8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.62
                                                                                                                           
 DOO WOPPIN' AND DREAMIN' vol.3

じつはあたしゃ、江戸っ子でしてね、東京はお茶の水の生まれだ。
ちょろちょろ流れるお茶の水、粋なねえちゃん立ちションベン、っつーてね。
こんにちは、頑固8鉄です。

さてさて、前回もお送りしました、ドゥーワップ特集第2弾。今回は、前回の白人系に続いて、本来のオリジナルである黒人系、たくさんあるグループのなかから、独断と偏見で選び出した名グループをいくつかご紹介いたしましょう。

1 イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト
〜フレッド・パリス&ザ・ファイブ・サテンズ




 1956年にミリオンセラーとなった「(アイ・リメンバー)イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」は最も美しいR&Bバラードのひとつと言われています。
この曲を作詞作曲したフレッド・パリスは、1954年にコネチカット州ニューヘイヴンで、ファイブ・サテンズを結成しました。
サテンズのオリジナル版は、当初、コネチカットのローカルレーベルであるスタンダードから出され、しかもなぜかシングルのB面だったものですから、あまり目立ちませんでした。「B面」とかいっても、最近の若い方は「なんじゃらほい?」ですが、かつてレコードというものがありまして・・・(以下略
ま、とにかく、ニューヨークの中堅レーベルであるエンバーに貸し出されてレコード化されてから人気に火がつき出しました。単なる埋め草だったB面のほうがヒット、って当時はよくある話で、要は、「たいてい思ってもいなかったものがヒットした」ってことなんですが、選曲、すげえテキトーに決めてたんだろうなあ、って感じがしますね。50年代はいい加減だなー、と思いますが、いい曲が多かったことも確かです。
結局、「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」は、R&Bチャートで3位、ポップチャートで25位にあがったあともどんどん売れ続け、結局ゴールドディスクとなったのです。
しかし、作者のパリスは兵役にとられ、サテンズは活動停止を余儀なくされます。ちなみに、パリスは朝鮮戦争のため日本に派兵となり、日本人の奥さんをもらってもいます。横須賀にいたパリスは、どんどん売れ続ける「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」をラジオで聴きながら、印税を計算し、帰国して大金持ちになっている自分を夢みてがんばっていました。
ところが、当時はよくあった話ですが、まるで雀の涙みたいな印税しか入ってこなかった。もうけは全部レコード会社のものになってしまう、という抜け道が造ってあったのです。
パリス抜きの、ビル・ベイカーがリードを歌ったサテンズは、「トゥ・ジ・アイル」をヒットさせるにとどまります。
パリスの作った曲は、どれもグレードは高いもののヒットはせず、その後、パリスは、会社員となり、営業部長にまで出世しますが、かたときも「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」の栄光を忘れることはなかったそうです。
70年代のフィフティーズ・リバイバルでは、サテンズも復活し、再び第一線で活動をしますが、ヒットを出すには至りませんでした。
しかし、「苦しい時も、イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト1曲のおかげで食っていけたし、それが誇りだ。」と語るフレッド・パリスは現在もドゥーワップの大御所としてますます健在。55年経った今も、ファイブ・サテンズは現役で活躍中です。

2 メイビー 〜 ザ・チャンテルズ


 チャンテルズは、最も初期のドゥーワップ〜ソウル・ガール・グループで、1958年にブロンクスで結成されました。
中心人物は、リードのアーリーン・スミスで、彼女の圧倒的に情緒あふれるソウルフルな歌唱で、歴史に残る活躍をしました。
有名になったきっかけは、プロデューサーのリチャード・バレット(ドゥーワップグループ、ザ・ヴァレンタインズのリーダー)に見いだされたことで、1957年に「(ヒーズ)ゴーン」が、そして、1958年に決定打といえる、ミリオンセラー、「メイビー」が世に出て、その人気を不動のものとしました。
これは、60年代にジャニス・ジョプリンがカヴァーしたこともあり、熱烈なソウルバラードの傑作として名高い名曲です。
しかし、1959年には、アーリーン・スミスがソロに転じ、また、メンバーもそれぞれ志す道が違うことから、チャンテルズは解散します。
スミスは、その後、介護士になりますが、音楽の道を捨てることなく、1997年のPBSドゥーワップスペシャルでは、再びアーリーン・スミスが加わったオリジナルメンバーによるチャンテルズを見ることができます。

