ROCK FIREBALL COLUM by NANATETSU Vol.124


 今年もやってきおったロックの日(6月9日)! 昨年はこのわしのコーナーの丁度100回目に当たったんで、「もしもエルヴィスが、コクランが、バディ先生が生きておったら!?」なんてハイテンションな夢物語をかましたが、今年はどうするか。 よしっ、何事も“山あり谷あり”なんで、ハイテンションのネクストはロウ・テンションってワケではないが、エルヴィスがメジャーデビューして「ロックン・ロール文化」が大爆発した1956年からわずか3年目の1958年から始まってしもうた「ロックン・ロール暗黒時代」を検証してみようか。
 エルヴィス・フリークのお方なら、即座に「それはキングが軍隊に行っちゃったからサ」と、書けば一行にも満たないフレーズで結論付けてしまうじゃろうが、真実はそれだけは済まされない様々なマイナス現象が複雑に絡み合って我らが愛するロックン・ロールは絶頂期から真っ逆さまに暗黒時代に入ってしまったのじゃ。

 実はこのテーマを執筆するにあたり、自分の知識や記憶の精査のためにいろんなロック関連のサイトをチェックしておったんじゃが、某大手サイトの中に誠にケシカラン!記述があった。 それは1950年代末期にコクランやヴィンセントがヨーロッパ・サーキットへ向かった原因を、「アメリカではロックが飽きられてしまったから」と簡単に片付けておったのじゃ。 わしは久し振りにちゃぶ台をひっくり返したくなるぐらい腹が立ったわい! オツムの弱いパ〜子ちゃんファッションじゃあるまいし、ロックを単なる流行もの扱いするなバカモノ! このサイトにはすぐにでも直接乗り込んでオトシマエを付けさせたいところじゃが、何せわしのこれからの外出はThe-Kingの新作フラップ2発が足元を飾ることになっておるので、殴りこみの装いにあんなグレイトなアイテムを着用するわけにはいかん! ってことで、何事も穏便に済ますべく、このコーナーで真実をブチまけることに相成った! 何故冒頭にキング・エルヴィスとニクソン元大統領のツーショットがあるのか? 最後まで読んで頂ければ分かるというものなんで、しばしお付き合い願おう! 


ロックが絶滅寸前にまで追い込まれた、1958、59年。
   それは果たしてアメリカの国家的陰謀だったのか!?


全米を大パニックに陥れたスプートニク・ショック
    

 最初はチイトばかりコムズカシイ事を述べるが勘弁じゃ。 1956年のエルヴィスのメジャーデビューによって大爆発したロックは、フィフティーズという時代が生んだいわば最後の超ウルトラ文化じゃ。 しかし1957年10月4日に、アメリカという国を根底から揺り動かす大事件が起こったのじゃ。 それが「スプートニク・ショック」じゃ。
 そう、旧ソビエトが人類初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げを成功させたのじゃ。 何でもかんでも「アメリカが世界一!」と信じておったアメリカという国家とその国民にとってはショックなんてもんじゃなかった。 少し前にもソビエト側から大陸間弾道ミサイルを搭載した潜水艦の設置も公式発表されており、またスプートニクの後を追うように慌てて開発された自国のロケット「ヴァンガード」は発射2秒後に爆発!(右写真→) 「これではアメリカがソビエトに侵略されてしまう!」って恐怖がアメリカ全土を襲ったんじゃよ。
 こうなったらロックどころか、「文化だ、芸術だ」なんて言っておれんわな。 絢爛たるフィフティーズ文化、そして花開いたばかりのロックの怒涛の勢いは、実は旧ソビエトの科学力によって失墜させられたんじゃよ。 あらゆる音楽の中で、ロックがもっとも時代性と強く繋がっておるが、皮肉なことに「スプートニク・ショック」というマイナス現象によって最初にそれが証明されてしまったのじゃ。
 まあ今から半世紀以上前に起きた全米のパニック状態のスゴさを伝えるのは難しいもんじゃが、現代の日本に置き換えてみると、さしずめ北朝鮮の軍事人工衛星に日本爆撃用核ミサイルが設置されたと発表されるようなもんじゃろう。 そんなことは到底ありえんが、そのありえんような事が当時のアメリカで起こった!と考えてほしい。 事の重大が分かるじゃろう。


ロックスターたちが“狙い撃ち”に遭った、悪夢の五連砲!?


