのオフィスのある押上周辺地域なんじゃが、最近はスカイツリーっつう世界一の高さの自立式電波塔の建設によって華やかな話題を振りまいておるが、元々この地域はある種の神というか王様というか、一芸を極めようとして世界的な名声を勝ち得た者たちの魂が飛来し、そして交流していた地域であることを知っておる者はそんなに多くはないのではないか? それもはるか遠いいにしえの時代ではなくて、ほんの70〜80年ほど前のオハナシなのじゃ。 急速に進む近代都市化によって町並みが激しく変化してきたので、神々の飛来、王たちの降臨のエピソードがすっかり忘れられておるようじゃ。 今回はロックやファッションの話はお休みとして、東京都墨田区押上地域周辺の「ザ・キング・ストーリー」をかましてみたい! これを知っとると知らんとでは、The-Kingオフィスを訪れる気分が違うぞお〜。 しかと読んでおいてくれたまえ!


東京都墨田区押上地域に眠るキング伝説〜七鉄が紐解く、押上のキングづくしのオハナシ
「キング」に感激した「キング」の所縁の地域で「キング」が生まれ、
そして「キング」のスピリッツが宿る「The-King」がある!

 
序章〜8月16日は「キングの日」

 まずハナシはエルヴィスの命日の8月16日という日からじゃ。 この日はエルヴィス、そしてロバート・ジョンソンという二人のキングの他に、もう一人の偉大なるアメリカン・ヒーローの命日でもあることを諸君は知っておるか? それは「キング・オブ・ベースボール」のベーブ・ルースじゃ。 通算本塁打714本、シーズン60本塁打など、数々の輝かしい実績を誇った、アメリカ・ベースボール史上最初の、そして最大のヒーローじゃ。 このキング・オブ・ベースボールの存在というか一種の神通力が、実はThe-Kingオフィスのある東京都墨田区押上地域に微妙に波及しておって、この地域の知られざる「ザ・キング伝説」を発祥させておるんじゃよ。
 ベーブ・ルースが活躍したのは1920年代(日本では大正時代末期から昭和初期)じゃ。 それまで年間で10本もホームランを打てば長距離打者と言われた時代に、ベーブルースは突然50〜60本のホームランをかっ飛ばし始めたので全米が騒然となった! その影響力もまたすさまじく、我も我も!とホームランバッターが続出して野球界全体が盛り上がって野球は一気にアメリカの「国民的娯楽」となったんじゃ。
 そんな中でベーブルースはまさにキング・オブ・キング! なんせ時の大統領よりも高額な報酬をゲットしておったのじゃ。 今では「キング」を越えて「ゴッド・オブ・ベースボール」という呼び名の方がアメリカでは定着しておるほどじゃ。 このベーブルースを中心とした野球界全体の大繁栄によってもたらされたアメリカの経済効果はすさまじく、1920年代は「狂乱の時代」という名称でアメリカ史の中で記されておるのじゃ。 「黄金の時代」と呼ばれた1950年代よりもふた昔前のアメリカ大繁栄時代であり、そのシンボルがベーブ・ルースだったわけじゃ。


キングが感激した1枚のポスター
の中の“ある文字”

 さて、ベーブ・ルースは選手時代の末期である1934年(昭和9年)には親善試合のために日本にやって来ておるのじゃ。 当時は太平洋をひとっ飛びする飛行機なんてないので、片道に約一ヶ月を要する船旅による来日じゃ。 ベーブ・ルースはこの船旅を嫌がって、船の出港日直前まで来日を断固として拒否しておったんじゃよ。 困り果てた日本の野球関係者は、既に刷り上がっておった日米親善試合のプロモ・ポスターをベーブ・ルースに見せてダメモトで説得に臨んだんじゃ。 そのポスターは、ベーブ・ルースの顔のイラストがアップになったデザインであり、「我々はここまでしてあなたの来日を待っているんですう〜」って泣きついたワケじゃ。 この泣き落とし作戦が、意外な事で効果を発揮することになるのじゃな。 最初はかったるそうにポスターを見ていたベーブルースじゃったが、ふと見たことのない文字に目を止めた。 そこにはカタカナ表記の彼のネームと、その上には漢字で「野球王」と印刷されておった。

ベーブ・ルース : 「ここんトコはなにが書いてあるんだい?」
通訳さん : 「ココの文字はあなた様のお名前でございます」    
ベーブ・ルース : 「ふ〜ん、あっそっ。 んで、その上は?」
通訳さん : 「そちらは“キング・オブ・ベースボール”という意味でござます」
ベーブ・ルース : 「な、なにぃ〜キングだとぉおおお! よっしゃー、そこまで言われりゃ本望だっ! 喜んで日本に行ったるわい!!」

ってなったらしい。 ベーブ・ルースは「キング」という意味の日本語表記である「王」の部分にいたく感激したのじゃ。 大ヒーローだったとはいえ、当時はまだ「キング」とまでは呼ばれていなかったのじゃろう。 だからこそ感激して日本行きを快諾したんじゃろうな! 野球史の書物を読むと、ベーブ・ルースはポスターそのものに感動したと記されておるが、それは間違いじゃ。 本当のところは「野球王」の表記に感激したんじゃ!
 アメリカ人にとって、キングという言葉にはそこまで絶対的な権威があるのじゃよ。 諸君もしかと覚えておくようにな!


