8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.33
                                                                                                                                                 
「ビル・ヘイリーズ・コメッツ物語」

 みなさん、お久しぶり大根!
頑固8鉄でございます!

今回は、長年ファンなもので、以前に書いたコラム「ビル・ヘイリー物語」の番外編として、「彼のコメッツ」のメンバーたちについて書いてみます。
といっても、長い歴史を誇る、コメッツ。歴代在籍していた人達を列記しただけで百人以上になるので、ここでは、ほんの一握りの重要なメンツに限ってカンタンに触れるだけにします。

●1940〜50年代

「ビル・ヘイリーと彼のコメッツ」というバンド名の通り、コメッツはヘイリーの雇われバンドではありますが、初期にはそういうわけではありませんでした。
コメッツは前身を「サドルメン」といい、1940年代後半の小さなウエスタン・スイング・バンドだったのです。
北部のフィラデルフィアがホームグラウンドということもあり、南部のホンモノのいなかっぺバンドに比べると比較的ソフィスティケートされた感じがあるような気がします。歌い方もヤンキー発音でスムーズだし。
この当時は、当然、専業のミュージシャンというわけでなく、有志で作ったようなところがあり、中心はヘイリー、ビリー・ウイリアムソン(スティール・ギター)、ジョニー・グランデ(アコーディオン)の3人でした。

 1.ジョニー・グランデ →
当時のコメッツの中では群を抜いた色男で、女の子たちが一番きゃあきゃあ騒いだ人なんですが、実は初期コメッツの最重要人物。というのは、アレンジャーだったからです。ロック創世記に、そのサウンド、編曲構成に多大な貢献をしたわけ。なぜ、アレンジャーだったのかというと、彼だけ正規の音楽教育を受けていて、譜面を読み書き出来たからだといいます。1960年代に入り、コメッツがメキシコで活動するようになってから、辞めて、カリフォルニアでレストランを開業、オーナーとして引退していましたが、現在、後述するコメッツリユニオンバンドに入り、現役のプロフェッショナルに返り咲きました。しかし、2006年、他界。

 2.ビリー・ウイリアムソン
もう一人の重要人物は、スティールギター奏者だったこの人。こちらはコメディアクトが似合う好人物。「ウイーン!」「キュキューン!」といった効果音的なバッキングで知られる人ですが、デッカ移籍前のエセックス時代まで、実に立派でファンキーなソロをフューチャーしていました。ラップスティールなので、有名なペダル・スティール奏者のスピーディ・ウエストのような目もくらむような電撃ソロというわけにはいかないけれど、ギミックに富んだ想像力あふれる演奏です。それに時々フィーチャーされる優秀な歌手でもありました。
この人の隠れたもうひとつの重要な役割は、「アイデアマン」だったことです。そう、あの過激で有名なコメッツのステージアクションや、田舎臭いヴォードヴィル風のコメディアクトなどの企画で才能を発揮した人。ロック音楽の熱狂的なステージの原型を作った一人だったわけです。この人もジョニーと同じ時期にコメッツを辞め、フィラデルフィアに帰りましたが、その後スティールを弾くことも、人前で唄を唄うことも、一切しなかったといいます。1996年に他界。

 

 3.マーシャル・ライトル、ジョーイ・ダンブロージオ、ディック・リチャーズ(ジョディマーズ)
この3人組→は、雇われ組で、それぞれ、ダブル・ベイス、サックス、ドラムズを担当していました。
ベイスは、マーシャルの前がアル・レクスでしたが、この人は後で出戻りすることになります。サックスのジョーイは、当時まだ10代の若いミュージシャンで、R&B界の大物ビッグ・ジョウ・ターナーから「最も白い黒人サックス奏者」(実際は白人)と賛辞を送られていた若手のホープ。マーシャルは、まだ10代のセミプロ・ギタリストでしたが、ヘイリーからスラップ・ベイスのテクニックを教わったそうです。ドラムズのディックは、ライブ専用のメンバーで、なぜか主要なスタジオ録音はすべて、プロのセッションマン、ビリー・ゲサックの手になります。当時の録音技術では、ドラムズは音量の関係で録るのが極めて難しかったので、その専門家を必要としたのかもしれません。

この3人は、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のセッション(LPにまとめられた歴史的名盤)まで参加し、その直後にコメッツを辞めて自身のグループ「ジョディマーズ」を結成しました。まあ、コメッツそっくりのバンドですが。バンド名は、それぞれの名前の最初の部分をとって名付けたそうで、意味はありません。しかしながら、たいしたヒットは出ないまま、本家コメッツの人気の落ち目と轍を一にして、ラスベガスの余興バンドになってしまい、とうとうゴリラの着ぐるみを着せられるところまでいって、解散を決断したそうです。その後、それぞれ、ショウビズの世界から他の仕事へ移って行きました。