 「スプートニク・ショック」の次はだな、今度はロックの女神が様々な気まぐれ、悪戯を始めることになるのじゃ。 いや、これは悪魔の仕業としか考えられんような不幸、不運の数々がロックシーンを直撃したのじゃ。 それはもう少し“度が過ぎて”おったら、それこそロックそのものの息の根が止められていたかもしれんかった。
 まず1957年12月
リトル・リチャードが突然の引退、神学を修める宣言をしおった。 これは一体どういうことなのじゃろう・・・いまだにご本人からの釈明がない不可解なアクションじゃ。 次に年が明けた1958年初頭には、こともあろうにキング・エルヴィスに徴兵通知が届いてしもうた。 このリトル・リチャードの不可解な行動、エルヴィスへの不幸な指令は、今でも「ロックを目の敵にしていたF○Iからの圧力では?」と噂されておる。 ちなみにエルヴィスが軍隊に入ったニュースによって、日本のパー子ちゃんエルヴィス・ファンは、アメリカの男性には徴兵という国民としての義務があることを初めて知ったらしい。

 更に今度は「ロック側」が世間から大ひんしゅくを買う行動を起こしてしまう。 エルヴィスの徴兵に関して、パラマウントがその時期を遅らせようと徴兵局に申請したのじゃ。 「キサマラ何様のつもりだ! エルヴィスをよこしてアタマを下げさせろ!」と徴兵局は激怒しおった。 世間様もつられて「そうだそうだ」となっちゃって、エルヴィスはな〜んも悪くないのに、非国民扱いじゃよ。 また同年夏には
ジェリー・リー・ルイスが13歳の又従妹と婚約を発表して世間は騒然となった! しかも前妻との離婚前の重婚という不謹慎な経緯も明るみに出てしまい、ジェリーはこの騒ぎで事実上の業界追放処分となってもうたんじゃ。 エルヴィスの徴兵延期騒ぎもあって「やっぱりロックン・ローラーなんてロクなもんじゃない!」「やっぱりロックなんざ悪魔の音楽だ」ってことになってしもうた。
 1959年になっても事態は全然上向かず、2月3日ついに
バディー・ホリーが飛行機墜落死。 年末にはチャック・ベリーが少女売春強要容疑でブタ箱入りじゃよ。トホホホ・・・。 ロックの権威は完全に失墜してもうた・・・。 コクランとヴィンセントがヨーロッパに活動の拠点を移したのは、こうしたどうにもならない時代背景があったのじゃ。
 ふ〜む。 こうも不幸、不徳の事件がたて続けに起き、しかもトップスター狙い撃ちだとため息しかでんわな。 ただでさえ「スプートニク・ショック」で国全体が意気消沈しとるのに、その責任をロックにおっかぶせられるような風潮になってしもうたんじゃな。 当時のアメリカのロックファンはさそがし肩身が狭かったに違いない。 心より同情する次第じゃ。


アラン・フリードのペイオラ・スキャンダル事件

 1950年代に若者に絶大な人気を博したラジオDJがアラン・フリードじゃ。 自分のラジオ番組で黒人音楽のリズム・アンド・ブルースをロックンロールと呼びながらガンガン流しまくり、若者たちの間にロックンロールを普及させた第一人者じゃ。 愛称は「ムーンドッグ」であり、「もう一人のキング・オブ・ロックン・ロール」とも呼ばれておる。 DJ業ばかりでなく、全米各地で黒人も白人も同時に参加できる大規模なロックン・ロール・ダンス・パーティを開催したり、ロックンロールの普及のためにあらゆる方面で活躍したのじゃ。 
 そんな偉大なる人物もまた、この時期に失脚していった・・・いや、失脚“させられた”のじゃ。 1959年「ペイオラ・スキャンダル」と呼ばれた業界の汚職事件の張本人とされて、世間様から極悪人扱いされてしもうた。 「ペイオラ」とは簡単に言うと「黄金色のお饅頭(まんじゅう)」じゃよ。 特定のレコード会社のレコードを番組内でかける見返りとして、レコード会社から金品を受取ることじゃ。

「ははぁ〜アラン殿、今月はこのレコードを何卒お願いします。 まずはこのお饅頭を是非!」
「ほほぉ〜レコードもサイコーじゃが、コレもなかなか良い饅頭じゃのお〜♪」

 ってコトが実際にあったかどうかなんてドーデモええ。 ロック普及のために心血を注いでおったお方に、お饅頭の一つや二つ差し上げたってええではないか! まあこれは「賄賂」なんじゃが、当時は禁じる法律もなかったし、DJの報酬が低かった時代だったので「ペイオラ」は慣例化しておった。 そこをオエライ世界の方々が痛烈に非難し始めて大事件となり、「ペイオラ」を禁止する法律まで新制されたんじゃな。 あげく、アランを初めとした人気DJのほとんどが業界から抹殺されてもうたのじゃ。 ロックを演る者もいなければ、プロモートする者もいなくなったわけで、まさにロックは両手両足をもがれてしまったのじゃ。


ロックのアメリカ国外流出と、その代償

 全ての始まりは「スプートニク・ショック」からじゃ。 「アメリカ国民は襟元を正し、真面目に勉強をし直して、富国強兵に努めねばいかん!」って、国家が異常に教条主義に走り始めたことじゃ。 恐らくその為の最大の障害物としてロックは目の敵にされた可能性は大じゃ。 ほんの2〜3年前に大爆発したロックの猛火が、あっという間に鎮火することなどちょっと考えられんじゃろう? これは第三者からの強烈な圧力、策略があったと考えても不思議はなかろう。 

