8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.147


クリス・ストラクウィッツ〜ルーツ音楽最大の伝道師

 こんつあー、Gでございます。まるはち、ってなんか布団屋みたいですが。
前回、テキサス旅行記の中で、ちょっと触れたアーフリー・レコードとオーナーのクリス・ストラクウィッツについては、日本とも少なからぬ縁があるため、改めて記しておきます。
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クリス・ストラクウィッツは、ポーランドの生まれで、戦時下のドイツ占領下で育ち、戦後アメリカに移住してきた世代の人である。
最初に聴いたアメリカ音楽は、ジャズだったという。特にビリー・ホリデイ。
「なにしろ、あのリズムにとりつかれた・・もう参ってしまった。ノックアウトだ。あれは今まで聴いた中で、未だに最高だ。」
高校を出てすぐ、彼は、ジャズクラブと同時に、ライトニン・ホプキンスやハウリン・ウルフが出ていたリズム&ブルースショウをロスアンジェルスで観まくった。
軍隊に入り、1954年にオーストリアに駐在時もジャズを観まくった。アメリカ市民権を得て、バークレイに戻り、エンジニアリング、数学、物理学などを勉強した。同時に、彼はボブ・ギディンズについて、ジェシー・フラー(「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」が有名)などのレコーディングを手がけ、技術を磨いた。また、50年代の終わり、高校の教師も勤めた。
そして、1960年、アーフリー・レコードを立ち上げることになる。
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クリス・ストラクウィッツ:
「1960年、250枚プレスした、ブルーズマン、マンス・リプスカムのLPを友達と手作業で仕上げて売ったのが、そもそもの始まりだった。
マンスはテキサスで際だった活躍をしたブルースマンで、わたしがアメリカ南部を巡る旅に出ていたときに知り合った。その後、ライトニン・ホプキンスとも知り合ったけれど、彼をレコーディングするチャンスを逃したのが残念だ。
そもそも、アーフリーというネーミングを考えたのは、マック・マコーマックで、わたしは、なんだそれ?と言ったものだ。深南部でよく耳にするフィールド・ハラー(農作業のかけ声のようなもの)をレーベル名にしたんだよ。
当時出会った、ほとんどの黒人たちは、わたしが好きな、ラフで泥臭い、旧いタイプのブルースを、「ダウンホーム・ブルース」と称していた。わたしたちの目的は、流行とは関係がなかったこうしたダウンホーム・ブルースを、当時、フォークブームにつかっていたアメリカ都市部の若い白人たちやヨーロッパ、オーストラリア、日本にいるファンたちに紹介することだった。
もちろん、新しいリズム&ブルースを聴いていた若い黒人たちにも、こうした「貧困層の音楽」としてとらえられていた昔の音楽の歴史的な重要性を知ってもらいたいと思っていた。
さて、話が戻るが、最初のレコーディング旅行は、1960年の夏にイギリスのブルース研究家であるポール・オリヴァーとメンフィスで出会ったところに遡る。彼は自国のBBCでアメリカの旧いブルースマンたちのインタビューをまとめたラジオ番組を作るために、アメリカに来ていた。彼は20年代30年代にテキサスのフォートワースで録音したブルースマンのリストを持っていて、わたしは彼から頼まれて、ウエストコーストからテキサスに飛び、事前調査を始めた。そこで、リル・サン・ジャクソン、ブラック・エイスと出会い、さらにマンス・リプスコムをレコーディングするという幸運に恵まれた。
最初に金になったのは、アーフリーから出していた旧いブルースのLPではない。わたしの友人のエド・デンソンのつてで、カントリー・ジョー&フィッシュがわたしの家で録音したものが実質初レコーディングとなり、その後、なんどかレコーディングされ直したけれど、そのときの縁でわたしが版元になったいたので、カントリー・ジョーがその後有名になってから、その報酬を得ることが出来たのだった。

60年代の終わりころになると、ローリング・ストーンズが初期のブルース録音への興味を世界中に広げてくれたおかげで、わたしたちのレコードもどんどん売り上げが伸び始めた。わたしたちは、そのころ、アトランティック・レコードの協力で、ミシシッピの重要なブルースマン、フレッド・マクドウェルのフル・レコーディングをすることが出来たところだったが、ストーンズが彼の曲「ユー・ガッタ・ムーヴ」をアルバム「スティッキイ・フィンガーズ」でカヴァーした。正当なロイヤルティがフレッドに支払われるよう、わたしたちは弁護士と画策し、フレッドに、彼がこれまで観たこともないほどの印税、大金を手渡すことが出来た。ボニー・レイットもフレッドとツアーしたりレコーディングしたりして、彼の稼ぎに貢献した。

