8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.53
                                                                                                                                                                                                                    我が懐かしの昭和6 我が道を往く

 こんにちは。
原稿が出来ないので、おしりの持病が・・・といいわけしていたら、本当に痔が悪化して七転八倒の親父、頑固8鉄です。


さて、引き続き、お送りします、懐かしの昭和シリーズ、「単なるおまえの思い出話じゃねえか!」と批判されつつも、単なる俺の思い出話をしちゃいます。


今日のお話の主人公は、わたくしが住んでいた千代田区麹町にあるプロテスタント教会の牧師でした。
わたくしが、小学校の4、5年くらいまでの話なので、昭和40年代前半の話ですね。


わたくしの家はキリスト教徒だったわけでもなく、どういういきさつか、まったく覚えていないのですが、わたくしは、教会で、彼から英語を教わっていたのです。

親から後日聞いたことですが、家庭教師や塾の類と違い、全く無料で教えてくれていたようです。教材代すらとらなかったし、それもキリスト教関係のものですらありませんでした。布教というわけでもなかった。普通の、アメリカの子供向け書籍だったと記憶しています。近隣の人として、個人としての無償の善意だったのだろうと思います。

裕福な連中は、昭和半ばの当時でも、家庭教師を付けたり、塾にいったりしていましたが、僕らはそうは行きませんでした。
現在ほど、英語教育が重要だ、などとは言われていなかった当時、貧乏人のこどもが英語を習いにいったりするチャンスはあまりなかったのです。
だから、彼はありがたい存在だったはずです。
しかし、一緒に通うことになった僕ら数人の仲間は、よくあるように、所詮、悪ガキの集団に過ぎなかったのです。真面目に学びにいってたのは最初のうちだけ。

とりあえず、教会に行って、勉強を始めても、すぐに飽きて遊びだしたり、挙げ句の果てに牧師さんを馬鹿呼ばわりしだす始末。
彼は、とても寛大で、何をしても、本気で子供に怒ったりしないため、みんな甘くみていることは明らかでした。タダだからと、親もうるさく言ったりしなかったでしょう。そのうち、行くことすら辞めてしまった。

勉強なんて大嫌い、そんなことより野球しよう! というわけで、教会にいったふりをして、実は、公園でキャッチボールをしたり、近所の大使館に忍び込んだり、やりたい放題でした。

そんなある日、僕は母親から「ちゃんと英語習いにいってるの?」と聞かれました。
もうばれているのを察知できたし、嘘をつくのがへたくそなことを自分でよく知っているので、「いいや、さぼって遊んでいるんだ」と答えたんですね。母もめったなことで怒ったりしない人でしたから。

そうしたら、「英語なんかどうでもいい。それより、今日もどこへ行ったのだろうって、牧師さんがとても心配して、あんた達を探し回ったりしていること何とも思わないでいられる?」と言われたのです。

 わたくしは、やりきれないような気になりました。本心では、実はそんなことよくわかっていて、とっくに、毎日やりきれない気分だったんです。

ある冬の寒い日、いつものとおり、みんなで教会に行く途中、違う道を折れて、今日はあっちの公園で遊ぼうなんて誰かが言い出したとき、わたくしは、決心しました。子供ながらに必死で決心したことを憶えています。
そして、「僕は教会に行くよ」と言って、みなと別れました。
予想していたものの、その時の仲間の一言は、子供心にとても辛辣に響いたのをよく覚えています。

「そうか。くそ真面目なやつだな。それなら、もうおまえは、仲間じゃないからな。二度と一緒に遊ばない。」そんなことだったと思います。いろいろ投げつけられたり、なじられたりしましたね。

わたくしは、それでも超然としていられるような人間ではありませんでした。とても悲しかったし、明日から、親しい仲間にそっぽを向かれたまま過ごさなくてはならないと覚悟を決めなくてはならないような、悲痛な気持ちでべそをかきました。

そうして、教会にいったのです。出迎えてくれた牧師さんと過ごしたその日のことは、いつまでも忘れることが出来ません。

「みんなは、やっぱり来ないんだね?」
「はい。」
「君ひとりだけ、来たのか?」
「はい。」
「仲間はずれにされても?」
「はい。」

彼はそこで、にっこり笑いながら、涙を流したのです。
「よくやったぞ。えらい!」

何とも言えない気分でしたね。
そして、その日から、マンツーマンでの、英語の勉強が始まったのでした。

そうして、数年が過ぎた後、彼は突然、神戸市の教会に転任することになりました。最後の授業の日の直前、わたくしは、勇気をだして、当初のメンバーに働きかけをしました。

「最後くらい、みんなでちゃんと出よう」と言ったんです。そして、ちゃんとみんなそろったんです。全員で、最後の授業を受けました。

ひととおり、いつもの通りやると、彼は、最後に「これで、僕の授業はおしまいです。」と言いました。そして、「みんないい子だ。大好きだよ。」と言って、涙を流しました。

それ以来、彼の消息は知りません。僕は、その後、YMCAに移って、英語を続けました。

さて、古い映画に、「我が道を往く」という映画があるのをご存じでしょうか? ビング・クロスビーが牧師の役で出ている名作です。主題歌の「アイルランドの子守歌」が有名ですね。あれを、見るとね、彼のことを思い出すんですよ。

わたくしが、ずば抜けて語学が出来るわけでもないけれど、あまり英語に違和感なく、アメリカ音楽などの趣味に親しんで生活して来れたのは、彼のおかげかもしれません。
それよりも、何より、自分が正しいと信じたことをして、たとえ孤立しても、人の心を大切にしていれば、どこかできっといいことがある。母と彼は、そんなことをはっきりと認識させてくれたのではないかなと思います。

もし、どこかで彼に会えたら、やっぱり「ありがとうございました」と言いたい。
 なんだか、言いそびれたような気がするものですから。


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