8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.95
                                                                                       
              
     ドゥーワップ・スイング〜ザ・デュプリーズ


 こなさんみんばんは。年ドエッチ組の担任、頑固8鉄です。この時代、女子生徒達のブルマー姿が消えてしまったのが実に惜しいと嘆きまくるエロオジサン!でもありまーす。

さて今日のお話は、ウイリアム・L・ディキンスン高校の生徒(3年ドエッチ組ではない)だった、マイケル・アーノンを中心に、ジョー・サントロ、ジョン・サルヴァート、トム・ビアログロウ、ジョーイ・ヴァン(カンザーノ)が集まって結成されたザ・デュプリーズ。

彼らの特色は、大ヒットになった「ユー・ビロング・トゥ・ミー」に代表されるように、50年代以前のポップ曲を主な題材にしている点です。アレンジも、グレン・ミラーなどのスイング・ビッグバンド流のもので、それにコーラスワークを乗せて独特のサウンドを作り上げたのでした。それに、彼らは、まだティーンネイジャーのアマチュア・グループだった当初から、そういうスタイルを目指しており、自分たちで独自のスタイルを築き上げ、売り込みをし、有名になっていった、独立独歩のグループでもありました。
さて、デュプリーズ物語の発端は、1958年。よくある、高校生の話。ジョーイ・ヴァン(カンザーノ)とトム・ビアログロウは、ブライアン・モラン、ジャッキー・スミスと「ユートピアンズ」というヴォーカル・グループを立ち上げました。ジャージー・シティで少し名が出たのと同じころ、エルジンズというグループが同じエリアでのしてきていて、そちらはジョー・サントロ、マイク・アーノン、ガス・サレルノ、ジョー・カタルド、マイク・アマトがメンバー。2つのグループは、ジャージー・シティのディキンソン高校の友達仲間でしたが、1960年、どちらも高校卒業時に解散。エルジンズのジョー・サントロとマイク・アーノンは、友達のジョン・サルヴァートと別のグループを作ることにし、ユートピアンズのジョーイ・ヴァンとトム・ビアグロウに声をかけ、出来たグループをパリジャンズと名付けました。その後、2年間、彼らは、それぞれの実家を練習場にしながら、練習に励み、ジャージー・シティのローカルな店でギャグをかまして、いいえギグをして力をつけていったのです。

このとき、レコード会社売り込み用のデモ録音もたくさん作った。その中には、後にヒットすることとなる「マイ・オウン・トゥルー・ラブ」や「セプテンバー・レイン」、「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」も入っていました。選曲をみれば、すでに当初から、1940〜1950年代前半のポップソングを題材にした、「60年代時点でのオールディーズ・リバイバル・グループ」を目指していたことがわかります。1962年、彼らから送られたデモテープを聴いた、コード・レコードのオーナー、ジョージ・パクストンは、1940年代のビッグバンド・リーダーだったこともあり、このコンセプトに共感、パリジャンズを自分のレコード会社と契約させます。
パクストンは、パリジャンズという名前はいかにもダサい、ということで、名前をデュプリーズに変え、A&Rマンでアレンジャーのフレッド・ウエスマンテルとともに、彼らのアイデアにプロの技を加えて、グレン・ミラー風の、木管セクションがなめらかにスイングする40年代風ビッグバンドサウンドに、磨き上げたドゥーワップ・コーラスを加えた、独特のサウンドを作り出しました。

 まずは、1952年にジョー・スタフォードがヒットさせ、その後も様々なアーティスト(特筆すべきはディーン・マーティン)にカヴァーされたポップ・クラシック、「ユー・ビロング・トゥ・ミー」を、パクストンのビッグバンドをバックに吹き込みます。そして、ニューヨークのマレイ・ザ・Kによって主催されるラジオ番組コンテストに、「ユー・ビロング・トゥ・ミー」を投稿。これが、マレー・ザ・Kに気にいられて優勝したことをきっかけに、ヒットチャートでめきめき伸び、1962年6月には、ポップチャート第7位までいくという快挙。大ヒットになりました。
その後、デュプリーズは、多くの「一発屋グループ」と異なり、数年間、トップ40にいくつものヒットを送り込むグループとなります。続いて、出たのは、デモレコードにも入っていた「マイ・オウン・トゥルー・ラヴ」で、これは、1934年のハリウッド映画「風と共に去りぬ」の主題曲「タラのテーマ」の改作。ニュージャージーとニューヨークではトップ10入り、全国ポップチャートでも13位にまで駆け上がる再度の大ヒット、ゴールド・ディスクとなっています。
大ヒットの2連発に気をよくした彼らが続いて、出したのは、アルバム。これには、「ズィーズ・フーリッシュ・シングス」、「セプテンバー・レイン」、「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」といった40年代のスタンダード曲のデュプリーズ版が入っていて、ビッグバンド・ウイズ・ドゥーワップコーラス、という、デュプリーズスタイルが確立されていきました。
続いて出たのは、再度「風とともに去りぬ」のメインテーマを取り上げた、「ゴーン・ウイズ・ザ・ウインド」(63年ポップチャート89位)。あとを追って、「アイ・ウィッッシュ・アイ・クッド・ビリーブ・ユー」、「ホワイ・ドント・ユー・ビリーブ・ミー」(63年ポップチャート37位)がヒット。そして、ついに、大ヒットの第3弾となる、「ハブ・ユー・ハード」(63年ポップチャート13位)が出ます。