マーシャルはカリフォルニアで不動産業を始め大成功を収めます。業界の講師、コンサルなども歴任した後、裕福な家庭人として、フロリダで引退生活を送っていました。ジョーイは、ラスベガスに留まり、サックス奏者のプロとして機会あるごとにステージに出ていましたが、ホテルのカジノディーラーのボスになりました。ディックはもともとの本業である高校の体育教師の仕事を続けながら、演劇の勉強をし、ハリウッドのバイプレイヤーとして様々な映画の悪役・脇役を務めます(こちらでは本名のディック・ボッセリで知られています)。現在でも、渋いベテラン脇役としてTVドラマなどに出ている一方、昨年には、フィラデルフィアのスポーツ殿堂入りするなど、多芸ぶりを発揮しています。
さて、この3人がなぜ重要なのかというと、歴史的名盤の器楽奏者本人であることもありますが、後にコメッツ・リユニオンの発起人になったからです。これについては、後に述べます。



 4.← ダニー・セドローン
コメッツのギターというと、ちょっと詳しい人ならほとんどフラニー・ビーチャー(後述)を連想しますが、「ロック・アラウンド・ザ・クロック・セッション」までは、この人がギタリストでした。あの有名なロック・アラウンド〜のギターソロを弾いている人です。
実は、この人は、正規のメンバーではありません。ヘイリーたちよりも一世代上のベテラン・セッションマンです。コメッツにリードギタリストはいなかったんですね。ジャズ畑の人ですが、極めて個性的なスタイルの持ち主で、32分音符で埋め尽くされた強烈な早弾きで知られる人です。あまり情感豊かというものではありませんが、ギミックたっぷりのコメッツサウンドには打ってつけでした。あのソロは、すでに1952年の「ロック・ザ・ジョイント」でそっくり同じことをしていますので、相当早くからコメッツ器楽演奏の核でありました。残念ながら、1955年のセッション直後、事故で急死。その後がまとして加入したのが、フラニーです。




 5.フランク・"フラニー"・ビーチャー →
1950年代当時のコメッツの演奏を見たり聴いたりして、後にプレイヤーとなり、そのうちに名を成していったビートルズなど第二世代以降のロックミュージシャンのほとんどが一番注視していたのが、この人だったはずです。セドローン亡き後、コメッツのリード・ギタリストとして、表看板を張っており、初期ロックギタリストのお手本のひとりとなりました。
この人、加入した時点ですでに、ヘイリー本人よりも先輩で、栄光ある経歴のある第一級のプロフェッショナル。1940年代から、ベニー・グッドマン・セクステット、バディ・グレコのバンドなどを歴任したスイング・ジャズ・ギタリストです。本人も述懐しているとおり、「別に正式なメンバーになるつもりなんかなかった。いつものようにどこかのバンドのレコーディング・セッションの仕事だと思って職人として仕事した。」ところが、いくら優秀でも喰えない商売のジャズと違い、世界一売れっ子のロックバンドになってしまったコメッツですから、ギャラがケタ違い。
「正規メンバーになって欲しいとヘイリーから依頼があった。俺はジャズマンだから、こんな単純なダンスバンドはいやだと言ったんだが、ギャラを聞いて気が変わったよ。リンカーン・コンチネンタルを2台分、キャッシュで買えた器楽奏者は、当時俺だけだったと思う。」というわけで、その後、コメッツが本格的に落ち目になる1960年代初頭まで、この人の流麗でジャジーでありながらロックするリードギターは、コメッツサウンドの核となっていったのです。コメッツがメキシコに移ってから、ジョニー、ビリーとともに抜けて、地元のフィラデルフィアへ帰り、ジャズマンとして小さなバーなどで演奏する生活に戻りました。



 ← 6.アル・レクス
アルは、ベーシストで、もともとサドルメン時代はこの人がベースを弾いていたことは前述しました。マーシャルがジョディマーズとして抜けたので、この人が出戻りでベーシストに再度就任。黄金期のコメッツサウンドの土台を守りました。しかしながら、ヘイリーとなかなかうまくいかず(インタビューには「あのクソ野郎めが……」というせりふが頻繁に出てくる)、1958年には再び抜けて自身のバンドでのセミプロ活動に戻りました。現在でも、カリフォルニアで健在です。

7.ラルフ・ジョーンズ
ラルフは、ディックの後に加入したドラマーですが、フィラデルフィアのベテランジャズマンで、1955年以降はレコーディングでもライブでもすべてこの人がドラムをたたいてます。後述するサックスのルーディ・ポンペリのジャズコンボのドラマーでもあり、相棒とそろってコメッツに参加しました。にこやかな笑顔が印象的なオヤジさんという感じの人物。「最も皆に愛されたコメッツ」といわれるとおり、おだやかな人だったようです。「あのワイルド・バンチの中では私は一番のジェントルマンだったよ。」と述懐しています。彼もフラニーやジョニーと一緒に脱退し、地元で牛乳配達をしながら、ジャズコンボでドラムをたたく元の生活に戻りました。79才で他界。


