8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.283


OSHIGOTO短編小説 東雲編 その1 クネクネ支社長



「えーっ、そんな、冷たい。冷たいわあ。」
村岡支社長は、芝居臭く腰をクネクネさせた。

わたしは、ほんの1か月で東雲のバイトを抜けて、
次の派遣仕事に移ることにしたのだ。
申し訳ありませんが、先にお伝えしてあったとおり、抜けます、と伝えると、
はじめから承知のこととはいえ、一応、
クネクネしてみせるだけの面白みと余裕がある村岡さんは、50歳くらいの美女である。

令和コンプライアンス時代はなんでもかんでも物事を難しくする。
美女などというと、セクハラになるのだろう。
しかし、わたしは昭和のおやじで、おまけに、村岡さん自身、
堅苦しさを嫌う昭和ノリである。
誰が何と言おうと、村岡支社長は美女なのだ。

といっても、実は、村岡さんがマスクを外した素顔を、
わたしは一度も見たことがなかった。

村岡さんと初めて出会ったのは、その丁度1年前の夏のことで、
千葉市の財団法人仕事を辞めて、次の仕事が見つからず焦っていたときである。

インターネットで見つけた「シニア歓迎の簡単バイト!
画像チェック」というのに応募したところ、さっそく面接のお誘いがあり、
出向いたのは、東京臨海の東雲地区にある大きなオフィスビルであった。

出迎えてくれたのは、小柄な中年の女性で、気さくな感じ、
しかし、上品さが自然とにじみ出てくるような物腰の人である。
どうも、単なる面接官ではなくて、東京支社長のようだ。

広いフロアにずらりとならんだロッカーとデスクの片隅で、
わたしと村岡さんはふたりで向かいあった。

「では、これをやってみて。」

ひとしきり、通り一遍の面接が終わった後、文庫本を渡された。
「50ページまでに右上の隅に〇が書いてあるのね。
いくつあるか教えてくれるかしら。」

ほんの10秒ほどで答えると、馬鹿に手際がいいのね、
と感心する村岡さん。

佐倉からだとどうやってくるの、どれくらい時間がかかるの、
と通勤経路と時間を気にする。

そんなに遠くから、こんな安いアルバイトに通うことできますか、と尋ねられた。
長年東京まで通い続けた経験があるのだから、なんとかします、
と答えると、そりゃあ、高いお給料をもらっていたら
通う気にもなるだろうけどねえ、と合点がいかない顔をした。

それでは、合否はこちらから連絡します、
と言われ、その後、待つこと1週間、採用通知がメールで送られてきた。

このアルバイト、半年ほどなのだが、国の請負仕事なので、
年の前半は休み、後半になるとまた次の期が始まるという。
スタッフは出来が良ければ、次には会社からお誘いするとのことであった。
何年にも渡るプロジェクトで、時給が安いとはいえ、長期というのはありがたい。

元プラモデル少年、絵を描くのが好きだったわたしは、
黙々と、ひとりで細かい作業をするのが得意である。
こうした、モノ相手の作業系は、個人情報を記した書類1通の向こうに
特定の人間がいるヒト相手の作業系よりもずっと気楽である。
モノは決して文句を言わないからだ。

その代わり、モノ相手の仕事は、
ほとんどがヒト相手より単価が安い傾向があるようだ。

この会社が請け負っていたのは、書物の検品で、
少し慣れれば誰でもできる、しかし、
効率よく一定のスピードでこなすには、多少の熟練がいる、というたぐいの仕事であった。

昭和ノリ、しかも、関西系のノリの村岡さんは、大阪に本社がある会社の
経営陣のひとりである。しかも、雇われ人ではなくて、創業者一族の一員だから、
役員、しかも、中枢のひとりなのだ。中小企業とはいえ、
昭和の時代から続く古参のIT企業の役員なのだから、その責務も能力も、
そして財力も大きなもののはずである。
しかし、村岡さんは、あくまで普通の主婦らしい、
そして軽めの関西ノリを崩さなかった。
パートタイムの主婦が多い中では、意図的にそういう面を強く出していたのかもしれない。

とはいえ、そこはやはり、どこか育ちの良さ、
お嬢様っぽさが顔を出す。

業務上のミスが起きると、村岡さんはソフトな口調の中にも厳しい一面をのぞかせた。
それは、従業員を叱咤するというよりも、自分自身に対しても厳しい、
教育熱心な一族に育てられたことを物語る一面であった。

村岡さんは、決して自分を語ることはしなかった。
彼女が皆の前で話すのは、すべて業務上のことである。
オフのときの村岡さんを知る者はバイト仲間にはいなかった。

ランチタイムでさえ、村岡さんはすぐ隣にあるマンションの
一室に引き上げてしまうからだ。そこは会社の社宅代わりになっているようだった。

多くの雇われSVと違って、進捗管理、人事管理に抜かりなく、
常に真剣勝負の村岡支社長は、手厳しい人だという評判と、
優しい同僚だという評判の双方が同居していた。
その両面があってこその経営者だという点は、誰も指摘しない。
そのあたりは、あまり働いたことのない、
豊洲のタワマン住まいのパートタイム主婦が中心の職場らしいところだ。

それにしても、村岡さんは、色っぽい。
セクハラなどではない。それは、本当は育ちがいいけれど、
ギャルっぽいサブカルチャーで育った昭和のお嬢様らしいものだった。

「またいつでも来てくださいね。しっかり働いてくれるならね。」

マスク越しに色っぽい目で言われるとなんだか、また来たくなる。
でも、言いたいことは、しっかり働いてくれるなら雇ってあげてもいいわ、のほうだ。

こうしたことというのは、どんな鮮やかな弁舌より効果がある。
主婦の共感を得る生活感、おじさんの心をとらえる眼差しといったたぐいのものだ。

IT企業にもかかわらず、コンプライアンス令和時代にはあまり見られなくなってしまった、
昭和っぽい経営術は、古さと最先端が同居する東雲、豊洲の街に合っているような感じがした。

結局、その年も、わたしは別の仕事を得て、途中抜けした。
そのとき、村岡さんは本社に戻っていて、不在であった。
代わりを務めていた会社の人は、もっと通り一遍の、今時の管理職だったが、
村岡さんは見かけによらず、実は厳しい人なのだ、と言った。

これはうまくない、と思った人は、情け容赦なく解雇する。
そういった厳しさのようだ。

優しそうで色っぽい外見と嚙合わないが、そこが村岡さんらしさなのかもしれなかった。

翌年、すぐ抜けるかも、と前置き付きで、1か月だけお手伝い仕事をした別れ際、
クネクネしてみせた村岡さんを思い出すたびに、なぜか可笑しくなってしまう。

東雲の仕事場まで、ドアトゥドアで2時間かかる。
とてもじゃないが、いまさら毎日通うのは苦痛だ。
千葉仕事があればそちらへ行く。だから、たぶん、もう戻ることもないだろう。

しかし、つい、なんとなく、また戻ってもいいかな、
と思うのは、やはり、あのオモシロ色っぽい態度の成せる技なのだろう。

それに、わたしは、マスクのせいで、村岡さんの顔を見たことがない。
いつか、誰もマスクをしなくなったころに、
マスクのない村岡さんと一緒に仕事をしてみたいのだ。

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