8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.54
                                                                                                                         懐かしの昭和7 

 昭和と平成の東京風景


こんにちは。ナニかう顔でフツーにふすまを開けて入ってきた、皆様の頑固8鉄です。
みなさんは、路面電車を知っていますか?


「昭和36年(1961年)、気がついて見ると、オリンピック東京大会準備の為ということで、東京の町は俄かに且つ極端にその容貌を変えはじめました。
・・・・・・確かに一部では東京はきれいになりました。そして昔を偲ぶよすがも見当たりません。・・・・・・私は都立日比谷図書館で資料課を預かる立場にあり、毎日そこで管理している東京資料やその他の古い資料をながめているうちに、まだ明治や大正の俤をいくらか残している東京の姿を記録しておいたらと考えるようになりました。(1960年代の東京(路面電車が走る水の都の記憶)池田 信より)
http://showa.mainichi.jp/ikeda1960/2008/05/ik000240.html
(フォトギャラリー参照)

東京都庁職員でいらした、故・池田信氏がとらえた、1960年代の東京。
1961年、というのは、僕が生まれた年で、東京オリンピックは、その3年後、1964年のこと。

 改めて言うまでもないことだけれど、当時の東京と今日の東京の風景で最も違う点は、「首都高速道路」だと思います。1961年にとらえられた赤坂見附の写真(現在の都道府県会館の旧建物とプリンスホテルを臨む)には、現在は通りの頭上を走る高速道路が写っていません。まだ存在していないからです。
代わりに「都電」といわれた、路面電車が走っている。
東京オリンピックのとき、一気に建設された高速道路、モータリゼイションの発展とともに、最初に姿を消した象徴的な風景が、僕の子供時代の原風景(新宿通りを走っていた)となっている、タラタラ走る「路面電車」だったように思います。
そして、路面電車が消滅したころ、東京は爆発的に「お化け容積率の街」に変貌していった、その結果が今日の東京風景であるように、わたくしはとらえています。



 実際に、インターネット上にある、無料で簡便な、「キョリ測」のような計測マップで、いろいろと地図上の距離を測ってみると、東京都心23区、というのは、実際は、大変に狭いエリアであることがわかります。
JR山手線一回りしても、37キロメートルほどしかない。フルマラソンの距離(40キロ)にもとどかない。
地方に行ったら、一戸の地主が持っている農地くらいしかない、と言ってもいいと思います。
中心部である千代田区永田町から青山通りを西に向かえば、わずか4キロで渋谷の駅に、新宿通りを西に向かえば、やはり、わずか4キロちょっとで新宿駅に着きます。しかし、歩いていく人はほとんどいない。
縦横無尽に交通網が張り巡らされているからです。

 その東京からすぐ隣に、わたくしが住んでいる、千葉県があり、その千葉県の佐倉市では、我が家から2番目に近いスーパーのベイシアまで、ちょうど4キロ。車だけでなく、徒歩でいく人も、走っていく人もいますし、たいした距離でもありません。
しかし、永田町から渋谷までの4キロを歩いていく、という人はまずいないのではないでしょうか。実際の距離を知って、「そんなに近いなんて思ってもみなかった」という人が結構います。
上野から新宿まで、実際は、たったの7キロしかないのをご存知でしょうか?

 東京だとなぜか、近くが遠く感じるという錯覚の原因は、狭いエリアにごちゃごちゃと高層ビルが乱立し、取り囲まれていて、先が見通せない街だからではないか、とわたくし、考えています。
東京都心がただの野原だったら、新宿駅から上野駅が見えるはずです。
しかし、田園風景しかなく、ベイシアが3キロ先から目視できる佐倉と現在の東京は全然違う。
「すぐそこ」という感覚に乏しくなっている。そしてまた、「電車で5分」という効率優先の感覚が生活の基準になっている。



 昔、子供のころに乗った、都心を走る路面電車は、時速10キロくらいでタラタラ走る乗り物という印象が強く、4キロでも歩くのが大変な、老人や子供にとっては、まるで歩いているかのような感覚で、風景を見ながら、移動が出来る、面白いツールだったように思います。しかし、そののろさゆえに、ほとんどが姿を消してしまった、ともいえます。
そして、そんな路面電車から見た風景は、青山通りも新宿通りも、現在の様子からは想像もつかない、高層建築がほとんどない、ひなびた街の風景であり、逆にいうと、現在の東京は、わずか40年ほど前からは想像もつかないほどの変貌を遂げた街だ、ということがよくわかるのです。