The-Kingオフィスを南下すると聖地があった・・・
野球王ベーブ・ルースを筆頭にした全米チームの来日によって、日本の野球ブームは高まり、1936年(昭和11年)には「日本職業野球」、つまり現在の「プロ野球」がスタートすることになるのじゃ。 職業野球をスタートさせるってことで関係者が最初に大きく動いたのは「職業野球専用の球場づくり」じゃ。 当時は神宮球場は「大学野球専用球場」で使えんかったし、旧後楽園球場(東京ドームの前身)もまだなかったのじゃ。 しかしなにせ球場建設は急を要したために、広大な土地の確保が難しく、結局は東京都江東区の埋立地に白羽の矢が立ち、突貫工事によって「洲崎球場」なる日本初のプロ野球専用球場が完成したのじゃ。 建設にはベーブルースが来日した際に語った「専用球場の仕様/形状アドバイス」が参考にされたのじゃ。 ベーブ・ルースはアメリカだけではなく、実は日本のプロ野球の誕生と発展のためにも大いに貢献しとるわけじゃ。 まさに「野球王」じゃな。
 ところでこの洲崎球場じゃが、正確な住所も取り壊された時期も長らく不明じゃった。 それが20世紀末期になってから詳しい調査がされて、どうやら現在の
「東京都江東区新砂一丁目」付近にあったということが判明。 この住所ってのが、なんとThe-Kingオフィスのすぐ傍を走る国道465号線をわずか4〜5キロほど一直線に南下した場所なのじゃ!

 洲崎球場の近くには都電の停留所があったらしく、それは当時都内を網の目のように走っていた都電(路面電車)のうちの「城東電気軌道」なる路線上であり、それは錦糸町から南下して江東区の埋立地手前で左折して江戸川区の小松川までの区間だったそうじゃ。 当時の都電の路線図が入手できんので、錦糸町のどのあたりに起点の停留所があったのか分からんが、The-Kingオフィス界隈と錦糸町界隈はいわばお隣さん。
 キング・オブ・ロックロールのスピリット宿るThe-Kingオフィスと、キング・オブ・ベースボールの息のかかった洲崎球場は都電という今は亡き文明で繋がっておるのじゃ。 これぞまさしくキング繋がりってことが判明してわしはコーフンしてしもうたな!
 オモシロエピソードとしては、洲崎球場は埋立地に、しかもかなり海岸線に近い場所にあったらしく、満潮時には海水がグランドまで入り込んできたり、引き潮の後はグラウンドにカニがいた!なんて逸話も残っておる。 実はそのカニを捕まえて肴にして一杯やっとったのがわしじゃ!ってなワケねーだろう! まだ生まれてもおらんわい!


 聖地と“性地”が隣接した州崎!? ツワモノドモ、オトコドモの夢の跡地
洲崎球場は「昭和11年(1936年)第一回日本職業野球王座決定戦大会」(現在の日本シリーズ)の舞台でもあったのじゃ。 「王座決定戦」ってなんか格闘技みたいなすごいネーミングじゃな。 この大会では、東京巨人軍と大阪タイガース(現・阪神)が激突して、伝説の投手・沢村栄治の“決死の三連投”によって東京巨人軍が勝利。 
 沢村投手は連投の疲れを振り払うために、試合前後には現在の押上駅周辺までの往復約10キロのランニングを繰り返しておったそうじゃ! ス、スゴイ逆治療じゃあ〜。 また肩の腫れをとる湿布薬として生の馬肉の切り身を貼っておったそうじゃが、その馬肉を仕入れるために巨人軍の“ぱしり君”が押上方面へと突っ走って行ったという証言もあるのじゃよ。 そのパシリ君こそ、何を隠そう少年時代のこのわしじゃ!ってなジョーダンを言わすな! しかしどこの精肉店だったのか、そのうちに必ず突き止めたるからな!