ところで、ブルースやロック以外にもわたしはたくさんのレコードを手がけた。まず、1964年、ライトニン・ホプキンスは奥さんの従兄弟のひとりを紹介してくれた。クリフトン・シェニエという男で、ヒューストンの小さなビア・ジョイントで演奏していて、わたしはすぐ翌日には録音することが出来た。
その後何年にも渡り、彼の驚くべき「ザディコ音楽」は、アーフリーのコンスタントな売り上げに貢献しつづけてくれた。残念ながら、アーフリーは彼をプロモート出来る十分な予算がなく、彼が本当に売れ出したのは、その死後のことである。世界が、やっと、音楽の天才シェニエが「ザディコの王様」であることに気づきだしたのはずっと後のことだったのだ。」
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1970年代を通じ、ストラクウィッツは、ブルースのレコーディングも続けた。その中には、ビッグ・ママ・ソーントン、エリザベス・コットンなども含まれる。
さらに、彼は、ノルテーニョ音楽が好きで、メキシカンーアメリカン(テックスメックス)音楽とメキシコ音楽のレコードの、個人として最大のコレクションを所持していた。
アーフリーとして最初にレコードをリリースしたこの手の音楽は、メキシコ北部のグループ、ロス・ピンギーニョス・デ・ノルテのアルバムで1970年のことである。その後、最大の大当たりをつかんだのは、1986年、テキサスのフラコ・ヒメネスがアルバムでグラミーを受賞したときだ。
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クリス・ストラクウィッツ:
「クリフトン・シェニエ以外に、もうひとりの傑出したアコーディオン・プレイヤーは、サン・アントニオのフラコ・ヒメネスで、アーフリーの中でもよく売れた。とうとう、「アイ・テ・デホ・エン・サンアントニオ」では、グラミーを受賞した。
サン・アントニオは、いつもミシシッピやルイジアナからの帰り道に寄っていたのだが、この地の「メキシコ音楽」が、アーフリーの主な聴き手であるブルース愛好家たちに売れるだろうか、いつも不安に思っていたものだ。サン・アントニオのたくさんの優れたアコーディオン・プレイヤーたちの中で、フラコは当時カリスマで、そして、スターになった。そして、フラコは世界中に、コンフントとノルテーニョ音楽を紹介した。わたしはフラコの音楽を何度か聴くチャンスがあったが、そのときは、メキシコ音楽につきもののコーラスは重要ではないと思っていた。アコーディオンに注目していたのだ。後にレス・ブランクがドキュメンタリ映画「チューラス・フロンテラス」を撮ったとき、ライ・クーダーという若いギタリストがやってきて、すぐにフラコの音楽に夢中になった。そして、わたしに、彼のアコーディオンがどれほどすごいかを教えてくれたのだ。どんなジャンルのアーティストとでも渡り合えるだろうとも言っていた。わたしは、ピュアでローカルなコンフントサウンドを好んでいたが、ライは、フラコをツアーに連れ出し、ピーター・ローワン、ドワイト・ヨーカムといったカントリーの連中からイギリスのローリング・ストーンズまで、様々な音楽界の連中と共演し、活躍するきっかけを作ったのだ。」
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ストラクウィッツの、もうひとつの最大の商業的成功は、ケイジャン音楽のマイケル・ドゥーセのボーソレイユだった。
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クリス・ストラクウィッツ:
「アーフリーで最もコンスタントに売れているレコードに、マイケル・ドゥーセと彼のケイジャン・バンド、ボーソレイユがある。マイケルのフィドルにはやられたね。彼はアーフリーに最高のレコーディングを残してくれた。ケイジャン音楽は、1960年に初めて観て以来、ずっとお気に入りだった。」
その後、アーフリーは1976年にメイル・オーダーをスタートさせ、家内工業的なものかられっきとしたレコード会社に変わっていった。このメイルオーダー部門は後に立ち上げた本人であるフランク・スコットに売却される。しかし、実店舗は保持した。今日では、ブルース、ジャズ、テックスメックス、ザディコ、ケイジャンといった音楽に詳しいエキスパートがそろって運営をしてきている。
「わたしは、大手がものすごい巨額の宣伝資金で売り出すスターより、ローカルなたくさんのミュージシャンにばかり焦点を当ててきた。今現在も録音を続けているが、旧い78回転レコードの権利も取得して、CDにまとめ直し、誰もが聴けるようにしたりもしている。流行や他人の意見など関係ない。要するに、わたしは自分の耳だけを信じてきたのだ。」

日本にも少なからぬ・・と言いましたが、ご本人もおっしゃっているとおり、アーフリー・レコードは昔から日本にも届いており、わたしたち日本人で、旧いアメリカのルーツ音楽、特に、ブルース、ケイジャン、ザディコ、テックス・メックス、ニューオリンズ・ジャズなどのファンのほとんどは、クリス・ストラクウィッツに恩義があります。一家に一台パソコンがあったりインターネットがあったりする今日と違い、テレビはおろか、FENラジオでも流れることがなかった「アメリカの草の根の音楽」を我々が知り、そしてファンになり、多くの楽しみを与えてくれたきっかけの多くは、彼のアーフリー・レコードがもたらしてくれました。採算など度外視してまで、地球の裏側にある日本にも、こうした音楽を届けてくれた彼のような人の情熱が本当の草の根音楽文化を支えているのです。


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