8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.27
                                                                                                                                 
 
 ブラック・レザー・レベル ― ジーン・ヴィンセント

 ウエーーーーーーーーーーーール・・・
             ビーバッパルーラ♪シーズマイベイベェ〜♪

目玉ひんむいて真似してみても、具合が悪い宍戸錠にしか見えない
オヤジ、頑固8鉄です。
 みなさんも一度くらいはくちずさんだことがあるに違いないこの唄、我が国でも、有名な50年代ロックソングの古典、「ビー・バップ・ア・ルーラ」。
ブラック・レザー・レベル(黒の革ジャンのツナギ、ワークブーツの不良スタイル)をロックンロールのイメージとして定着させた張本人、ジーン・ヴィンセントが、57年に唄ったこの曲は、ロカビリー音楽を代表する楽曲のひとつとして、すっかり世界中に定着しています。
ここの読者の皆様なら、とっくにぜーんぶ知ってるぜえー、と言われるどころか、下手なことを書くと、こことここが違うぜ、ベイベー!なんて言われかねない名ロッカーの中の名ロッカー、ジーン・ヴィンセント。

 1935年、ヴァージニア州ノーフォーク生まれの、ヴィンセント・ユージーン・クラドックこと、ジーン・ヴィンセントは、ラジオから流れるカントリー&ウエスタン、リズム&ブルーズなどを聴いて育ちました。
父は、片田舎で小さな雑貨店を経営していましたが、うまくいかず、生活するのが精一杯という家庭だったようです。楽器買ってもらうなんてとんでもない、っていう極貧家庭。
そんなある日、12歳だったヴィンセントは、友人からギターを譲り受けます。
この友人が、「ねえちゃんがギター鳴らしてうるさいから、このギター預かってくれよう。」と言ったとか言わないとか。
この姉思いじゃない身勝手な友達の思いつきのおかげで、ギターを覚えたヴィンセントは、好きなブルーズやカントリーを弾き語りするのが大のお気に入りになったのです。
しかし、ヴィンセントの本当の夢は、第二次世界大戦中、ボランティアで湾岸警備隊員をしていた父の栄光を継いで、海兵になることでした。きっと、誇り高い、素晴らしいお父さんだったのでしょう。
「おいどんは、海の男として、死ぬまで、がんばっていくですたい!!」
となぜか鹿児島弁で言ったわけないヴィンセントですが、1952年、17歳のとき、とうとう、高校を中退し、海軍に志願します。そして、ボイラー係として全商船に乗り込み、ポパイのように、一生海兵隊の一員として生きていく覚悟だったのです。

 1955年には当時の朝鮮戦争に参加、朝鮮(今の韓国)に滞在しますが、戦線にたつことはなく、無事に故郷のノーフォークに戻ってきたヴィンセントを、思わぬ不運が襲いました。
戦線近くでは、軍人として、運良く無事に過ごせていたのに、故郷に帰ったとたん・・・・・・・
大事故にあって大怪我をしてしまったのです。
基地の仕事で、バイクに乗って出かけた際、信号無視のクルマにはねられ、左足が修復不可能なほどのひどい怪我を負います。切断するのはなんとか逃れたものの、一生、不自由となってしまい、以後、常にひどい痛みに苦しめられる過酷な人生となってしまったのです。
病院で療養生活を送る間、もう海兵隊員として人生を送る夢をあきらめざるを得なくなったヴィンセントは、なんとか痛みとやりきれなさを振り払うかのように、大好きなギターと唄に熱中します。

そして、なんとか、大好きな水泳が出来るまでに回復したとき、ノーフォークにやってきた、ハンク・スノウのオールスター・ジャンボリーショウを見に行ったヴィンセントは、ミシシッピーから来たニュー・スター、エルヴィス・プレスリーを観戦します。



