8鉄風 ROCK COLUM by 8TETSU Vol.121
                                                                                       
      
         カントリーとR&Bを繋ぐ大作曲家- アイヴォリー・ジョー・ハンター
  

どうも、みなさん、こんにちわけめがない髪型、8です。
人間、50も過ぎると、あちこちガタがくる。。なんて話をすると、まるで、あたしゃさんみたいですが、自慢じゃないけど、
ガタきまくりですよ。
そもそも、ヒトは、進化のスピードから見れば、あまりに急激に2足歩行したらしく、そのせいで、重力に勝てずに壊れちゃう部分が結構あるそうです。脊椎狭窄症とかだけでなくて、重力負け系の最悪は脳卒中。あと、進化の過程でなりやすくなったのが、ガンであるとか、、
え?なあに?ロッキンな話?なんだそれ?
あ、そうか、ここはthe kingのページの中だった!
というわけで、いきなりですが、アイヴォリー・ジョー・ハンターをご存じですか?

太ったトニー・谷?とんでもない!
この人なんと190センチを超える巨体。あのビッグ・ジョー・ターナーよりさらにプラス10センチくらいのR&B界の横綱、曙でございます。(ホント!)手なんかでかいのなんのって、片手で全部のピアノ鍵盤を押さえちゃうくらいです(嘘!)

ま、そんな与太話はさておき、1914年、テキサス生まれの、リズム&ブルース・シンガーで、作曲家、ピアニストのアイヴォリー・ジョーは、ブギウギピアノとブルージーな歌で、R&Bで大活躍。

主に40年代のことでありました。50年代に入ると、「シンス・アイ・メット・ユー・ベイビー」(1956年)でもって、カントリー界でも知られるようになり、結局、当時のチャート上の人種間の壁を乗り越えて、R&Bの世界と同時にとグランド・オウル・オープリー(カントリー界の最も有名な番組)やモンタレー・ジャズ・フェスティバルにジャズマンとして出演し有名になるなど、ジャンルを飛び越えて活躍した、最初期の黒人アーティストとなったのです。これぞ、6!、もとへ、ロック!であります。


テキサス生まれのアイヴォリー・ジョー・ハンターは、あ、ちょっといいすか、いちいち、アイヴォリーって打つのがめんどくさいんで、単に、ハンターさん、にしますね。なにしろ、長い名前なもので。といっても、なんとなくステージネームっぽい響きと違って、本名なんだそうです。
えー、そのハンターさんは、ギター奏者のお父さんとゴスペル歌手のお母さんという音楽一家の生まれ。わずか13歳のときに、ピアノの神童と言われ、ティンネイジャーだった1933年にはすでに、有名なアラン・ロウマックスによる、国立議会図書館用レコーディング吹き込みもしています。
1940年代にはいると、ラジオ出演とレコーディングによって有名になっていったハンターさんは、テキサス州ボーモントのラジオ局で自分の番組を持つまでになりました。その後、42年にロス・アンジェルスにお引っ越し。当時人気のあったR&Bコンボ、ジョニー・ムーアのスリー・ブレイザースに加入しました。そこで書いたオリジナル曲、「ブルーズ・アット・サンライズ」が1945年、R&Bチャートで全国ヒットになります。

ハンターは自分のレコードレーベルも立ち上げますが、47年には、大手のキングレコードに吹き込んだ「アイ・クイット・マイ・プリティ・ママ」「ゲス・フー」が大ヒット。バックを勤めたのは、デューク・エリントン・オーケストラのメンバーたちという豪華ぶりにハンターさんの人気ぶりがわかります。

1950年、自作曲の「アイ・オールモスト・ロスト・マイ・マインド」がR&Bチャートのトップになりました。さらに、これのカヴァーを白人アイドル歌手のパット・ブーンが吹き込んで、ポップチャートの第1位となり、とうとう世界ヒットに。

続いて出した「アイ・ニード・ユー・ソウ」もR&Bチャート2位になり、その曲調からカントリー界からも一目置かれる存在になりました。そして、ラジオだけでなく、自身のテレビショーまで持つようになります。
そして、ロック時代に入った1956年、とうとう、R&Bとポップのクロスオーバーヒットの名作「シンス・アイ・メット・ユー、ベイビー」が出ます。
1957年にメンフィスを訪れたときは、エルビスの自宅に招かれ、ともに、歌を歌って楽しい時を過ごしました。このとき、ハンターさんは、若きエルビスを「神がかったほど偉大な才能の持ち主」と評しています。
その後、エルビスは、「アイ・ニード・ユー・ソウ」をはじめ、ハンターさんの曲をたくさん吹き込んでいます。
「エンプティ・アームズ」「イエス、アイ・ウォント・ユー」といったポップなバラードでもって、ハンターさんはその後も活躍するのです、1959年の「シティ・ライツ」を最後に彼の人気は衰えていきました。
1960年代の終わり、彼がカムバックしたのは、カントリー界。グランド・オール・オープリーの定期的な出演で、人気者になっていたのです。
もともと、ハンターさんのテレビショーでデビューしたソニー・ジェイムズが1969年に「シンス・アイ・メット・ユー、ベイビー」のカントリー&ウエスタンバージョンでカバーし、カントリー・チャートのトップになったことから、ハンターは久々にアルバムをリリース。1974年に肺がんで亡くなるまで、カントリー音楽界の人気者としてメンフィスで活動しました。


30年代から渋いリズム&ブルースの作曲家、ピアニスト、歌手として大活躍したアイヴォリー・ジョー・ハンター。ロック時代にはいって、ポップ・チャートでも活躍し、ロック界でも尊敬された点は、最初にロック・アイドルになったリズム&ブルースの重鎮、ビッグ・ジョー・ターナーと似ています。しかし、もともとの出身であるカンザスジャズ界にとどまって、活躍しつづけたターナーとは違い、R&Bとはほとんどつながりがなかった正当派カントリー音楽の世界で人気ミュージシャンとしてその生涯を閉じた、というところが違うところ。
眼鏡で禿げたいつも笑顔の大男のおっさん・・・そういうイメージのせいか、地味な目で観られがちのハンターさんですが、その素晴らしい功績と名曲の数々はもっと讃えられてもいいのではないでしょうか。




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