3 グッドナイト・スイートハート、グッドナイト
 〜 プーキイ・ハドスン&ザ・スパニエルズ



インディアナのドゥーワップグループで、リーダーのプーキイ・ハドスンが1952年に結成しました。
53年には、早くも「ベイビー、イッツ・ユー」がポップチャートのトップ10に入る大ヒットを記録し、最も初期のドゥーワップグループとしては破格の成功を収めたグループでもありました。
そして、1954年に、このジャンルのファンでは知らない者のいない傑作、「グッドナイト・スイートハート、グッドナイト」が出て、5位に入る大ヒット。たちまち世界中にその名を知られる名グループになりました。
スパニエルズの最大の特徴は、非常にクールでジャジーなサウンドにあり、最もそれを特徴づけていたのは、リードシンガー、プーキイ・ハドスンのなめらかでクールな歌唱にありました。
1966年には所属していたヴィージェイレコードの倒産とともに、惜しくも解散しますが、1969年には再結成。多くのグループとは異なり、難なくヒットを連発し、グループの人気そのものだけでなく、プーキイ・ハドスンの傑出したソングライターぶりが非常に目立つグループでした。
残念ながら、そのプーキイが2007年に亡くなり、現在ではリーダーなしのスパニエルズがライブグループとして生き残るのみとなっています。



4 ブルー・ムーン 〜 マーセルズ

 大声で歌う、迫力満点のリード・シンガーのコーネリウス・ハープと、ベースシンガーのフレッド・ジョンスンが中心になり、1959年に結成されたグループで、
古い時代の古典曲をドゥーワップ向けにおもしろくアレンジした「ブルー・ムーン」がミリオンセラーとなり、一気に有名になりました。
 この曲の最大の売りは、ベースボーカルのフレッド・ジョンスンで、なめらかなバラードだった原曲を「バーバババーバ、ババーババーバ・・」といった派手に動き回るベースとともに、スピードアップし、いかにも目を引く面白いアレンジにしたところにありました。
 日本でも九重佑三子やダークダックスが唄って有名になった、ジョニー・シンバルのヒット「ミスター・ベースマン」は、マーセルズのフレッド・ジョンスンをイメージして作られたと言われています。(この曲でベースを歌っているのはヴァレンタインズのロニー・ブライト。)
 ほかにも、同じ調子の「ハートエイクス」が大ヒットしたりで、独特のスタイルを築いたマーセルズは、今日でも、ジョンスンを中心に現役で活動しています。


5 カム・ゴー・ウイズ・ミー 〜 デル・ヴァイキングス




デル・ヴァイキングスは、最初の人種混合グループで、ノーマン・ライトを中心にピッツバーグのアメリカ空軍部隊で結成されたグループです。
1957年に出た「カム・ゴー・ウイズ・ミー」がミリオンセラーとなり、有名になりました。その後は、「ウイスパリング・ベルズ」がヒットしますが、ぱっとせず、また、空軍のメンバーでできた兵隊さんのグループなもので、メンバーが入れ替わり立ち替わり出征して交代したりで安定せず、離合集散を繰り返していきます。
そのせいで、デル・ヴァイキングスを名乗るグループが多数乱立したりもしていたようですが、現在は結成人だったノーマン・ライトが息子2人と組んだデル・ヴァイキングスが正統派として活動しているようです。




6 ソー・マッチ・イン・ラヴ 〜 タイムズ


タイムズは、よく「ソウル・ヴォーカル・グループ」として紹介されていますが、「50年代式ドゥーワップ」と「60年代式ソウル・コーラス」をつなぐ、最も重要なグループのひとつです。「元祖ソウル・ヴォーカル・グループ」といっていいでしょう。
最初のヒットは、1963年の「ソー・マッチ・イン・ラブ」で、50年代ドゥーワップの面影を残しつつ、新しい時代を感じさせる高度なコーラスワークは、後続のソウル・ヴォーカル・グループのお手本のひとつとなりました。
「ソー・マッチ・イン・ラヴ」は、後の2001年に、「20世紀の世界の名曲」に選ばれ、まさに、20世紀を代表するグループのひとつであることが証明されています。
ほかに、「ミセス・グレイス」、「ワンダフル・ワンダフル」など続き、1976年まで、アメリカでもイギリスでもヒットを連発しました。
人気リードヴォーカリストだったジョージ・ウイリアムズは2004年に亡くなってしまいましたが、タイム自体は、現在でもほぼオリジナルメンバーで活躍中。

50年代のヒットチャートを見ればわかりますが、55年以降のヒットは、ほんの数人が独占していたような状況と違って、とてもたくさんの、ほぼ無名のドゥーワップグループによるものがひしめきあっています。
40年代までは、一握りの大スターが人気を独占する傾向があり60年代のビートルズ以降もそういう傾向が戻ってきますが、50年代は本当に草の根、というか、大勢の人たちが少しづつヒットを出すような業界全体の変化が見られる年代で、それがロック音楽初期の熱気を証明する一番の証拠ではないかと思います。

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