8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.25
                                                                 
    
                          
 
 ティーンエイジ・アイドル ― リッキー・ネルソン


 はっろー、めぇりぃ、るうー♪ ぐばい、はぁー♪

 とくちずさみながら登場する横山剣似のオヤジ、頑固8鉄です。
まあ、ケンさんもかっこいいけど、イケメン、というのとは、ちと違う。この唄「ハロー・メリー・ルー」をヒットさせたのは、50年代を代表する正真正銘のイケメンアイドル、リッキー・ネルソン。後にリック、と名前の綴りを換えましたが、50年代当時は、リッキーくんでした。
実は、これ、個人的にめちゃ懐かしい唄でして、なぜかってえと、わたくし、頑固8鉄が18歳のとき、初めて大きなステージ踏んだときに、最初に唄ったのがこれだったからです。(わたくしがイケメンだったというわけではありませんが!)

 50年代ロックの担い手であったスターたちは、エルヴィス・プレスリーを筆頭に、どちらかというと、貧しい家庭の出身者が多く、コネも正規の音楽教育もない、まったくの素人が、才能一発勝負で、突然、スターになったりするというのが珍しくありませんでした。
そんな中で、リッキー・ネルソンは、両親の出演するシットコム(コメディー番組)「オジー&ハリエット」の子役をしていた子供のころから、今で言う「テレビタレント」として、全国的有名人となり、そのまま、ロック音楽界に大きな足跡を残すことになったのでした。




 リッキー(リック)ネルソンは、1940年生まれ。シンガー、ミュージシャンかつ、ゴールデングローブ(ニューヨーク批評家協会)賞にもノミネートされた一流の俳優でもあります。
 当時、エルヴィス人気にあやかって、たくさん出てきたアイドルたちとは一線を画し、チャートで見れば、50年代後半から60年代初頭に50曲をトップ100に送り込んでいます。これをしのぐロック・アーティストはエルヴィス・プレスリーのみ。


 これは、ものすごい快挙であり、俳優がお遊びで唄ったらまぐれで当たった、というのとは違い、もっと旧い時代のビング・クロスビーやフランク・シナトラといった、歌手兼俳優に近いセレブだったといえるでしょう。

 ニュージャージー生まれのネルソンは、オジーとハリエットのネルソン夫妻の末っ子として、生まれながらに恵まれた環境で育ちました。両親は、全米の人気者であり、「オジー&ハリエット」という1944年から1954年(ラジオ)、1952年から1966年(テレビ)まで続いた人気番組を持っていました。そして、リッキーも兄のデヴィッドとともに、1949年(9歳)から、両親のラジオ番組で、プロのアクターとして活躍したのです。



 「貧しい家庭から単身で頑張って名を成す」という、アメリカン・ドリームとは、正反対のところにいる、生まれながらのお金持ち、ボンボンで、有名人の息子、というわけなのですが、そんなリッキーくんも、当時の大流行だった「ロック音楽」が大好きになり、子供時代からの知名度を活かして、そのまま「ロック・アイドル」となっていったのです。

 両親に、「僕もロックやりたいんだいっ!売れなきゃ、ぜーったい、やだいっ!」とまるでスネ夫のように言い張ったかどうか定かではありませんが、レコードをリリースするたびに、「オジー&ハリエット」で公開するという手法をとって、これがうまくいった。
ネルソンは、テレビをプロモーションとして用いた最初のティーン・アイドルだと言えます。

 最初のお披露目は、お気に入りのファッツ・ドミノの持ち歌「アイム・ウォーキン」(1957年)。これをテレビでやったところ大受けし、チャートの4位、ミリオンセラーとなったのです。それから、「オジー&ハリエット」では、番組の最後に必ずリッキーの唄で終わる、ということになりました。

 しかし、ネルソンは、単に流行の音楽を利用して、イケメンで金儲けだけしようと思っていた連中とは、全く違っていたのです。真剣に音楽が好きで、ティーン・アイドルになる以前から、もともとミュージシャンであるおやじさんの影響もあり、ギター、ドラムズ、クラリネットをマスターしていました。
さらに、ネルソンが尊敬していた、ジェイムズ・バートン、ジョウ・メイフィスなど、カントリー界の優秀なミュージシャン連中とつきあいがあり、特に、後のヒットは、ネルソンのレコーディングセッションに多く参加した、バートンのギターに負うところが大きいといわれています。バートンとの親交からもわかるように、リッキーの本当の音楽的インスピレイションの源泉だったのは、カール・パーキンズでした。
後に、「僕は、エルヴィスは大好きだったけど、カール・パーキンズみたいになりたかったんだ。」と語ったことがあり、ずいぶん、通好みというか、本当にロック音楽そのものを愛していた人だったのだなあ、ということがわかります。



 その後、最大のヒットのひとつ、「ハロー・メリー・ルー」(1957年)から「トラヴェリン・マン」(1962年)の間に、ネルソンは30曲をトップ40に送り込むという大活躍。また、ビルボードがホット100を創設した1958年のナンバー1ヒット第一号は、ネルソンの「プア・リトル・フール」です。