 この沢村投手の在りし日の姿、全盛時代を知る希少な人物が、同時期に活躍した日本初のアメリカ人プレイヤーのバッキー・ハリス氏。 バッキー氏は約40年後に日本シリーズに招待されて来日したが、懐かしの洲崎球場跡地周辺まで出かけていったそうじゃ。 そして偶然ながら、当時の“キングにまつわるお話”をかましてくれておるのじゃ。 「サワムラさんはグレイトだったのお〜。 よぉやられたもんじゃ。 その当時のワータシは日本語を覚えるために、
日本でもっとも強い男(キング)の歌を教えてもらったんじゃ。 それが桃太郎の歌でのお〜」と語っておった。 昭和初期の日本のキングは桃太郎だったんじゃな〜。
 ちなみに洲崎球場の近くには当時有名な遊郭街(赤線っつうか、ピンクのネオン街じゃ〜!)があってのお〜♪ わしも野球観戦帰りによく立ち寄ったもんじゃ。 以降も昭和30年代前半までは「洲崎パラダイス」として賑わったもんじゃ。 まさか、そこから少し北上した所に将来The-Kingのオフィスが出来るとはなあ〜って、わしはまだ生まれてはおらんと言っとるではないか!


大企業ライオンと世界のホームラン・キング

 これだけではないぞ! まだまだ洲崎球場、押上周辺には“キング”なるものが関係しとるから驚きじゃ。 洲崎球場をフランチャイズにしたのは「大東京軍」という職業野球チーム。 巨大な軍隊みたいな名前じゃのお〜。 しっかし1936年の発足から一年後には資金難になり、一般企業から資金援助(スポンサー契約)を受けることになり、そのスポンサーが歯磨き粉や石鹸で今も有名な「ライオン歯磨」(現ライオン株式会社)じゃ。
 もともとは創業者の名前から「小林商店」と名乗っておったが、当時のライバル会社が「象印」「きりん印」と動物の名を冠にしており、「それなら我が社は
百獣の王、動物のキングであるライオンにしよう」となったんじゃ。 「大東京軍」は「ライオン軍」と名称を変更して資金難を切り抜けたものの、やがて消滅。 じゃがスポンサーの「ライオン歯磨」は成長を続けて大企業となり、その本社や関連会社、工場の多くのは押上を中心とした墨田区の中に今でも点在しておる。 従業員云万人の大企業らしいが、果たして「洲崎球場」「ライオン軍」の歴史までも知っとるものはどれぐらいおるんじゃろうかのお〜。 なんならThe-Kingブランドのプロモーションも含めて、わしが社内講演会をやってもええぞ!
 なお、このライオン歯磨じゃが、1966年のビートルズ来日公演の際のメイン・スポンサーのひとつじゃった。 大東京軍といい、ビートルズといい、新しい文化に対する協力的なスタンスは伝統のようじゃな! スバラシイ!!
 
 さて、押上キング伝説の〆は、世界のホームラン・キングである王貞治氏じゃ! 洲崎球場開場と日本職業野球始動から4年後の1940年(昭和15年)、ベーブ・ルースが感激した「王」という日本語を姓とする王貞治氏がこの世に生を受けることになるのじゃ。 
この日本の「野球王」が生まれた場所、そしてその父上殿が経営されていた中華料理「五十番」も押上地域にあったのじゃ。 特に「五十番」はThe-Kingオフィスから墨田区側へたったの数分ほど歩いた場所にいまも健在! 現存する「五十番」は、父上殿のお弟子さんが暖簾わけをされたお店じゃ。 王貞治氏は今や墨田区の名誉区民の称号を授けられており、区民会館には「五十番」で使用されとった当時のラーメン丼が陳列されておるぞ!

キングに感激したキング所縁の地にキングが生まれ、そしてキングのスピリットが宿るThe-Kingがある!

 おかしな早口言葉でもなければ、下手なダジャレでもない。 これはすべて真実なのじゃ! 以上、いかがだったかの〜押上のキング伝説! The-Kingのボスは野球好きじゃがマニアではないので、この伝説をご存じだったわけではあるまい。 しかし運命というのはそういうものなのじゃ。 本人が知る、知らない等は関係はなくて、人生の結果はすべて「神のお導き」なのじゃよ。 The-Kingブランドは、その名と将来に相応しい場所に拠点(オフィス)を構えておったということじゃ。
 ネット百科事典ともいうべきウィキペディアには、押上という街は「1902年に東武伊勢崎線吾妻橋駅(のち浅草駅、現・業平橋駅)が開業。  続いて1912年11月3日には、京成本線(現・京成押上線)の始発駅として、押上駅が開業した。 東京の下町で最も繁華な街の一つを形成していた」とされておる。 それから紆余曲折、山あり谷ありの歴史があった。 そして東京スカイツリーの出現によって、
押上は今再び下町のキング・シティとしての将来を嘱望されておる。 でもわしらロックン・ロール・ファンにとっての押上のシンボルはThe-Kingじゃな! そこんトコをよぉ〜く噛みしめながら、しっかりと新作をゲットして大切にするようにな! The-Kingを末永くキングたらしめるのは、押上のキング伝説と諸君のキング愛じゃ!      