 1960年、エルヴィスは徴兵任期満了で無事帰還したものの、ロッカーとして再スタートするフィールドが無くなってしまっていたんじゃよ。 エルヴィスの失意はどれだけ深かったことか。 まさに「ホームタウンのストレンジャー」じゃよ。 ロッカーとしてカムバックするのに、実に10年近くを要することになるのじゃ。 
 一方、ヨーロッパに活動の場を移していたエディ・コクランとジーン・ヴィンセントの奮闘によって、1962〜3年頃からロックはイギリスで第二の大輪の花を咲かせることになるのじゃ。 しかしその過程において、1960年にエディがロンドンで事故死してしまい、ジーンも重症を負うことになってしまうのじゃ。 ロックの国外流出によって、アメリカはかけがいのない偉大な才能を失ったのじゃ。 
 そしてビートルズを初めとしたブリティッシュ・ロッカーたちによって、その後長らくアメリカの音楽マーケットは独占されるのじゃ。 それはブリティッシュ・インベイジョン(イギリス勢の侵略)と呼ばれたが、侵略される原因を作ったのはアメリカ自身じゃ。 ロックを抹殺しようとした国家の策略(?)の代償はあまりにも大きかったということじゃな。
 「ロックンロール誕生云十年」とはいうものの、その創成期においては、こんなスサマジイ大ピンチの時があったことをどうかお忘れなく! 国家ぐるみで潰しにかかられるほど、創成期のロックはまさに「リアル・ロックン・ロール」であり、この最大の存続の危機を乗り越えた屈強のスピリットこそがロック/ロックン・ロールなのじゃ。 そしてそのスピリッツは不滅であり、The-Kingブランドにもしっかりと宿っておることもお忘れなく! 本物が滅びることはない!!

遅すぎた国家からの謝罪!?

 1970年、エルヴィスが時の大統領ニクソンとホワイトハウスで接見した際、ニクソンは「アメリカの若者の心を君の歌で取り戻してほしい」と言ってエルヴィスと握手を交わしたそうな。 それは泥沼化するベトナム戦争に端を発した若者の「アメリカ離れ」を食い止めたいという思惑と同時に、かつてロックを葬り去ろうとした国家の愚かな政策に対するキングへの「お詫び」じゃった、ってのは言い過ぎではあるまい!

  
 


七鉄の酔眼雑記 〜七鉄の不眠症解消術!

 わしもThe-Kingのボスも、ともにぎっくり腰にやられてしもうた今年の春先。 「やっぱり歳には・・・」なんてお互いの顔を見合わせて苦笑したもんじゃ。 実はな、わしにはもうひとつ持病があるんじゃよ。 糖尿病とかアルツハイマーとかではないぞ! それは「不眠症」じゃ。 ぎっくり腰はある日突然やってしまうが、わしの不眠症は季節の変わり目になるとじわじわとやってくることが多い。 根っからのロックンローラー!じゃなくて、根っからの怠け者なのか、わしはとにかく「寝ないとダメ」なタチでな。 徹夜をやると翌日はアタマが全然働かないのじゃ。 若い頃は体力でカバーできたが、歳を取ってからの徹夜は、翌日の「温かい死体状態」を招くだけじゃ。 だから眠ることの出来ない「不眠症」ほど不快なもんはないんじゃよ。
 ぎっくり腰をやってしまった後、今度は不眠症の兆候が出てきおった。 病院嫌い、お薬嫌いのわしは思案した挙句、寝床周りを模様替えして、より快適に寝床につけるような工夫をしてみた。 具体的に言うとだな、わしの部屋は和室なんで、それまで畳の上に布団を敷いて寝ておったのを、べッドに変更したのじゃ。 とはいっても和室全体の雰囲気は損ないたくないし、どうしても畳の上では寝たかったので、必死に考えた末についに閃いた! 余っていた木目調のカラーボックスを土台にして、その上に畳を1枚引っ剥がしてベッドの底板代わりに乗っけたのじゃ。 その上に敷布団を敷くんじゃが、畳1枚のサイズは敷布団よりも小さいので、敷布団が浮くスペースには円筒状に丸めた敷き畳を置いた。 更にベッド周りには天井からよしずを吊るして就寝スペースとしての区切りを強調してみた。 仕上げとして、古道具屋で見つけた安価のティファニー調のスタンドライトを枕元に置いた。
 これが効果てきめんじゃった! それまで布団を敷くために漫然と確保していたスペースが、不動のやすらぎの空間に変わったようで、忍び寄る不眠症を回避できたのじゃ。 洋式のベッドを置いてしまって和室の雰囲気を壊すこともなく、畳の上で寝るという嗜好も続けることが出来ておる。
 ちなみに剥がした畳1枚のスペースには黒の人工芝を敷いて、その上から白い玉砂利を敷いてみたら、部屋の中に小さな和風庭園が登場したようでこれまた観た目が楽しいもんじゃ。 元々部屋の模様替えは好きな方じゃったが、久々に見た目も機能性も満足出来る完成度じゃった。 そしてそして何よりもかかった経費が、スタンドライト代を除けば、敷き畳代とよしず代の3000円程度で済んだことが嬉しい! 不眠症に悩んでおる方、出来合いの和室に変化を求めておる方、これは七鉄オススメのお部屋の模様替え術ですぞ!


GO TO TOP