 そしてまた、もう、ひとつ、極端に変貌したのが「川」です。
東京は江戸時代から、「水の都」でありましたが、現在の東京のどこを見ても、そのような言葉から連想するイメージはないと思います。
昭和30年代を境に、建設省と東京都下水道局の手によって、東京の川は、ほとんどが暗渠化されていくのです。
その政策の本質は、戦後の、化学薬品を垂れ流しているような、生活廃水対策であったのだと聞いていますが、そのせいで、風景の下地が根こそぎ、変貌していくことになりました。
近代化、効率化の名のもとに、様々なものが切り捨てられてきた、それが本当にいいことだったのかどうかは判断が難しい問題です。「あっちをたてればこっちがたたず」というやつでしょう。



 さて、80年代(昭和55年〜平成2年)にはいっても、昭和の最後の10年間は、実はちょっと意外なほどたくさん、昭和初期からの建物、街並みが残っていました。
その後、バブルを経て、街並みは激変していくのです。
もちろん、建物の老朽化、というのが最も重要な要素だったのだと思いますが、どんどん再開発をして不動産の資産価値をあげていけば、誰もがリッチになっていける、と信じられていた時代でもありました。(大間違いでしたけれど。)

 例えば、銀座1丁目には、現在でも、有名な奥野ビル(昭和初期)があり、現代的なビルディング群とは全く趣の違う古い建造物が残っていて、まるで、1930年代あたりのニューヨークが舞台になった映画を見ているような風景が見られます。
しかし、それも奥野ビルを除いてほとんど建て替えられているか、準備中で、やがてどこもかしこも、跡形もなくなって、今風の「ガラスの箱ビル」化してしまうのだろうなあ、と思わせるものがありました。



 また、恵比寿はイメージが激変したことでは、東京一からもしれません。
中学時代の、今は亡き親友が住んでいて、オトナになってからも、よく遊びに行きましたが、現在のオシャレな街のイメージからはほど遠い、旧い看板建築商店街の街だったことを思い出します。
古い商店街のはずれには、古道具(アンティーク、といえばいえなくもない)を扱う、倉庫みたいな店があり、なにか掘り出し物はないかな、と何度も通ったことも懐かしい思い出であります。
恵比寿ガーデンプレイスが出来てから、一度だけ行ったことがあるのですが、まったく、どこがどこやらさっぱりわかないほどの変貌ぶりで、迷子になってしまうところでした。

 新宿も、子供のころから大変になじみが深いところなのですが、最後まで残っていた南口のドヤ街がなくなり、きれいさっぱりタカシマヤになってしまってからは、どこがどこやらさっぱり・・という状態で、わたくしの中では、「もはやここは新宿ではない」ということになってしまっています。



もっと細かく見ていくと、わたくしが、みじかい間とはいえ、昔住んでいたことがある中野区江古田は、1980年代にも、「すげえな、こんなところがまだ残っていたのか・・」と思われるほど強烈な印象の旧都営住宅の木造バラック群が残っていました。
そこは、いわば、山本周五郎の「季節のない街」(黒澤明の「どですかでん」の原作)の舞台そのもののような、摩訶不思議な空間であり、「終戦直後」がまるまるワンブロック、そのまま残っていたのでした。
すぐ近くの「豊島区豊玉中」も同じです。



都心だけではなく、多摩方面も相当変貌しました。国分寺にあった旧郵政省職員住宅は、最後まで残った旧時代の官舎群です。こうした風景は、昭和40年代には、都心にもありました。わたくしが住んでいた麹町〜番町地区にも、官舎がたくさんあったのです。特に、逓信住宅と同じ、郵政省の官舎もあったのですが、緑溢れるその広大な敷地は、この写真の風情と似たようなものでありました。



 実際には、こうした都営や公団住宅、官舎などは、ほとんど住む人もいなくなった空き家であり、東京都も国も、ムダに放置するわけにもいきませんから、なくなって当然、なわけですが、やはり、僕と同じように、懐かしい想いを持つ人もたくさんいて、惜しむ声も多いのだろうな、と思います。
一方、何も変わらない街というのは、見方によっては、元気のない街、ということもできる。歴史上からも、過去を振り返らずにどんどん変貌する街こそが、活気あふれる街だ、ということもできます。
いずれにせよ、「住めば都」という言葉を思い出します。
建物も、街も、すべてはそこに暮らす人のためにある。
それだけは、今も昔も決して変わることはありません。

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