8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.91
                                                                                       
              
           アース・エンジェル〜ザ・ペンギンズ
 
 こんにちわかづくり!3年超エッチ組の頑固8鉄です。
夏も近づくペンギンズ!クールに行きましょう!あ、ペンギンちゃんといえば先日、葛西臨海公園から脱出に成功したペンギンちゃん! つかの間の自由な時間であったようですが。また臨海公園で仲間と楽しく過ごしてめでたしであります。

50年代音楽の主流は、フランク・シナトラだったり、デビー・レイノルズだったり、北島三郎だったり(嘘)するのですが、大きな変化としてリズム&ブルースが人種を問わず、大当たりしたことがあげられます。エルビスもある意味で白い黒人だったわけですね。そんな新しい黒人音楽ブームの主流は、ドゥーワップコーラスでした。
さて、今日では、最も初期のロックレコードといわれ、また、20世紀を代表する名作のひとつと言われる、「アース・エンジェル(ウイル・ユー・ビー・マイン)」。1954年だけで、200万枚売ったとされるこの曲を唄ったのは、ザ・ペンギンズ。ロス・アンジェルス拠点の、初期のドゥーワップ・グループのひとつです。
ザ・ペンギンズは「アース・エンジェル」で知られている、というより、「アース・エンジェル」だけで知られている、といったほうがいい。当時のたいていのドゥーワップグループは、「イッパツ屋」でしたが、ペンギンズは、比較にならないくらい「ケタはずれのイッパツ屋」だったと言っていいと思います。それくらい、「アース・エンジェル」は売れに売れた。現在では、オリジナル版であるザ・ペンギンズの「アース・エンジェル」は、「ローリング・ストーン・マガジンが選ぶ永遠の名曲500」 の151位に挙げられており、さらに米国議会図書館が、永久保存曲として選んだ50選のひとつでもあります。
リリースしたのは、ドゥートーン・レコードで、作者は、カーティス・ウイリアムズ、ジェシー・ベルヴィン、ゲイネル・ホッジ。この作者3人のうち、カーティスがバリトンヴォーカルを歌い、リーダーをつとめていたヴォーカル・グループが「ザ・ペンギンズ」でした。

「ヒットレコードというのはね、ほとんどは、プロモーションの力で決まるんだよ。ヒットしたということは、プロモーションがうまくいった、ということを意味している。ごく稀に、プロモーションをかけないのに、自然にヒットしていくレコードというのがあるんだ。オレも一度だけ体験したことがある。それが、ザ・ペンギンズの「アース・エンジェル」だよ。」(ドゥートーン・レコードのプロデューサー、ドゥーツィー・ウイリアムズ)
ウイリアムズは、プロデューサーとして活躍する前は、プロのトランペッターで、カリフォルニア・ジャンプ・ブルーズの名グループ、ロイ・ミルトン&ソリッドセンダーズにいたこともあるベテランです。そのウイリアムズが、「稀だ」、といったとおり、結局、「アース・エンジェル」は、大手レコード会社がとりしきる宣伝活動らしきものいっさいなし、ラジオ番組のディスクジョッキーによせられるリクエストだけで評判が広がり、ビルボードのR&Bチャート第1位を3週間に渡って独占する大ヒット。結果的に500万枚を超える桁ハズレのミリオンセラーを記録しました。
3人の共作と言いましたが、実際の作者はジェシー・ベルヴィン、というのが定説のようです。ベルヴィンは目録化不可能といわれるほど、西海岸のリズム&ブルーズ界で活躍した重要人物で、1959年に出た自身の有名な大ヒット「ゲス・フー」だけでなく、1960年にわずか27歳で自動車事故で亡くなるまで、多くの歌手たちにたくさんの曲を提供した人物です。
当時は、ドゥーワップグループは有名無名を問わず、アメリカ全土に星の数ほどあり、とりわけ、ロス・アンジェルスは、無数のドゥーワップグループの温床でした。そんな中で作られた「アース・エンジェル」は、作者のひとりであるベルヴィン自身のヒット「ドリーム・ガール」の一節を引用したり、スワローズの「ウィル・ユー・ビー・マイン」から引用したり、・・と、ほとんど、ロスアンジェルス拠点のドゥーワップグループの持ち曲をゴッタ煮にしたようなもので、それほど特色あふれる曲ではありませんでした。
 しかし、これを飛び抜けて大ヒットさせた一番の要因は、多くの人々の好みがロック音楽へ向かっていった時代の流れの中でも異彩を放った、クリーブランド・ダンカンの、独特の声でしょう。「ホームメイド・レコーディング」なみの設備で録音されたそうですが、見事なヴォーカルがシンプルな曲調とあいまって、魔法のような効果を生んでいました。
当時の例にもれず、ホンモノのペンギンズ自体は、たいした印税収入もないまま、翌年には、すぐさまモノマネ白人グループの、クルー・カッツがとりあげて白人マーケットで荒稼ぎをしたり、(1955・3位)、グロリア・マン(1955年・8位)、ジョニー・ティロットソン(1960年・57位)、ヴォーグス(1969・42位)、ニュー・エディション(1986・21位)など、カヴァーヒットは脈々と生まれ続けています。また、ヒット以外でも、エルビス・プレスリー、アーロン・ネヴィルを始め、多くのアーティストが取り上げ、また、今日でも多くのアーティストがとりあげてきています。さらに、映画での引用にいたるとキリがないので、挙げませんが、アメリカ人ならほとんど「聴いたことがない人がいないのではないか」というクラスの有名曲になっているといっていいでしょう。
ペンギンズの、当初のメンバーは、カーティス・ウイリアムズ(ベース、バリトン)、クリーヴランド・ダンカン(テナー)、デクスター・ティズビイ(テナー)、ブルース・テイト(バリトン)。

