8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.2


ブルー・スエード・シューズ(カール・パーキンズ・ストーリー)

carl perkins
    2回目の登場、頑固8鉄でございます。

「人に人生あり」なんていうと、あたり前田のクラッカーですが、なんだか妙に「そうじゃのう」と納得したりする、そんなオハナシがあります。
「俺の青いいスエードのクツう、踏むなよなあ〜」なんて日本語で書くと間抜けな小学生の喧嘩のようですが、プレスリーが英語で唄うとなぜかかっちょいいロックになりますから世の中不思議です。
曲があんまりかっこいいので、「俺も青いスエードの靴を買ってロックするぜええ!」と近所の「靴流通センター」あたりを回ってみたものの、ダッサダサの「ゴルフおやじ靴」しか見つからずしょげてしまったようなあなたは、迷うことなく、THE KINGのブルー・スエード・シューズをゲットすべきです!!なにしろ、こいつは「モ・ノ・ホ・ン」ですからね!

carl perkins
さて、今は大昔の1956年4月、当時あったチャート(ポップ、R&B、カントリー)三部門制覇、すべてで全米トップという初の偉業を成し遂げた名曲、「ブルー・スエード・シューズ」。たいていの人に「プレスリーの曲」として記憶されていますが、作ったのも、ミリオンセラーにしたのも、THE KINGを愛する皆様ならご存知のとおり、カール・パーキンズ大先生!

1932年、ロックンロール音楽の創始者のひとり、カール・パーキングス、いや、これでは駐車場氏だな、パーキンズは、テネシーの極貧農家に生まれました。
当時の町役場がメチャいい加減なとこで、出生記録に「パーキングス」と誤植されてるんですよ。きっと担当者が駐車場代をどうやって払うかでアタマがいっぱいだったんでしょうね。
そんなことはどうでもいいんですが、パーキンズです。
この人もいわゆる「プア・ホワイト」家庭の出身。人種差別の激しかった当時のテネシーの片田舎で、兄弟そろって、黒人たちと一緒にコットン・ピッカーをしてたんですから、かなりなもんです。でも、これがパーキンズの音楽活動の原点になったせいで、後に南部のロカビリー、もっと後のカントリーロックを生むモトになるんですから人生わかりません。

いつも、わたつみをしながら、重労働の癒しとなっていたのは、同胞である黒人たちのブルース音楽です。
日本でブルースといえば淡谷のりこと相場が決まってますが、アメイリカアではブルースは代表的な黒人音楽。基本的にはギター1本で歌うので、わたつみ畑でもよく唄われてました。
カーター・ファミリー、デルモア・ブラザース、モンロウ・ブラザース、お染ブラザースといったように、ド辺鄙な田舎でバンドやるには、家族か兄弟がメンバーと相場が決まってまして、例にもれず、パーキンズの最初のバンドもずばり、「パーキンズ・ブラザース」。メンバーは、電気増幅したリード・ギターと唄がカール、アコースティックのリズムギターが兄貴のジェイ.、スラップのストリングベイスが弟のクレイトンという編成でした。後にロック化していったころ、クレイトンの友人で仏頂面のドラマー、W. D. ホランド(なぜかボンボン)が加入します。
「俺たちは、ジョン・リー・フッカー(黒人ブルーズギタリスト)みたいなエレクトリックなブルーズをビル・モンロー(ブルーグラスの父といわれるマンドリン奏者)風にやるのがお気に入りだったんだ。」と言うとおり、「ローレンローレン」とか「カントリーロ〜」とかいった感じとは全然違うことをやっていたわけで、後にロカビリーと呼ばれる音楽の原型だったわけです。

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そんなこんなのロックするわたつみ生活の中、パーキンズ一家は台所のラジオである曲を耳にします。
ヴァルダ(パーキンズのカミさん)「あ、あんたああ! ちょっと聴いてよ! これ、あんたのバンドにそっくりじゃん〜!」
カール「なんだべか? ありゃま、ホントだわ! こりゃあ、えらいこっちゃ!」
ということになりましたが、これは「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」のプレスリー版だったのです。
やってることがクリソツのエルビスを聴いたらいてもたってもいられない。「こりゃあ、俺たちもサンとかいうレコード会社に行くしかないねえってば!」ということになり、オーディションに向かいます。 そして、早速契約とはなりましたが、エルビスと違い、ゴツゴツとデカい、どっから見ても百姓らしい風貌、くそマジメな人柄、ドスの利いた強力な田舎っぺ声のパーキンズが吹き込まされたのは、正統派ヒルビリー。