 「おおおお!!!これはすごい!!オレもこれを目指さなければいけん、ばってん!!」と熊本弁で言ったかどうかは知りようもないのですが、生きる夢と希望を新しく得たヴィンセントは、地元のラジオ局WCMSのカントリー番組にヴァージニアンズというバンドとともに、頻繁に顔を出すようになります。
そして、地元のDJ、テックス・デイヴィスがマネージャーを勤めることになったヴィンセント、自作の「ビー・バップ・ア・ルーラ」を発表。
続いて、デイヴィスが集めた地元のローカル・ミュージシャンたち、クリフ"ギャロッピング"ギャラップ(リードギター)、"ジャンピン"ジャック・ニール(ベース)、ディッキー"ビバップ"ハレル(ドラムズ  先日貴重なお写真をご提供下さった)、"ウイー"ウイリー・ウイリアムズ(リズム・ギター)をメンバーとする、バンド(後の「ブルー・キャップス」。(海兵隊の帽子にちなんで名付けられた)が誕生します。
 この全く無名のミュージシャンから成るバンドが、えっ??マジ??なんで??ってくらい、異常にうまかった。後に、わざわざ腕利きのセッションマンをたくさん用意してヴィンセントを出迎えた、キャピトルレコードのお歴々すら「え??なんで??うますぎじゃん・・。これじゃ、ベテランのセッションプロなんかいらねえや。みんな帰ってちょ!」って言ったくらいだったそうです。
特に、最年長(当時26歳)で、すでに熟練したカントリー・ギタリストだったクリフ・ギャラップ(ニックネイムのギャロップから、今日ではロカビリー・ギター全体を「ギャロッピング奏法」という人もいます。)は、わずか1年、全部で35曲しか参加していませんが、そのずば抜けて斬新なプレイとサウンドは、ヴィンセントが売れる大きな要素となり、後のロック・ギターの歴史全体に大きな影響を及ぼすことになります。(ジミー・ペイジの最初のアイドルはギャラップでしたし、ブライアン・セッツアーは、ギャラップそのままの奏法で有名になりました。)

 さて、そのころ、テックス・デイヴィスは、キャピトル・レコードのお偉いさん、ケン・ネルソンに会い、ライバルであるRCAのエルヴィス・プレスリーに対抗できるスターを探していることを知ります。
そして、テックスはヴィンセントとバンドをスタジオに連れて行き、「ビー・バップ・ア・ルーラ」、「レイス・ウイズ・ザ・デヴィル」などを録音、そのデモテープをキャピトルに送った結果、まったく相手にしようとしなかったキャピトル首脳陣をケン・ネルソンひとりがねじ伏せ、とうとう、1956年、キャピトルと契約を結びます。

 ついに、1957年5月、オーウェン・ブラッドレイのスタジオで、サウンドに工夫が凝らされた正式なレコーディングが行われ、新しく録音された「ウーマン・ラブ」と「ビー・バップ・ア・ルーラ」のカップリングシングルは、発売されるや否や、大ヒットとなりました。どこもかしこも、ラジオとジュークボックスから流れる「ビー・バップ・ア・ルーラ」だらけ。エルヴィスだと思った人も多かった模様で実際エルヴィスのおかあちゃまのグラディスさんもまでが我が子と間違えちゃったみたい。
「わははは!どうだっ!オレの目と耳はやーっぱ、正しかっただろうが!!」とケン・ネルソン、大いばりだったかもしれません。
「ビー・バップ・ア・ルーラ」「ウーマン・ラヴ」の飛ぶような売れ行きにすっかり気をよくしたネルソンは、再びヴィンセントとブルー・キャップスをスタジオ入りさせ、最初のアルバム「ブルー・ジーン・バップ」に収録された16曲を一気に録音。このときは、アグレッシヴな速いテンポのロック曲のみならず、ヴィンセントの独特のバラード歌唱とギャラップのギター伴奏に魅せられたネルソンが、旧いスタンダードナンバー「ペグ・オー・マイ・ハート」、「アップ・ア・レイジー・リヴァー」なども吹き込ませています。


