8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.34
                                                                                                                                                 
 
   「チャック・ベリー物語」

  「あの、この小包を、着払い、でお願いしたいんですけど・・・。」
「えっ?この小包を、チャック・ベリーに?」

なんて空耳だったりすると、あなたは重症なロック・フリーク!

というわけで、無理矢理な書き出しで始まりました今回の頑固8鉄コーナー。
「ロックン・ロールの別名」とすら言われる、初期の偉大なクリエイター、ブルーベリー あ、間違えた ! チャック・ベリー御大をお送り致します。

 1955年、チェス・レコードからリリースされた1枚のリズム&ブルーズ・レコードは、これまでに例のない、奇妙なサウンドのもので、「これってさ、あーるあんどびー、じゃねえじゃん!これって、かんとりー、じゃね?」と、渋谷系の多くの人が言ったとか言わないとか。
ビル・ヘイリーやエルヴィス・プレスリーなどのレコードが、「これってカントリーじゃなくて、リズム&ブルーズでは?」と言われていたのと逆のことを言われたこのレコードは、チャック・ベリーの「メイベリーン」で、実際、ベリーは、40年代のウエスタン・スイングの王様、ボブ・ウイルスの「アイダ・レッド」という曲を基に作ったのでした。
これが、55年に、R&Bチャートの1位、ポップチャートの5位に躍り出て、「カントリー&ウエスタン」と「リズム&ブルーズ」のミックス音楽、すなわち、「ロックンロール」のスタートに大きな役割を果たしたわけであります。

 1926年、ミズーリ州セントルイス生まれのベリーは、建設業を営む父のもと、6人兄弟の真ん中として生まれ、都会的な中流家庭で育ちました。しかし、1944年、ベリーは、クルマの窃盗容疑で逮捕され、有罪になったあげく、3年間少年院で過ごし、娑婆に出てきたのは、21歳のとき。シャバの空気はウマイのおーって言ったかどうかは知らない。
この事件については、本人は、「とんでもない誤解、誤認逮捕だ。」と後々の自伝でも書いており、真相は今ではわからずじまいなのですが、後々にもちょくちょく出てくる「逮捕歴」を見れば、相当に破天荒な人、であることを示す事実ではあるようです。

47年に出所後、結婚したベリーは、家族を養うために、自動車工場で働いたり、美容師になろうと専門学校に通ってみたり、写真家になろうとこころみてみたり、様々な努力をしていました。一方、10代のころから、趣味でブルーズ・ギターを弾いていたベリーは、少しの収入にでもなれば、と、小さな店のステージに立つようになります。
そして、53年には、地元の人気バンド、ジョニー・ジョンソン・トリオのギタリストを務めるようになり、人気クラブ、コスモポリタン出演と相成って、徐々に名前が売れ始めるのでした。

 このころから、すでにベリーはしたたかなプロフェッショナルであり、クラブの白人客向けにカントリー&ウエスタンやナット・キング・コールなどのポピュラー音楽を演奏することも忘れなかったようです。
そして、また、黒人客向けには、シカゴで名声を博していた、マディ・ウォーターズ流のブルーズ演奏を聴かせる、という多芸ぶり。こうした努力と才能をミックスして、独自のサウンドを創り上げていった結果が、「メイベリーン」だったのです。

 55年、シカゴにいる、マディ・ウォーターズ本人に会いにいったベリーは、ウォーターズに認められてチェスと契約、早速、マディスタイルのブルーズでデビュー、と思っていたのですが、チェスが並々ならぬ関心を示したのは、ベリーの演奏する「カントリー」のほうでした。
その結果、ベリーが改作した旧いカントリーソング、「アイダ・レッド」を「メイベリーン」のタイトルでリリースしてみると、大ヒットを記録。最も初期の「黒人ロックン・ローラー」として、引っ張りだこの人気者になります。

 このころ、ツアーで一緒になり、親友になったのが、白人ロカビリー・スターのカール・パーキンズ。パーキンズの想い出話によれば、ベリーのカントリー演奏は単に商売、というより本当に好きだったようで、実にたくさんのカントリー&ウエスタンソングを空で唄い、演奏できた、ということのようです。
1956年には、「ロール・オーヴァー・ベートーベン」が、ビルボードの29位を記録する大ヒット。57年には、エヴァリー・ブラザース、バディ・ホリーなどと全米ツアーに出たり、お馴染みのナンバー、「ジョニー・B・グッド」、「スクール・デイズ」、「ロックンロール・ミュージック」、「スイート・リトル・シクスティーン」などなど、59年まで、続々とヒットを出し続けます。
また、1956年「ロック・ロック、ロック」、1959年「ゴー・ジョニー・ゴー」と2本のハリウッド映画にもしっかりと顔を出し、50年代を代表するアーティストとなっていきました。

