8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.29
                                                                                                                                 
 
   ファーザー・オブ・ブルーグラス・ミュージック ― ビル・モンロウ


 モンロウさん、といえば、「マリリン!」と応えるのがごく一般的じゃないか、と思うのですが、中には、「ビル!」って応えるヘンなおじさんがいたりするから、世の中不思議です。
かくいうわたくし、頑固8鉄も、若いころ、3年間ブルーグラス・バンドの一員として活動した時期があるのですが、そのころは、廻りが全員、「ビル・モンロウ」を神様のように思っていました。

そもそも、ブルーグラスって何?という方は、ごく普通ですから、気にしないように!
そんなこと知らなくても、世間で生きていくのに何の差し障りもありませんし、ヘタに知っている方が危険です!
ま、それでは、話が終わってしまうので、簡単に言いますと、ケンタッキー州の別名「ブルーグラス・ステイト」に由来した「ビル・モンロウ&ヒズ・ブルーグラス・ボーイズ」が有名にしたカントリー&ウエスタン音楽の演奏スタイルのひとつ。元々が、ものすごくローカルな代物ですが、40年代から50年代、全米で人気となり、60年代には、フォーク音楽リバイバルの波にのって世界中に広まりました。
本国でも未だにさかんですし、現在の我が国でも、多くのファンがおり、演奏者も全国にたくさんいます。
さらに、ブルーグラス音楽は、黒人のブルーズ音楽とともに、初期のロカビリーに大きな影響を与えた、「ルーツ・オブ・ロックンロール」のひとつと言われているのです。
特に、ロックファンに有名な曲は、「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」。1954年、エルヴィス・プレスリーのデビューシングルのB面だった曲ですが、作ったのも、オリジナル盤吹き込みも、ビル・モンロウ。
そのモンロウは、「ブルーグラス音楽の父」と言われる音楽家なのです。



ビル・モンロウこと、ウイリアム・スミス・モンロウは、1911年、ケンタッキー州ロジーンの農家で、8人兄弟の末っ子として生まれました。
母と叔父は、音楽に長けており、子供達も家で音楽を演奏するのが趣味でした。
ビルの兄には、後にミュージシャンとして有名になるバーチ(フィドル)とチャーリー(ギター)がいたため、末っ子のビルは、当時のマウンテン音楽で活躍する場が少なかったマンドリンしかやる余地がなかったといいます。

「いいな!あんちゃんは!おらっちもギターさ弾いて唄っこ唄いてなぁー。」
「うんにゃ、おまえにゃまだはええ。でっかくなるまで、そこさある、ちっこいの弾いてろ。」

と、なぜか東北弁でしゃべるモンロウさんちですが、復弦4コース、合計8本あるマンドリンの弦も、音を小さくするために、4本しか張ってもらえませんでした。
しかし、後々、彼は、この担当楽器の特性をフルに活かし、ブルーグラス音楽を創造していくことになるのです。

モンロウの母は、ビルが10歳のときに亡くなり、その6年後に父も後を追うように、亡くなってしまいます。そして、モンロウは、叔父さんの元で2年間生活することになりました。
このペン・ヴァンデヴァーという叔父さん、フィドルの名手で、地元のバーンダンス(カントリーダンス)の常連だった。モンロウは、この時の叔父の想い出を、1950年に「アンクル・ペン」という唄にしましたが、これは、今日ではブルーグラス・ファン、演奏家では知らぬ者のいないクラシックになっています。このペン叔父さんから様々な影響を受けたのと同時期、アーノルド・シュルツという黒人ミュージシャンからブルーズも教わりました。この人の影響で、モンロウは、マンドリンで、黒人のブルーズ音楽を演奏するやり方を発展させていくことになります。
後々、ロカビリーを生み出す土台のひとつとなった、ブルーグラス音楽はこのころすでに黒人音楽の大きな影響を受けていたわけです。



