8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.83
                                                                                                              
 4人のオリジナル・ロカビリアンズ

どうも。ハードガンコ8鉄です。
寒いので、こたつで丸くなるのが一番!
じゃあ、おやすみなさい!といいたいところですが、やはり一度は書いとかないとバチがあたりそうな、あまり有名ではないけれど、実力派な名ロカビリアン4人について簡単にご紹介しときます。

ジョー・クレイ

クレイ、ったって、バットマンに出てくる粘土男じゃありません。
ロカビリーのスタンダードである「ダックテイル」や「シックスティーン・チックス」で有名なジョー・クレイは、1939年生まれのルイジアナ人で、12歳からカントリーバンドで活動をはじめました。当時の多くの実力派カントリー音楽家の例に漏れず、地元のローカル局で注目を集め、数年後、RCAと契約し、レコーディングを始めます。この時組んだのが、R&Bギタリストのミッキー・ベイカー。クネクネと粘っこく攻めたと思ったら、いきなり急降下したり、キレたようにコードかき鳴らしたり、といった変態ギターの元祖的超絶ギタリスト。クレイのレコーディングの、一般的なカントリーやロカビリー音楽とは異なるただならぬ雰囲気、鋭角的なサウンドは、ベイカーという鬼才ギタリストの力が大きいと思います。
「ゲット・オン・ザ・ライトトラックス」
1956年には、エド・サリヴァン・ショーに出演してもいますが、マネージメントの関係でツアーに出ることが出来ず、ニュー・オーリンズ音楽界では名士になったものの、全国的な知名度を高めるには至りませんでした。
RCAを辞めたあと、クレイは、スクールバスの運転手をして生活を支えながら、ニューオーリンズ土着の音楽家として30年に渡り活動を続けましたが、80年代にヨーロッパで再発見されます。そして、イギリスツアーをして大受けした結果、1986年にとうとう、かつての録音を網羅した「ダックテイル」がドイツのベア・ファミリー・レコードからリリースされました。
今日でも、クレイは各地のロカビリーイベントなどで、往年のホンモノとしての貫禄たっぷりのステージを見せています。




チャーリ−・フェザース

フェザースは、ミシシッピの生まれで、サン・レコードに吹き込んだ「トング・タイド・ジル」などで、ヒーカップ唱法で唄うロカビリーを吹き込んだことで知られています。あ、ワンカップじゃないんですよ。それでは、一昔前の深夜の京成電鉄のホームで座り込んで飲んでたサラリーマンになっちゃいます。
「トングタイド・ジル」

彼は、サンレコードのセッション・ミュージシャンをしていて、いつか自分自身の名義でレコーディングすることを夢見ていましたが、サンの社長だったフィリップスになかなか認めてもらえませんでした。この時期について、フェザース自身は、エルビスの「ザッツ・オールライト」や「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」は自分がアレンジしたとか「グッド・ロッキン・トゥナイト」は自分のほうが先にレコーディングしていた、と言っていたようです。真実がどこにあるのかわかりませんが、結局、フェザースは、サンを辞めてキングと契約してから、ベストといえる録音を残しています。50年代のフェザースの録音は後にアルバムとしてまとめられ、ヨーロッパからリリースされたりしていますが、サウンド的には、非常にクラシックな響きのカントリーとロカビリーで、アコースティックで暖かみのある古き良きサウンドです。
1980年代になり、ヨーロッパのレーベルから新作アルバムを出すようになったころから、フェザースの活動は徐々にロカビリー・カルトのような存在になっていき、音楽界の主流からは離れていました。1998年に死去。しかし、今日では、ロカビリーのパイオニアのひとりとして改めて再評価されてきています。





ハードロック・ガンター

ガンターは、1925年のアラバマ生まれですから、存命中のオリジナル・ロカビリー・アーティストとしては最古参のひとり。
最初は、自身のカントリーバンドで活動した後、1939年に、ウエスタン・スイングのハッピー・ウイルソン率いるゴールデン・リヴァー・ボーイズに参加。ちなみに、車の事故にあってもたまたま無傷だったことから、ハードロック(岩石男)というあだ名がついたそうです。(別に、レッド・ツェペリンだったわけじゃあない。)従軍から戻ってからは、ローカルテレビ放送で活動をします。地元の有名人になった彼は、1950年に地元のバマ・レーベルから「バーミングハム・バウンス」をリリース。全国区のカントリーシンガー、レッド・フォーリーにカヴァーされて成功を収めました。ガンターのオリジナル版は、今日では、最初のロックレコードのひとつとして評価されています。
「バーミングハム・バウンス」

ついに、ガンターはメジャーどころのデッカと契約。51年に、ドミノウズのドゥーワップ古典曲「シクスティ・ミニット・マン」をカントリーカヴァーして、当時としては極めて珍しい、カントリーとR&Bのクロスオーヴァー・ヒットに持ち込みました。
さらに、53年には、サンから2曲ローカルヒットを出すなどして、初期のロカビリーに確かな足跡を残しています。その後、60年代には音楽界から引退し、本業である保険業に専念。現在は、たまにフェスティバル出演などもしながら、ニューメキシコで健在だそうです。



ビリー・リー・ライリー

ライリーは、上の3人よりさらに、ロカビリーの始祖のひとりとしてかなり重要な人物。
1933年にアーカンザスの小作農として生まれたライリーは、カール・パーキンズなどと同じように、黒人の小作農からギターを教わりました。従軍から帰還した1955年、メンフィスに行って、サンスタジオのオーディションを受けます。そこで吹き込んだ「フライング・ソーサーズ・ロックンロール」がヒット。さらに57年には、ジェリー・リー・ルイスがピアノでバッキングした「ロック・ウイズ・ミー・ベイビー」と、サンの古典となっている「レッド・ホット」でもって、いちやく注目を集めました。しかし、サンのサム・フィリップスは、「グレート・ボールズ・オブ・ファィア」(ジェリー・リー・ルイス)のプロモートに力を注いでいて、「レッド・ホット」は時期を逸してしまい、たいしたヒットには成りませんでした。その他のオリジナル曲も大して売れず、サンにいたサニー・バージェス、ウォレン・スミスなどと同様、実力は存分にあるのに、プロモートが弱かったために力を発揮しきれなかったアーティストでした。
「レッド・ホット」
ライリーのバックバンド「リトル・グリーン・メン」(フライングソーサー、のヒットにあやかったもの)も優れたバンドで、イケメン、演奏技術、パフォーマンス、どれをとってもひけをとらない実力派でしたが、短い成功しか収められず、ある意味、運のないアーティストだったと思います。
しかし、1960年、サンを辞めた後、ロスに移住した彼は、もともとマルチ器楽奏者である腕を買われて、ディーン・マーティン、ビーチ・ボーイズ、ハーブ・アルバート、サミー・デイヴィス・JRといったそうそうたる面々のセッション・ミュージシャンを勤めます。
70年代に入ると、その活動も停止、音楽業から足を洗って、ふるさとのアーカンザスに帰り、建設業の社長になりましたが、90年代にはボブ・ディランがライリーの長年のファンだったことから、再発見され、本格的に音楽界に復帰。97年のアルバム「ホット・ダム!」でとうとうグラミーにノミネートされました。長年不運な活動を余儀なくされたものの、とうとう栄光の座を得たライリーでしたが、残念ながら、2009年に亡くなっています。



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