   「オリジナル・パーキンズ・ブラザース」

ところが、そんな矢先の1955年は、ビル・ヘイリーによりロック時代の幕が切って落とされた年です。
同僚であるエルビスが大手RCAに引き抜かれていくことになり、「ようし、こうなったらおらたちが南部のロックサウンドを作り上げてやるだ!」といきごんだかどうか知りませんが、次に本格的にロックする2曲を吹き込みます。
ひとつは、音楽友達、ジョニー・キャッシュがコンサートの楽屋でしたヨタ話、「ダンスするときカノジョに新品の青いスエードのくつを踏まれたくないのか、へっぴり腰で踊ってる奴がいてさあ……」なんてところから生まれた自作曲「ブルー・スエード・シューズ」、もうひとつは後にビートルズが復活させ、「EからCに展開する曲なんて聴いたことがないぞ」と、まだガキだったころのクラプトンを感動させた斬新な構成の「ハニー・ドント」でした。



carl perkins
「サン・レコードのミリオンダラー・カルテット」(左から、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンズ、エルビス・プレスリー、ジョニー・キャッシュ)

明けて1956年、チャートに躍り出たパーキンズの「ブルースエード・シューズ」はぐんぐん上昇気流にのり、前述のように史上初の「3冠王」に輝きました。
そんなこんなのパーキンズ兄弟に全国ネットテレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」出演の話が舞い込みます。
古今東西、「笑っていいとも!」の例を見るまでもなく、こうしたテレビへの出演はゲーノー界で長続きするビッグチャンス。特に、当時は、今と違ってビデオもインターネットもない時代です。いくらシングルが売れたって、どこの誰だか誰も顔を知りません。全国ネットのテレビはまさに生命線だったのです。

ミリオンセラーにテレビ出演と、喜び勇んで遠路ニューヨークまで、車で向かった兄弟でしたが、えらいことになってしまうのです。
カミさん、じゃない、カミサマは何をするかわからない。 何をするかわからないといえばパーキンズ兄弟も同じです。なぜか一番運転がヘタクソと言われていたカールがハンドルを握った。途中、トラックとぶつかりそうになってよけようとしたキャディラックは電柱に激突、大破します。 死者は出なかったものの、3人とも大けがで病院にかつぎ込まれました。

そして、病院のベッドでギブスをしたまま、キャンセルになったエド・サリヴァン・ショーを見ていた兄弟の目に飛び込んできたのは、代打出演し、「ブルー・スエード・シューズ」を唄い踊るエルビスでした。 これを見た視聴者、怒り狂うものもいれば、失神するもの、チビっちゃうもの、大変な反響です。
RCA吹き込みのエルビス版「ブルー・スエード・シューズ」は、これをきっかけとしてチャートをかけ登り、パーキンス兄弟のオリジナルをけ落としてトップに躍り出ます。そして、何時の間にか「ブルー〜」はプレスリーの曲という認識が当たり前になってしまうというハプニングが起きたのです。

パーキンズ兄弟が退院し、復帰したころ、もうヒットを出せる余地は残されていませんでした。 第一、苦心して作った虎の子のヒットですら、もうパーキンズと結びつけてとらえられてはいなかったんですから。
さて、仕事にあぶれてしまったパーキンズ兄弟、その後しばらくサンに止まります。 全然スタイルを変えようとしませんでしたが、無理はない。あのコワモテのツラがまえでは、アイドルになるのは難しかったでしょう。 こうなったら、自分たちの音楽だけで勝負するしかない。
しかし、ほどなくして、兄貴のジェイ.が突然ガンで他界、弟のクレイトンは事故のせいで一生身体障害者となり、兄弟そろって酒浸りというドツボな生活が続きます。カミさんのヴァルダもスーパーでパートしたりして、一家は大変でしたが、有名になりそこねたおかげで、地元にとどまることが出来たカールは、家族一致団結して困難に立ち向かうのでした。

しかし、60年代に入っても相変わらず売れないローカルミュージシャンを続けていましたが、なにやら風向きが変わってきます。
63年ころ、世界中のロック音楽を揺るがせる大騒動が勃発。そうです。エゲエレスのちっぽけな港町リバプールから「ヤアヤア」なんて田中角栄みたいなあいさつしながらビートルズがやってきたのです。 本場アメリカのロックも世界のアイドル猛襲には勝てません。アレ? という間にポップ界はビートルズ及びもどきであふれかえりました。50年代に全盛を誇ったアーティストたちがつぎつぎ撃沈され、消えていくなかで、不思議な立場にたたされたのが他ならぬパーキンズです。
「僕はエルビスでなくて、カール・パーキンズのようになりたかったんだ。」といったのは50年代のアイドルのひとりリック・ネルソンでしたが、ビートルズの連中も同じこと言っていた。
実際にビートルズはパーキンズのヒットしなかった曲の数々から「ハニードント」「エブリバディ・トライング・トゥ・マイ・ベイビー」「マッチボクス」などをとりあげ、カヴァーとしてリリースしていました。ビートルズのファンとしては「かっこいい曲だわあ〜、さっすがビートルズうう!」という感じだったのでしょうが、今聴くとまったくパーキンズのオリジナルそっくりのカヴァー。
誠実なイギリス人の彼らは、自分たちのアイドルであるパーキンズをきちんと紹介したかったのでしょう。

carl perkins

←「カール・パーキンズとビートルズのポール・マッカートニー」

というわけで、ロックの開祖のひとりとして、また、埋もれた傑作の作者として、にわかに注目されたパーキンズ、ヨーロッパツアーなども舞い込みだすのですが、かなり重いアル中患者になっていたパーキンズ、 その後現れる後続ロックミュージシャンたちから、自分たちに多大な影響を与えた偉大なミュージシャンとして祭り上げられたものの、結局ヒットはとうとう出ずじまい。