 8.ルーディ・ポンペリ     「ビル・ヘイリーとルーディ・ポンペリ」
 この人は非常に印象的な元祖ロックサックス奏者だったというだけでなく、30年近いサドルメン〜コメッツの歴史の中で最も重要な人物。ミック・ジャガーに対するキース・リチャーズのような存在です。加入は大ヒットで有名になった後、ジョーイの後がまとして1955年からの参加になりますが、自身が亡くなる1976年までコメッツを率いて、ビル・ヘイリーを表看板にしたコメッツの、実質的なバンドリーダーを務めました。1955年以降、不動のメンバーだったのは、この人だけです。
先の「ビル・ヘイリー物語」にも書いたのであまり詳しくは触れませんが、もともと1940年代にダウンビートのジャズ新人賞をとり、一流のビッグバンドで活躍していたジャズサックス奏者だった人です。ロック・インスト・クラシックのひとつ「ルーディズ・ロック」を大ヒットさせもしました。コメッツのショウでもルーディズ・ロックは最大の見せ場でした。
死の直前まで独身で、その生涯をサックスとコメッツに捧げたといっていいでしょう。大変に真面目で、人情家だったそうで、重度のアルコール中毒から抜けられず、どうしようもないていたらくになってしまった晩年のヘイリーをかいがいしく面倒見続けたことでも有名です。いい人は早死にするといいますが、52才で他界。

●1960年代

この時期は、ルーディ以外、今まで出てきた人達が全員いなくなった後、すなわちメキシコのドサ回り時代から1968年ごろからのロックンロールリバイバルの波に乗って、再び一級のバンドとして返り咲く時期です。



1.アル・ラッパ →
ラッパは、アル・レクス(その後一時期ルーディの兄弟アル・ポンペリが臨時でベイス担当)の後、1958年頃からベーシストとして参加しました。名前のとおり、元来トランペット奏者で、たまにコメッツのステージでは吹いていたようです。当初はダブルベイスでしたが、1960年代からは、狭苦しい場末のバーで演奏し出したせいか、エレクトリック・ベイスになっています。
実は、現在、コメッツを名乗るバンドは3つあります。今日、有名なオリジナルコメッツ(先のメンバーによるリユニオン)、アル・ラッパのビル・ヘイリーズ・コメッツ、もうひとつは1963〜68年にドラマーを務めたジョン"バンバン"レインのコメッツです。 (レインは2006年に他界。)
オリジナルコメッツの完全復刻版的見事さと比べると、ラッパやレインのコメッツは、しょうもないバーバンドのようにきこえますし、知名度から言っても圧倒的にマイナーですが、ラッパはヘイリーから正式に名前の使用権をもらったといって、オリジナルコメッツの連中を相手に訴訟を起こしました。でも、ラッパの気持ちもわかります。なにしろ、他のメンバーは、コメッツが落ち目になってほぼ全員やめてしまったのに、ラッパはちょうどドツボの時期のバンドをルーディとともに支えてきた人物ですから。イギリスの活動が中心になるリバイバルブームの頃に脱退。



2.← ニック・ナストス(マスターズ)
ナストスは、フラニーの後、1974年頃までギタリストを務めました。もともとはフィラデルフィアのカントリー・スティール・ギター奏者で、1950年代には"ブルドッギン・ザ・スティール"など自己のレコーディングも残しています。ダブル・ネック・ギターを駆使したそのプレイは、非常にトリッキーで、聞いただけではどうやって弾いているのかわからないようなギミックが満載です。 1995年に他界。

●1970年代

1976年に屋台骨のルーディが亡くなり、1981年にヘイリー本人が亡くなるまでの時期。

上記の人たちが、イギリス中心の活動に無理があったためか脱退した後は、それこそ日雇いのよにつぎつぎメンバーが入れ替わります。コメッツ=ルーディという感じでした。そのルーディが1976年に亡くなってからは、誰かがお膳立てしてその場限りで集めたセッションメンの集まりのようになってしまったといっていいでしょう。

そして、1981年をもって、ヘイリーの人生と共にコメッツの歴史にも終止符が打たれました。


  「オリジナル・コメッツ(リユニオン)」 →

ところが、リーダー抜きのリユニオンの話はどこにでもあるもの、コメッツも1990年代半ばになって復活しました。
いいだしっぺは、1955年にさっさと辞めてしまったジョディマーズの3人組。
ここは、すでに1980年代にリユニオンしていましたが、なにしろコメッツの分派のようなものですから、当時の他のメンバーで元気な人達に声をかけた。その結果、フラニー・ビーチャーとジョニー・グランデの2人が合流することになりました。
さらに、ロックンロールの物真似大王、ジャコ・ブディン(イギリス人)を加え、この人がヘイリーそっくりのヴォーカルをフィーチャー。まあ、ホントは物真似芸人ではなくて、イギリスの古参バンド、スターゲイザーズのメンバー。
といってもゲイザーズ自体がコメッツのまるコピーバンドなんですが。
2006年にジョニー・グランデが他界、最年長であるフラニーが、2007年に引退しましたが、残りのメンバー(ジョディマーズの3人)は、現在も、もう80歳前後とは思えない精力的な活動を続けています。



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