8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.71
                                                                                                                    

          ビング・クロスビー物語


 こんにちは。瓶黒です。

 昔はなんでもかんでも略すのが流行ってたことがありまして、日本人はなぜかビング・クロスビーを「ビンクロ」と呼んだりしていた時期があったんですよ。ユニクロみたいですけど。そういえば、エルビス・プレスリーを「エルプレ」とは言わないですね、なぜだろう?
ま、そんなヨタは置いておいて、クロスビーは日本でも長年に渡り、大変な人気スターであり、1977年に亡くなったときは、海外芸能人の訃報としては異例なことですが、朝日新聞の第一面トップを飾ったりしたものでした。
最大のヒットソングである「ホワイト・クリスマス」は、いまだにギネスブックで「世界一売れたレコード第1位」の座を守ってもいます。

クロスビーは、マルチ・エンタテイナーのはしりみたいな人で、ミュージカルを中心にした歌手として有名なだけではなく、純然たる映画俳優としても超一流で、心温まるヒューマンドラマの傑作「我が道を往く」では、自身と同じアイルランド系移民という設定のオマリー神父役でアカデミー賞もとっています。それに、もともとがボブ・ホープとのドタバタ・コメディシリーズ「珍道中もの」で名を成した喜劇人でもありました。
歌って踊れて、軽くお笑いもこなせて、シリアスな演技で泣かせる。どれもが世界一といっていいくらいハイグレードなのに、お気楽な感じで、親しみやすく、人柄の良い、のんびりした田舎紳士の趣をもったアメリカ人。全盛期には、「最もアメリカ人があこがれる、アメリカ人の中のアメリカ人」と言われていたのです。

しかしながら、クロスビーの、数々の歴史的な功績というのは、こうした、なんでもこなせるマルチタレントとしての華々しい表舞台での活躍だけにとどまりません。
技術分野でも革新的で、音楽芸能のあり方を根本的に変えるような大きな変革を成し遂げています。中でも最も大きな功績は、歌唱法の革命でしょう。
これは、マイクロフォンの発展とセットになっており、それまで主流だった、会場が大きくなればなるほど、楽器の数が増えれば増えるほど、大声を張り上げなくてはいけなかったオペラ流の歌い方を、マイクロフォンを通して歌うことで、比較的小さな声量で歌うようにした、ということです。

張り詰めたでかい声のオペラなんかを聴いて、

「うっせーなー・・・怒鳴るんじゃねえよ、クソオヤジ!」なんて、不良高校生みたいなことを言ったはずはありませんが、

「なんつか、その、大勢の客にも、もちょっと、ヤワラカーな感じで聴かせられるといいんでないかい?」くらいなことは思ったはず。

「なんだ、そら?そんな当たり前のことか?オラなんかいっつも風呂場でスンスンーと歌ってるっぺよ!」などと言ってはいけませんよ、そこのお父さん!

当時は、マイクがあるのが当たり前だったわけではなく、メガホン(野球の応援に使うような筒)で歌う、なんてことすらしていたのですから。フロバ、ではなくてヒロバで歌うのですよ、マイクなしで。広場の大観衆の前で、まさに、歌手は「どこまで大声を張り上げられるか」というのが勝負どころだったわけです。大声だと文字通り「声が張る」ので、どうしても堅い感じになります。マイクを使って、「張らなくてもいいくつろいだ歌い方」を編み出したのは、プロの歌手としてはクロスビーが世界初だったのです。

1876年に電話器用として発明されたマイクロフォンは、エジソンのカーボンマイクがすっかり定着していましたが、1920年代に入ってアンプにつないだ拡声用として優秀なベロシティマイクが登場(昔のNHKの漫才番組でステージ下からせり上がってくる、アレです)。最も影響を受けたのは、当時のアナウンサー、歌手、そて、青空球児好児師匠です(嘘)。

当時のベロシティ式も後継機種である今日のコンデンサ式も、発声する人とかなり距離があるのですが、その距離を計算して、歌い回しを考えることによって、マイクを「音楽の道具」としてとらえ、利用した最初の人が、このわたくし頑固8鉄、んではなくクロスビーでした。
単に大声を小さくしたわけではなくて、小さな声だからこそできるスムースな歌い回し。今日では、「クルーニング」と言われる唱法で、これこそがまさに歌唱法の革命。どんなに大きな会場で、フルオーケストラをバックにしていても大声では表現しづらい、スマートでなめらかな優しい歌声を聴くことができる、というわけです。