 ネルソンのヒットソングは、主に2種類の異なる音楽性の曲からなっていました。
ひとつは、「ハロー・メリー・ルー」、「イッツ・レイト」のようなアップテンポのロカビリー、もうひとつは、落ち着いたおとなしめの声質を活かしたバラードでしたが、「トラヴェリン・マン」、「ヤング・ワールド」「ロンサム・タウン」といった、バラードのほうでより大きな成功を収めたといえます。バラードものでは、自身を唄った「ティーンエイジ・アイドル」も良くできた曲で、ヒットしました。
どれもこれも、ネルソンのあまり広くない声域、いくぶん弱い声に合わせて、覚えやすいメロディーで作られており、さらに、カントリー・ギターにおける激シブ路線の代表格、ジェイムズ・バートンのサポートを受けていたこともあって、どれも大ヒットになったのです。このあたりは、ネルソンひとりの力というより、バックバンド、録音技術等の力も大変大きかった。しかし、やはり、そこはアイドル。ネルソンは、大スターだったのです。



 さらに、ネルソンは歌手として活躍しただけではありませんでした。俳優として、1959年に名作西部劇「リオ・ブラボー」に、ジョン・ウエイン、ディーン・マーチンとともに、主役のひとりとして出演しており、決してアイドルでは終わらない、見事な俳優ぶりでした。このあたりは、ガキの頃からテレビで鍛えた神童だった、といって良いでしょう。

1963年、全米のアイドルだったネルソンは、デッカと20年契約を結びますが、64年から始まるブリティッシュロックブームの中で、ヒットは途絶えていきます。
当たり前ですが、彼自身は、もう、10代のアイドルでもなく、次のスタイルを目指さなくては生き残れません。
そして、60年代半ばからは、脱アイドルを目指して、カントリー音楽界に本格的に転身を図りますが、非常に優れたミュージシャンを集めた自身のバンド(ストーン・キャニオン・バンド)の力もあり、カントリー・ロックのパイオニアのひとりとして、大きな影響力を持つアーティストになりました。いわゆる「カリフォルニア・サウンド」は、ネルソンの貢献なしには語れません。ただし、ヒットには恵まれず、ドサ廻りをして、50年代の旧いヒットを唄って生活費を稼ぐなど、決して恵まれた状況ではなかったようです。そんな中でも、ネルソンは努力し続けました。
そして、1972年、ネルソンはとうとう自作の「ガーデン・パーティ」でトップ40入りを果たします。ビルボードでは、1位となり、ゴールドレコードを獲得。これで名誉挽回かと思われたのですが、しかし、その先がなかった。
続くヒットが出ずに、50年代のような大活躍はとても望めず、私生活におけるトラブル(離婚、子供の養育権問題、借金)などもあり、ネルソンの人生は、かなり苦しいものになっていったのです。
せっかくの大ヒットの後も、小さなライブ会場をドサ廻りする生活から抜けられず、ネルソンは麻薬におぼれるようになります。

そんな荒れた生活が続く中、1985年、イギリスでの50年代ロック・リバイバル公演が成功、再び活路を見いだしかけた矢先、アメリカ南部を廻るツアーに出かけたネルソン一行を乗せたセスナが機械故障で墜落、一瞬のうちに、全員帰らぬ人となりました。たまたま、彼が最後に唄った唄は、同じく飛行機事故で亡くなったロック・スター、バディ・ホリーの「レイヴ・オン」だったそうです。

死後、1987年には、ネルソンはロックの殿堂入り、ハリウッドの殿堂入りしましたし、2004年には、ローリングストーンの選ぶ「最も偉大なアーティスト100」の91位に選ばれました。
そして、最近では、2005年、EMIレコードがリリースしたベスト盤が、ビルボードのアルバムチャートの56位になりました。

10代のころに、親の七光りでタレント・デビューしながら、真剣に音楽を愛し、単なるアイドルで終わりたくない一心で、努力し続けたネルソンは、「ガーデン・パーティ」で遂に念願かなって、自作の内省的なカントリー音楽で夢をかなえました。
しかし、結局、大スターだった50年代のティーンエイジ・アイドルの栄光を取り戻すことはできず、かつてのアイドルの面影をひきづったまま、悲劇的な事故死という結末を迎えてしまいましたが、死後20年以上たって、改めて再評価され、今日でも売れ続けているのです。

 ネルソンは、今、振り返ってみると、勝利者だと
いうことがわかります。最初から金持ちのボンボンだったからでも、ティーンアイドルとして成功したからでもなくて、たとえ落ちぶれてしまっても、自分自身の目標を達成したからです。彼は自分自身に勝つことが出来たのです。

 THE KINGも、リッキー・ネルソンと同じく、初心を忘れずに、頑固にTHE KINGならではのスタイルを創り上げてきました。それをこれからも続けられるかどうかは皆様にかかっているとのお事。
ここはどうかひとつTHE KINGへのご声援も引き続き、お願いいたします!


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