 1929年、モンロウは、工場で働いて生計を立てていくため、兄のバーチ、チャーリーとともに、インディアナに移住。ここで、「モンロウ・ブラザース」を結成し、地元のダンス大会やハウス・パーティで活動を始めます。やがて、バーチが辞めてチャーリーとデュオとなったビルは、ラジオショウに進出、インディアナのラジオだけでなく、テキサス、アイオワ、ネブラスカ、カリフォルニアと範囲を広げていきました。1936年、とうとうRCAビクターがモンロウ・ブラザースと契約、36年から38年にかけて60曲を吹き込むのです。
そして、1938年にモンロウ・ブラザースが解散した後、ビルはいくつかのバンドを経て、最初のブルーグラス・ボーイズを結成します。翌年には、ジミー・ロジャースのクラシック、「ミュール・スキナー・ブルーズ」でもって、グランド・オール・オープリー入りを果たしました。

さて、このころから、ブルーグラスを最も特徴づけている、素早く、ドライブのかかった卓越した器楽演奏は見られましたが、1946年までは、フィドルが中心であり、今日のブルーグラスで、器楽演奏の最も中心となるバンジョーはまだあまり出番がなく、奏法自体も素朴なものでした。(バンジョーは、デヴィッド"ストリングビーン"エイクマン。)バンド・サウンド自体は、モンロウが子供の時から親しんだ、旧来のマウンテン・ストリング・バンドミュージックと現代的なブルーグラスサウンドの中間のようなものだったのです。
しかし、1945年にブルーグラス・ボーイズに加入したバンジョー奏者、アール・スクラグスが全てを変えるほどの大変革を成し遂げます。スクラグスは、今日「スクラグス・ロール」として有名な、今日のブルーグラス器楽演奏の要となっている、スリー・フィンガーのバンジョー奏法を考案したのでした。

「な、なんだよ??あの音はよ??バンジョーの音なのにオルゴールみてえじゃんかよ!!半端ねえええ!チョーすげくね?」

となぜか急に渋谷系になったオープリーの観客達。これがもとで、ビル・モンロウとブルーグラス・ボーイズは大センセイションを巻き起こすのでした。
そのときのブルーグラス・ボーイズには、リーダーであるモンロウ、スクラグスの他、後にフラット&スクラグスとして大ヒットを飛ばしてスター歌手となるレスター・フラット(ボーカル&ギター)、チャビー・ワイズ(フィドル)、ハワード・ワッツ(または、セドリック・レインウォーター。ベース)がいました。彼らは、最も完成されたブルーグラス・バンドであったため、「オリジナル・ブルーグラス・バンド」と呼ばれています。



 そして、フィドル、マンドリン、バンジョーの複雑でジャズ的なアドリブの間奏(ブルーグラスでは「ブレイク」と言います)、卓越したハーモニー歌唱、マンドリンのコード・カットと時折スラップするベース、その合間を縫っていくギターのベースランによるドライブのかかったリズムなど、このバンドの創り上げたフォーマットとスタイルは、ブルーグラス音楽のエッセンスすべての基礎となりました。

1946年から47年にかけて、コロンビアレコードで、今日ではブルーグラスの古典として広く認められている「モリー・アンド・テンブルックス」、「リトル・キャビン・ホーム・オン・ザ・ヒル」、「ミュール・スキナー・ブルーズ」など、28曲の自作曲を吹きこんだモンロウ。この中には、後にエルヴィスがカヴァーし、ロカビリーに直接的な影響を与えた「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」も含まれていました。
これは、もともとは、ゆったりしたワルツのリズムによる曲ですが、エルヴィス盤が出た後、モンロウ自身によって、もっとテンポの速いロカビリーっぽいヴァージョンが吹き込まれてもいます。