 ところが、完璧順調な滑り出しだったのにもかかわらず、この後のキャピトルレコードのマネイジメントが非常にまずかった。ネルソン以外は、もともとヴィンセントを相手にしようとしなかった会社だけに、絶対にヒット間違いなしの完璧な出来映えである「レイス・ウイズ・ザ・デヴィル」は、会社のバックアップ戦略がまるでダメで、ヒットチャートの100にかろうじて食い込む程度。さらに、結婚していて、ツアーに出たがらなかったギャラップとウイリアムズがブルー・キャップスを脱退します。
 1956年秋には、20週間も続いた「ビー・バップ・ア・ルーラ」の売れ行きが鈍りだし、ヴィンセントは再び新しいレコーディングに迫られます。そして、「クルージン」、「ダブル・トーキン・ベイビー」などの熱狂的なロック曲、「インポータント・ワード」のような、良くできたバラード(ジョーダネアーズが参加)も録音。これらも全て、実に素晴らしい出来映えで、何一つ阻害要因などなかったはず。再び、大ヒットを飛ばせるか、と思った矢先、今度は、派手なステージングのハードな公演が続いて、どんなに頑張っても脚の痛みに耐えられなくなったヴィンセント本人が、ダウン。医療処置が必要となり、長い休養をとらざるを得なくなってしまいました。
また、ジャック・ニールもブルー・キャップスを脱退。1957年には、最年少のディッキー・ハレルしか残っていなかったバンドに(さすが、Mr.ディッキー・ハレル!) ディッキーポール・ピーク、ジョニー・ミークス、ビル・マック、そして、ハレルの友達でイタリア系のイケメン、トミー"ブッバ"ファセンダを加えてブルー・キャップスを立て直したヴィンセントは、エディー・コクランと出会い、意気投合、長期のツアーをともにしたり、バディ・ノックス、ジョニー・キャロルなどとの親交も深めていきました。新しいブルー・キャップスでは、ワイルドで新しいパフォーマンスを展開し、ライブ・パフォーマーとしては、後々に、イギリスで他に類のない道を歩んでいくことになる下地を作っていくのです。


 そして、そうした努力の甲斐あって、「ロッタ・ラヴィン」「ダンス・トゥ・ザ・バップ」がヒット。再び上昇気流に乗るのです。
続いて、1957年は映画「ホット・ロッド・ギャング」にも出演、ブルー・キャップスもメンバーがさらに入れ替わっていきますが、親友のコクランとともに、アルバム「レコード・デイト」を吹き込んだり、全米を含む世界ツアーに出ます。しかし、レコードによるチャート上のヒットは出ずじまい。もうこのころから、米国本国におけるヴィンセントの人気は、急激に落ち始めていたのです。
 主な原因は、キャピトルレコードの戦略ミス(ペイオイラ疑獄事件の関連で、ヴィンセントのレコードをラジオ局に売り込まなかった)とやる気のなさだったと言われていますが、流行が変わりだしていて、エルヴィスがハリウッドスターになって青春アイドル路線になったり、リック・ネルソンのような、もっとクリーンなポップ・アイドルが受ける時代になってきたのに、ヴィンセントは、当初の脂ぎった労働者階級的イメージを決して変えようとしなかったからだとも言われています。アメリカではそういうものを受け入れる時代ではなくなっていたのです。
1958年、とうとう、ブルー・キャップスは解散します。

 しかし、ヴィンセントはあきらめませんでした。ライブ・アーティストとしてのヴィンセントには、熱狂的なファンがついていたのです。ツアーを続けたヴィンセントは、1959年には日本にも来ています。(日劇ウエスタン・カーニヴァルに出演。ミッキー・カーティス氏などと共演した。)
50年代のオリジナル、ホンモノのロッカーで、日本に来たのは、ヴィンセントが最初で、すさまじい熱狂ぶりで迎えられたようです。
しかし、米国に戻ったヴィンセント、この時期には、「シー・シー・リトル・シーラ」が後年、英国でヒットした以外、米国本国ではまったくヒットが出ず、実質的にチャートからは完全に閉め出されてしまっていました。