 しかし、ここでも、また、というべきか、1959年は「ロックンロール魔の年」でありまして、ベリーは、逮捕、有罪でムショ行きということになってしまうのです。
この事件は、メキシコの未成年者の女性を、セントルイスの自分の店で、売春目的で働かせた、という罪で、最後までベリー側は無罪を主張(未成年だとは知らなかった)としており、ずいぶんと怪しげな公判でもあったようなのですが、これも今となっては、真実は闇の中であります。
同年、ベリーの後援者であったDJ、アラン・フリードのペイオラ疑獄事件といい、ベリーのマン法違反事件といい、やけにタイミングよく、ロック音楽弾圧の動きとリンクして摘発がされていて、なにやら政治的な策略があったのではないか、という見方もあるようです。1959年はバディ・ホリーが事故死したり、エルヴィスが徴兵にとられたり・・とロック音楽にとって暗黒の年でありました。

 しかし、63年に出所したベリーを待っていたのは、うらさびしい前科者の末路・・・なんかではありませんでした。それどころか、いつの間にかベリーは新しい時代のヒーローになっており、本人もびっくり仰天トコロテンです!!
当時、ブリティッシュ・ロック・ブームが大爆発をしていたのですが、なかでもその立役者だったビートルズ、ローリング・ストーンズは、チャック・ベリーをアイドルと言いますか大先生にしていました。レコードでもライブでも、ベリーのカヴァーだらけ、という状態だったのです。
さらに、USA側でも、ビーチ・ボーイズが、ベリーの「スイート・リトル・シクスティーン」を改作した「サーフィン・USA」を大ヒットさせていました。

 こうしてしたたかに生き残ったホンモノのロック・アーティスト、チャック・ベリーですが、契約したマーキュリー・レコードとウマが合わなかったのか、レコードのほうがさっぱりで、ヒットはなし。しかし、ライブアーティストとしては、たいへんな人気で、60年代後半の時代に、錚々たる新しいロック時代のスターたちと肩を並べて活躍した50年代ロッカーはベリーをはじめとしたごく一部のアーティストのみでありました。

1972年、古巣のチェスに舞い戻ったベリーは、「マイ・ディンガリン」、50年代の自作のリメイク「リーリン&ロッキン」のライブ録音版などが、大ヒットし、単なるリヴァイヴァルではなく、現役第一線のアーティストとして、返り咲きました。
しかし、70年代は、レコーディング・アーティストとしてでなく、ほとんどを、世界中をツアーで廻る、ライブ・パーフォーマーとして過ごします。それほど、観客を熱狂のルツボに落とす、素晴らしいベリーのステージは伝説的になっていたのでした。
それらは、1972年の「ロンドン・ロックンロール・ショー」や、74年の「レット・ザ・グッド・タイムズ・ロール」といった記録映画にも収められ、今日でも、当時のずば抜けたステージアクトを観ることが出来ます。

 ちなみに、1981年には、我が国のパルコ百貨店のCMにダック・ウォークしながら出演し、人気爆発。同年には初来日公演を行っています。(このときは、私、頑固8鉄も最前列で観ました。)
1986年には、ベリーの60歳の誕生日記念として、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズが主宰するコンサートが企画され、これは、記録映画「ヘイル!ヘイル!ロックンロール」として撮影されました。
80年代の終わりには、ベリーはレストラン経営、ベリーパークと名付けた公園の経営者にもなります。
しかし、まだまだ、引退などする間もなく、音楽活動も続けており、82歳になる今日でも現役でステージに立っているチャック・ベリー。
単に大御所、というだけでなく、最も初期のロック音楽の創始者として、まだまだ元気な姿を見ることが出来るのは、ファンのひとりとしては、うれしい限りです。

歴史的に最も評価の高いロック・アーティスト、ギタリスト、ソングライター・・・・もはや、ここで逐一取り上げてもキリがないくらいの様々な受賞歴がありますが、そんなことより、やはりここは、ジョニー・B・グッドでも聴きつつ、一緒にシャウトしてしまうのが正しいでしょう!
チャック・ベリーは、今日でも、まさに理屈抜きで、「ミスター・ロックンロール」なのです。

 もはや完全ノックアウチもののTHE KINGの新作のコンビシューズに足をすべらせたら、

 さぁー皆様 ご一緒に、「ゴージョニーゴーゴー!!」


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