続いて、こうした歌い方をまねする人が続出。たとえば、フランク・シナトラ、ディーン・マーティン、ペリー・コモ、ナット・キング・コール・・・枚挙にいとまがありません。こういった歌手を「クルーナー」と呼んだりもします。(クリーナーじゃありませんよ、それじゃ、正直、いや、掃除機です。)1950年代まで、最も人気があったタイプの歌手はこういった人たちでした。

さらに驚くべきことに、クロスビーは、エンジニアリング分野での技術革新に携わっており、1931年に始まったラジオの人気番組、「ビング・クロスビー・ショー」を放送用に録音するため、第二次世界大戦中にドイツで開発されたテープレコーダーをアメリカに持ち込んだのはクロスビーの功績。(クロスビーはテープレコーダー技術の開拓者であるドイツアンペックス社の設立メンバーでもある)。そして、そのアンペックスは1952年に世界初のビデオ・テープ・レコーダー(VTR)を開発していますが、これもまたテレビ時代に対応するためにクロスビーが画策したことでもあります。
駆け出しのころ、クロスビーのお抱えギタリストだった、レス・ポールが、後に、多重録音やソリッドエレキギターの開発といった、エンジニアリング分野で「音楽界のアインシュタイン」と言われる大活躍をしますが、まあ、この親分と子分はそろいもそろってすごい人たちだったわけですね。

さて、そんな20世紀芸能の最も偉大なクリエイターのひとりでもあるビング・クロスビーは、1903年5月3日、7人兄弟のひとりとして生まれました。(弟に有名なバンドリーダーのボブ・クロスビーがいる)
1946年には当時の人気オーケストラであるポール・ホワイトマン楽団に歌手として入団、翌1927年にはホワイトマン楽団内で結成された男性3人組コーラスグループ「リズム・ボーイズ」のメンバーとなり、その後、ソロで歌唱した1931年の「アイ・サレンダー・ディア」 などがヒットしたことから、ソロ歌手として独立。
この年、ラジオ普及が進んだ時代を背景に、CBSラジオで自らのラジオショー「ビング・クロスビー・ショー」を持つに至って、全米的な人気を獲得します。ラジオを媒体として人気を得た歌手の初期の代表例となりました。その後、「ホワイト・クリスマス」、「星にスイング」、「サイレント・ナイト」など13曲もが全米No.1ヒット。生涯のレコード売上は4億枚を超えて、これに匹敵する記録は未だに出ていません。

なかでも、ずば抜けているのが、第二次世界大戦中の1942年に発売され、大ヒットとなった「ホワイト・クリスマス」で、発売以降ビルボードで14週間1位を記録。もともとは、映画「スイング・ホテル」の主題歌としてアーヴィング・バーリンが作詞作曲したもので、1942〜1962年まで20年間もクリスマスの季節になるとランクインし続け、トータルで86週ランクイン。世界中で集計されている分だけでも4500万枚を売り上げて、ギネス記録に認定されていますし、カバー版やLPを含めると北米だけでも1億枚以上が売れたと言われています。

 もちろん、クリスマス・ソングだけではありません。「アイル・ビー・シーイング・ユー」(1944年)、「イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム」(1945年)(レス・ポールがギターを弾いた)など、多くのアメリカ音楽の古典曲を残しています。
 さらに、おもしろいのは、趣味の分野でまで、決して手を抜かなかったこと。ゴルフと競馬の世界でも、クロスビーは有名で、未だに「ビング・クロスビー杯」が、どちらの分野にも存在しています。

 さて、稀代の名曲、「ホワイト・クリスマス」をはじめ、スタンダードとなった曲がたくさんありますが、やはり、あの名作たちは、ビング・クロスビー特有の、ちょっとトボけた、暖かみのあるバス・バリトンの声があってこそ。今改めて聴いてみても、声そのものに人を惹きつけて止まないものがあります。
 私が夢見たホワイト・クリスマス・・・東京あたりでは滅多にないことですが、クロスビーの歌声とともに、古き良きアメリカの夢を振り返ってみてはいかがでしょうか。




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