 ダンカンとウイリアムズは、ロスアンジェルスのフェアモント・ハイスクールのクラスメートで、ウイリアムズが1953年に、ドゥーワップグループの草分けのひとつ、ハリウッド・フレイムズのメンバーとなってから、ダンカンとともに、自分たちのグループも作りたいとティズビイとテイトを加入させ、ザ・ペンギンズを結成。ハリウッド・フレイムズのメンバーだったゲイネル・ホッジと書いた、「アース・エンジェル」を発表します。メンバーのひとりが、Kool(たばこの銘柄)を愛用しており、Koolの広告キャラクターだった「ウイリー・ザ・ペンギン」をもじって、ペンギンズと命名。オリオールズ、レイヴンズ、クロウズ、ラークスなど、当時たくさんあった「バード・グループ」(鳥の名前を冠したグループ)のひとつとなりました。
しかし、なかなか運というのは、難しいもの。「アース・エンジェル」の成功後、ザ・ペンギンズは、独立系大手、マーキュリーレコードの大物プロデューサー、バック・ラム(当時無名だったザ・プラターズのプロデューサー)にマネージメントを願い出ます。しかし、マーキュリーレコード会社は、大ヒットグループのペンギンズを獲得したがっていたにもかかわらず、ラム自身は、自分が曲を提供していたプラターズにこだわっていたため、結果的にラムはプラターズをマーキュリーにつれていき、プロモーション力のあるレコード会社でヒットを連発、息の長いビッググループとなっていったのに対して、ザ・ペンギンズに2発目のヒットは、とうとう出ずじまいとなりました。
1955年、ブルース・テイトはグループを去り、ランディ・ジョーンズに交代、1957年には、リーダーだったカーティス・ウイリアムズが去り、1956年に臨時でジョーンズのトラを務めたテディ・ハーパーが正式メンバーとなって活動を続けます。アース・エンジェルのような、ポップチャートでの全国ヒットこそ出ませんでしたが、1957年には、「プレッジ・オブ・ラブ」がR&Bチャートで15位を記録。その後、1962年に、オリジナルのザ・ペンギンズは、とうとう解散。クリーブランド・ダンカンが、新メンバーを入れながら、ペンギンズの看板を守り、レコーディングを続けます。

 
60年代〜70年代もダンカンを中心にメンバーが入れ替わりながらもペンギンズは存続、1998年に開催された、PBSのスペシャル・コンサート「ドゥーワップ50」(1948年のオリオールズ「クライング・イン・ザ・チャペル」から50年目に当たるドゥーワップ生誕50周年記念コンサート)では、大きなステージは実に20年ぶりでありながら、今でも全く変わらない声でアース・エンジェルを歌うクリーブランド・ダンカンに、会場は惜しみない拍手を送りました。
 さて、みっなさーん、今でも全く変わらないといえばThe Kingも同様ですよね。The Kingも創業から約20年というではありませんか! フツーは流行物などを取り上げたり、利益率の良いものに走るのが商売人っというものです。 また、これだけの目利きのメンバーが揃っていれば、付加価値物ビジネスも出来るというのに、アドバイスしたとこでやろうとしない、その姿勢がまた一段とクール! ある意味一番難しいビジネスだという事を知りつつも。わたくし頑固8鉄はThe Kingに惜しまない拍手を送りたい! そうヨイショしておいて何とかギャラアップを狙う、ヒドイおじさんのわたくしでありましたぁぁぁ。   イッヒッヒ

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