 なんとか活路を見いだそうとしていたヴィンセントに、イギリスのコンサート主催者、ジャック・グッドからテレビ出演の話が来ます。
そして、出向いていったヴィンセントを待っていたのは、熱狂的な聴衆でした。
本人が知らぬ間に、ヨーロッパのロックファンの間では、ヴィンセントは、伝説化していたのです。イギリスではヒットがなかったからかえって伝説化していたとも言えます。イギリスのロックファンは、ヴィンセントを、レコード・ジャケットとスナップ写真とサウンドでしか知らず、「イカれたドロップアウトのワイルドなバイカー」そのままのイメージで見ていたのです。
ところが、実際に会ってみて、元海兵隊の軍人あがりで、極めて折り目正しい南部紳士であるヴィンセントの実像に気づいたのは、ジャック・グッド。しかし、ここで、グッドはグッドなアイデアを思いつくのです!
「ホンモノは全然違ったけど、みんなが思い描いている不良のジーンを、これから本人に演じてもらおう!!」
そして、ヴィンセントを、黒のライダーズジャケット(革ジャン)のツナギ、首からシルヴァーのチェーンを垂らしたバイカー・ファッションにし、スタジオにバイクまで持ち込んで、テレビ番組「ボーイ・ミーツ・ガール」に出演させたのです。この演出のおかげで、ヴィンセントはイギリスで大人気となります。
ロカビリーといえば革ジャンにバイク、というイメージは、実際には、50年代本国のアメリカにはなく、イギリスに渡って新しく演出を施されたヴィンセントから初めてそういうイメージが出てきたわけです。


 しかし、ここで、ヴィンセントを再び理不尽な不幸が襲いました。
1960年、エディー・コクランとイギリスツアー中、たまたま乗ったタクシーが自爆事故で大破し、大怪我を負ってしまいます。ヴィンセントはそれでもマシなほうで、同乗していたコクランは、帰らぬ人となったのです。
しかし、キャピトルとの契約切れも近づいてはいましたが、イギリスでの人気は衰えることなく、最も集客力のある最高のライブ・パフォーマーとして活躍します。しかし、レコードヒットには恵まれませんでした。
というのも、時はすでに、ブリティッシュロック流行の兆しが出てきているころで、アメリカでもイギリスでも、チャートはビートルズをはじめとしたイギリス勢がほとんどをしめるようになっていったからです。
ビートルズもヴィンセントの大ファンであったにもかかわらず、ヴィンセント本人は、食い扶持を稼ぐのもままならない状況に追い込まれていってしまったのでした。

1965年には、とうとう、アルコール中毒から、ひどい健康状態に陥り、隠遁生活に入りますが、引退して暮らせるほどの資金もなく、マネージャー、前妻がどんどんロイヤリティーを食いつぶしていきました。まだ、31歳で、人生まだまだこれからという時に、ジーン・ヴィンセントはどん底にいたのです。
1969年には、なんとかカムバック、再び、イギリスで活躍しますが、1971年、リヴァプールのクラブに出演後、イギリス人の前妻との扶助料訴訟に巻き込まれて、アメリカに逃げ帰ったヴィンセントは、アルコールの過剰摂取から来る潰瘍性出血のため、急死。わずか、36年のロックンロール人生でした。



 さて、ジーン・ヴィンセントは、そのワイルドなロッカーという伝説だけでなく、素晴らしく独創的で、個性溢れる真のアーティストでした。しかし、度重なる事故、たまたま居合わせた周囲の人間の理解のなさ、といった、自分に何の非もない不運に翻弄されて、厳しく険しい人生を余儀なくされてしまいました。
しかし、それでも、決して諦めたりはせず、また、決して、不用意に周囲におもねったりもせず、自分のスタイルを創り上げ、それを守りとおしたアーティストです。
もともと彼の人生を苦しいものにしてしまった、交通事故がなければ、ひとりの船員、ユージーン・ヴィンセント・クラドックは今でも生きているかもしれません。しかし、不運によって、彼は、世界的な伝説のロックンローラー、ジーン・ヴィンセントとして今日でも語り継がれ、聴き継がれる存在となっているともいえます。運、というのは不思議なものです。

 THE KINGは、ヴィンセントが50年代にいつも愛用していた、ハリウッドスタイルのパンツ、シューズなどを今に伝えつつ、その独自の路線を、ヴィンセント同様、守り続けながら、皆様とロック魂を共有する、そんなファッション・ブランドです。
不屈のロッカー、ジーン・ヴィンセントを愛する皆様の、THE KINGへのご声援もよろしくお願いいたします。


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