 1963年、「ハブ・ユー・ハード」の快挙を受けて、その名を冠した2枚目のアルバムを発表。ここには、ヒットした、「ゴーン・ウイズ・ザ・ウインド」のほか、ハワイで8週間に渡り1位になった「ザ・サンド・アンド・ザ・シー」が入ってもいました。
しかし、1964年、ブリティッシュ・ロック・ブームで、古き良きアメリカを偲ばせるデュプリーズも存在が薄くなり、リードシンガーのジョーイ・ヴァンがソロになって独立。1965年、デュプリーズは2年契約でコロンビアレコードに移籍し、新しいメンバーでサウンドも一新します。リードシンガーに高校時代からの仲間だったマイク・ケリーが入り、生まれ変わったデュプリーズは、よりポップ色の強い方向でレコーディングを続けます。しかし、野心作の「アラウンド・ザ・コーナー」が不発に終わったり、ビートルズサウンドに追随しようとして失敗したり、ソウル・サウンドで「ビー・マイ・ラブ」を吹き込んだり、試行錯誤を繰り返します。1969年には、コロッサス・レコードから、アルバム「デュプリーズ・ゴールド」をリリース。そして、1975年に、RCAヴィクターから出した、「デリシャス」(ディスコシングル3位)で再びトップ10入りするのですが、ジョン・サルヴァートが、裏方のブッキング・エージェントになって歌手を引退し、結局、これがデュプリーズとしての最後のレコーディングとなりました。さらに、2代目リード歌手のマイク・ケリーが脱退、トム・ペティロ(現在のデュプリーズのリード歌手)と交代しますが、1979年にとうとう活動を停止します。
その後、80年代に入り、デュプリーズの心、といわれた、オリジナルメンバーのジョー・サントロが1981年に死去、初代のリード・ヴォーカリストだったジョーイ・ヴァンが1984年に死去し、最終的にはデュプリーズ結成時の中心メンバーだったマイク・アーロンが2005年に亡くなって、現在、オリジナルのデュプリーズを観ることは出来なくなりました。

 現在のデュプリーズとして活躍しているのは、オリジナル時代の最後のリードボーカリストだったトム・ペティロを中心にしたグループで、ジミー・スピネリ、フィル・グラニート、トニー・テスタをメンバーに活動中。オリジナルメンバーがひとりもいないため、ある意味、まったく別のグループですが、こちらも本家に負けず劣らず素晴らしい歌唱力で、コンサート、テレビなどひっぱりだこの人気。かつてのデュプリーズ・サウンドを引き継いでいます。

こうして考えてみますと「本家」があって、しっかり引き継がれる伝承や音楽スタイルって大切な事であります。もちろんファッションにもそう言える事であり、50年代のアメリカには華やかさがありました。ファッションが華やかというだけで、何となく性格は明るくなれるわ、隣のオッサンに一杯おごってもらえたり、定食屋さんの看板娘にも色目使われるわで良い事だらけであります!
 それにしても、なぜ女子生徒達のチョウチンブルマーは引き継がれなかったでしょう?
それが見たくてセンセイになった!という今世紀史上最低のエロ先生のわたくしでありますが、ファッションにはちょっとうるさいのですよ! ここの製品を純金積み立てみたいにコツコツ増やしてゆくのは楽しいものでありますが、純金積み立てやるくらいなら、はじめっから服を買ってスカっ!!!とした方が気持ちいいであります

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