1948年には、要であったレスター・フラットとアール・スクラグスが脱退、フラット&スクラグス&フォギー・マウンテン・ボーイズを結成。彼らは、「フォギー・マウンテン・ブレイクダウン」、「キャビン・オン・ザ・ヒル」などの古典曲のほか、50年代テレビシリーズ「じゃじゃ馬億万長者」の主題歌「バラッド・オブ・ジェド・クランペット」で、コマーシャルな分野で商業的にも成功しました。
一方、オリジナルであるモンロウのブルーグラス・ボーイズは、彼らの代わりにジミー・マーティン(後にカントリー・シンガーとして有名になるギタリスト)、ルディ・ライル(バンジョー)、ヴァッサー・クレメンツ(フィドル)をはじめ、多くのミュージシャンが入れ替わり立ち替わりメンバーを勤めるようになります。
しかしながら、50年代後半は、必ず「ウェーーール・・」って歌い出さないといけない、ロカビリーブーム、さらに、チェット・アトキンズを中心に、エレクトリックギターを用いた新しいカントリー、「ナッシュヴィル・サウンド」の全盛期に入っていき、純粋にアコースティックな弦楽器だけで演奏するブルーグラス音楽はどんどん下火になっていきました。



 しかし、60年代に入ると、再びブルーグラス音楽は注目を集めるようになります。フォーク・リバイバルが静かなブームとなっていくのです。
中心は主に大学生で、フラット&スクラグス、スタンリー・ブラザース、レノ&スマイリー、ジム&ジェシー、オズボーン・ブラザースなど、古くから活動しているブルーグラス・バンドが再びウケるようになった。そして、ここで初めて、ビル・モンロウはこのジャンルの元祖であることがはっきりと評価され、大学のキャンパスを中心に、そのブームの真ん中に引き出されたのでした。
また、このころから、ケンタッキーの山の中だけではなく、都会をはじめ全国からブルーグラス・ミュージシャンを目指す若い器楽奏者がたくさん現れだし、ビル・モンロウのブルーグラス・ボーイズは彼らの登龍門のような存在になっていきました。

 その後もモンロウは、エミルー・ハリスといったカントリーの人気スターたちとともに、アルバムを吹き込んだり、多くのミュージシャンからブルーグラスの父として、尊敬と敬愛を受けてきましたが、1996年脳卒中で死去。

モンロウは、1970年、その功績が称えられて、カントリー音楽の殿堂、71年にナッシュヴィルソングライターの殿堂、91年にはブルーグラスの殿堂入り。そして、死後の97年には、初期のロックに多大な影響を与えたことから、ロックンロールの殿堂入りも果たしました。この3つを制覇したのは、ジミー・ロジャース、ハンク・ウイリアムズ、ボブ・ウイルス、ジョニー・キャッシュとモンロウに5人だけです。
93年にはグラミーのライフタイム賞も受賞しています。



モンロウの音楽上の功績というのは、ひとつの音楽スタイルそのものを確立したことですが、一方で、フェスティバル(有名なビーン・ブロッサム)を主宰し、活躍の場を提供し、自分のバンドでたくさんの志ある若い音楽家を受け入れることによって、歴史に残る、多くの優れたミュージシャンたちを育て上げるという、カントリー音楽界における父のような存在でもありました。
ブルーグラス・ボーイズ出身のスターは、ヴォーカル&ギターでは、レスター・フラット、マック・ワイズマン、カーター・スタンリーなど、バンジョーでは、アール・スクラグスをはじめ、ドン・レノ、ソニー・オズボーン、フィドルでは、チャビー・ワイズ、バイロン・バーラインなど、数え上げれば切りがありません。
ブルーグラス音楽を、創造し、支えてきたほとんどのミュージシャンがモンロウの恩義を受けているといってもいい。そして、彼らの創り出した演奏スタイルと曲は、世界中のファンから今でも愛され続けているのです。

ブルーグラス音楽の創始者、ビル・モンロウも、当初は「民謡を演奏する片田舎のおじさん」くらいにしか考えられていませんでした。彼が多くの人に認められ、求められていった過程では、彼を慕ってやってくる多くのミュージシャンたちとの交流、若手の育成といったことがとても重要な要素だったのではないでしょうか。



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