しかし、もつべきものは友人です、70年代に入り、かつての同僚で今やナッシュビル・カントリー音楽界の大物になっていたジョニー・キャッシュが、「こりゃあ、あんまりだべよ。」と思ったか、パーキンズを専属ギタリストとして雇い入れます。
こうした中、パーキンズはアル中から必死の脱却を試みますが、キャッシュはじめ、回りが良い人達ばかりですから、見事に成功。
そして、その後、成人した息子たちと家族バンドを結成、空港ラウンジで演奏したりする地元のカントリー・ミュージシャンとして活動を続けますが、いつの間にか、次世代の音楽家たちの間では半ば伝説の男になっていました。
コレクター向けのサン録音フル・ボックス・セットがやたらに売れたり、グリル・マーカスといった研究家が「真に独創的な音楽家」として評価したり、全国一般紙のボブ・グリーンまでが「伝説の男」と銘打ってコラムでとりあげたりしだしたのです。

そうこうしているうちに、80年代、BBCテレビが、「ブルー・スエード・シューズ」という特番でパーキンズをイギリスに呼びました。息子たちとの自分のバンド以外で一緒にステージに出たのは、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、エリック・クラプトンといったパーキンズの弟子ともいえる有名ミュージシャンたち。
スタジオ収録のラストで、「俺はながい間ブルー・スエード・シューズばかりやってきたが、こんなに楽しく出来たのははじめてだ。」と男泣きする姿が多くの人々に深い感銘を与えました。 こうして一般にはあまり知られていない「伝説のミュージシャンズ・ミュージシャン」は広く知られるようになったのです。

90年代、「幼児虐待」「捨て子」といった社会問題に心を痛めていたパーキンズは、私財をなげうって、世界中のミュージシャンたちを中心に資金援助を求める慈善活動を始めます。
「カール・パーキンズ児童救済基金」の設立です。誠実なパーキンズの人柄を知る多くの心ある人々から援助が寄せられ、テネシー州知事のきもいりで現在でも活動を続けています。
90年代後半、体調を崩したパーキンズは喉頭ガンであることが判り、長い闘病生活に入りますが、力尽き、1998年に亡くなりました。生涯通じて、最も大切にしていた場所、家で家族にみとられながらの最期でした。

カール・パーキンズは、偶然の交通事故がもとで、エルビスのような大スターにはなり損ねてしまいました。しかし、名声や冨を追いかけようとせずに、家族と友人に囲まれて暮らす道を選んだのです。
パーキンズは、亡くなる直前の1997年、インタビューに応えてこんなことを言っています。

「みんな(エルビス、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、ジョニー・キャッシュ)、サンの連中はスーパースターになったのに、おまえはブルー・スエード・シューズのあとどっかへ消えちまって、一体何をしてたんだと言われるんだ。でも、うらやましいと思ったことはホントに一度もないよ。みんな才能があって大成功して大金持ちになったけど、同時に彼らが、家族や友人、子供まで失うのも見てきた。俺はマネージャーだって一度も雇ったことがない。ファンを閉め出す丘の上の豪邸もないが、俺のファンだっていう人とは気軽に会えるし、一緒に写真を撮ったり、楽しいよ。俺は、家族が一番大切だし、子供らに"いいパパ"だと言われるように全力を尽くしてきた。昔、兄弟でバンドをはじめてとてもハッピーだったし、今では子供らとバンドが出来てやっぱりハッピーだよ。俺は、あの中では一番ラッキーだったと思ってるんだ。俺は"ブルー・スエード・シューズ"のあと、"家へ帰った"んだよ。」

                                                          「晩年のカール・パーキンズ」↓carl perkins

BBCテレビでジョージ・ハリスンが、はじめてパーキンスを世間に紹介するかのように言った一言をもって今回は終わります。

"CARL PARKINS. EVERYBODY!!"

拍手は長い間やみませんでした。

 さて、今回のオハナシはいかがだったでしょうか?
人生、不幸なことも、後々に幸いに転じたりすることもあります。

ちょっと、THE KINGのブルー・スエード・シューズに足をすべらせて、そんなことも思いながら、街を歩いてみてください。
ロックの歴史だけでなく、あなたの人生も違ったものに見えてくるかもしれませんぞ。


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