七鉄の酔眼雑記 〜母さん、あのチーズバーガーはどこへ行ってしまったんでしょうね・・・

 スポーツ鑑賞大好き!のわしに、先日知人が「世界水泳・上海大会」の録画DVDを貸してくれた。 「このところ帰りが遅いみたいだし、世界水泳観てなかったでしょう? どうぞ!」というなかなか気の利いた嬉しい厚意じゃった。 さっそく休日丸一日費やして鑑賞することにしたんじゃが、やはり競泳と言えばチーズバーガー! チーズバーガーがなければ競泳はハジマラナイ!! ってなんのことだかわからんじゃろうな。 そりゃそうじゃ、失礼。
 いや実はな、わしは競泳を鑑賞する時はどうしてもチーズバーガーが食べたくなるのじゃ。 今から40年前、わしの青春真っ盛りの頃、わしは個人的な目的があって水泳に精を出しておった。 当時仲の良かった友人が遠泳の名人でな。 一緒に海水浴に行くと、彼は羨ましいほどに沖の方まで楽々と泳いでいくのじゃ。 彼に付いて行く途中で「いてててっ、足がつった!」「ぶはっ、い、息が苦しい・・・」ってなるわしはバカにされたもんじゃ。 それで「競泳なら負けんぞ!」となって、都内のプールで彼と“賭け競泳”をしておったのじゃ。 そしてその日勝った方が、当時銀座にオープンしたばかりの日本のマクドナルド1号店でチーズバーガーとマックシェイクを奢らせるという約束だったんじゃよ。 あの頃のチーズバーガーとシェイクってのはホンマ美味かった! 賭けるだけの価値は十分過ぎるほどじゃった。
 ロックに夢中じゃったわしにしては奇妙なハナシじゃが、その友人ってのがジャズ狂でな。 ジャズとロックという西洋音楽つながりで親交を深めることになったんじゃが、まさかマック賭け競泳にまでやる間柄になるとはのお。 懐かしい〜青春時代のひとコマじゃ。 ちなみに戦績は20回ほどやってわしの圧勝! 貧乏学生じゃったわしを激しく駆り立てるだけの魅力があったのじゃ、当時のマックのチーズバーガーには! まさにハングリー精神じゃってチョット違うか! しかし戦利品として味わったチーズバーガーの影響は絶大であり、その後の人生においても競泳のテレビ放映を見ると無条件反射でチーズバーガーが食べたくなるってワケ。

 さて「世界水泳」の録画をより一層楽しむために、近くの某有名バーガーショップで買ってきたチーズバーガーじゃったが・・・十何年振りかに食べたのじゃが恐ろしく不味かった。 ここ数年は自炊にハマっており、その前の十年間あまりは海外放浪期間であり、ファーストフードとはすっかり疎遠になっていたとはいえ、なんつう味じゃありゃ・・・。 使い古しのスポンジみたいなパン。 質の悪い成形肉みたいなパテ。 100均でも売っているような安物のソース。 申し訳程度に挟まれたひなびた野菜。 今のヤングたちはあんなのをハンバーガーだと思って食べておるのか? ちょっと酷すぎないか、あの味は。
 「賭け競泳の戦利品」の味と比較するのは間違っておるかもしれん。 水泳の後は殊更味覚が敏感になるというし、それまで食べたことのないアメリカンフードの味に感激していただけかもしれん。 またこの40年の間にわしの味覚が発達したのかもしれんしな。 しかしあの味は、調理シロウトがマニュアル通りに作ったというか、ハンバーガーなんて好きでもない者が作ったというか、いやはや何とも・・・。 「世界水泳」を楽しむためのゴールデンタイムが一気に色あせてしもうたよ。
 「健康食ブーム」によって、アメリカでは某ファーストフード店が巨漢と化したへヴィーユーザーから訴えられるニュースがあったな。 「自己管理の出来ないバカ野郎の八つ当たりの極致じゃな」と笑って過ごしておったが、わしは別の意味で訴えてやりたくなったもんじゃ。 あんなもの、材料があれば子供だってつくれるわい。 外食産業のプライドはないのかキサマらっ!ってなもんじゃ。 その後試しに二、三の別店舗、別ブランドでも食べてみたが、結果はいずれも捨て金に終わった。 イメージ戦略に騙されて、不味い物を食べさせられることもまで「オシャレだ」と錯覚しているだけなんじゃよ、日本人は。 皆の衆、気が付いておくれよ。 そうしないと、本物にお金が使われず、本当に本物が生きていけなく時代になるぞ。 まずは偽物がはびこっておる食の世界から改善されていくことをホント切望するよ、わしは。

GO TO TOP